▼ 彼との出会い

心の奥底深くに眠る、恐らくは我(私)の記憶。
思い出したくはない、と我の心は必死に訴えかけるのに、無情にもそれは我の中でぐるぐると蠢いて、生きているかのように存在した。

ひとつの鍵が開きそうになったとき。
我は必死に逃げ出した。
血に飢えた獣のようないくつもの瞳、いくつもの血に塗れた骸。
我も同じような瞳をすることはあるけれど、周りに転がっていた骸を踏み潰すことも出来ないが、それらを悪と判断することは出来た。

だから我は、逃げたのだ。
本能が、ここに居てはいけないと。
そう訴えかけたから。

何度も転び、何度も血を流した。
けれど足を止めず、船などに乗って我は遠くの地まで逃げたと言うのに…。



「(ここまで、か…。)」



飲まず食わず、ならまだ耐えられるが、我もあの狂ったバケモノと同類。
つまり、血に飢えてしまい、そしてなおかつ飲まず食わずだったのだ。
我の体力は、限界をとうに超えた。

この周囲一帯には膨大な妖力を感じる。
恐らくこのまま意識を失えば、その妖力の持ち主に簡単に殺され、食われるだろう。
それは解ってはいたものの、幼い我は体力も無いこともあってギリギリのところでしか意識を保っていられなかった。



「なんだ?」

「(…終わりか。)」



どうにかして逃げなければ。
そう思うのに、身体は動いてはくれなくて。
近付いてくる気配に逃げることも出来ず、死を覚悟したときだった。

ふわりと感じたのは、浮遊感。
朦朧とする意識の中で見えたのは、見たこともない不思議な面。

敵意は、感じない。
それだけで緊張の糸は切れてしまい、我の意識は深いところまで落ちてしまった。







どれほど眠っていたのだろうか。
視界に広がるのは、和に満ちた天井。
こうして覚醒している、ということは殺されてはいない、ということだ。

力の出ない身体を必死に起こすと、その瞬間に側にあった扉が開いた。
油断していたこともあってか、その気配に気付けなかったことでビクリと身体が震える。

殺される…のだろうか。



「起きたか?」

「………。」



現れたのは、恐らくは食物が乗せられた盆を持っている我を抱えた人物。
よく見ると手は獣のようであったが、殺意も感じられないのだ、我を食う気はないらしい。

返事をしない我を見て、肩を竦めたあと目の前に食事をコトンと音を立てて置く。
我にも警戒心と言うものはあるので、目の前に出されたものをジッと見つめていると「そんなに警戒しなくても毒なんざ入れてねぇよ」と笑いを含んだ声で言われた。

今までが今までだったのだ。
素直に信用したくはなかったけれど、ずっと飲まず食わずが続き、血にも飢えていた我の身体は驚くほど素直で。
奴を一瞥したあと、食事に手を伸ばした。



「おいおい…箸も使えねぇのか?」

「…?」



ナイフもフォークもないので仕方なく手掴みで食べると、目の前の男は呆れたように二本並べられた棒を指差した。
これが奴の言う箸、なのか?

手を拭かれたあと、箸の使い方を教えられてようやく食事にありつく。
箸とはナイフとフォークと違って使い辛く、食べにくいものだった。



「俺は狒々だ。おまえの名前は?」

「………名前は、知らない。」

「ワケあり…ってことか。」



名前は、ある。
だけど、それを使えば奴らから解放された気にもなれなかったから、捨て去ったのだ。



「じゃ、今日からおまえの名前はマイカだ。」

「…マイカ。」

「ああ。いい名だろ?」



狒々と名乗った男はしばし考え込み、閃いたと言わんばかりに我の新たなる名を口にした。
新しい名を復唱すれば、至極嬉しそうに…否、楽しそうに「いい名だろ」と言う。

楽しそうな狒々と名乗る男と、戸惑いを多く感じている我との不思議な空間。
これが、狒々様との出会いだった。


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