熱気の籠る薄暗いトンネルの中を、憲紀は慎重に進んでいた。
一歩踏み出す度に熱気で視界が揺らぎ、全身から汗が吹き出す。

普通の人間ならとっくに倒れているだろうが、憲紀には生得術式である赤血操術を使うことで皮膚表面に血液を集めて皮膚温度を上げ、体の熱を逃すことができていた。

ただ汗による脱水の量が多過ぎる。もって十分といったところであろう。
それまでにこの熱気の元凶である呪霊を倒す必要があり、それが憲紀に課された任務である。

「何故こんなことに……」と珍しくも、常に任務に真摯に対応している憲紀が内心不満にも似た複雑な感情をぶつける。
それほど外出中に任務に呼び寄せられたことをよく思っていなかった。勿論加茂家次代当主として任務は完璧にこなすつもりではあるし、人助けとしていついかなる時でも任務に駆けつけたいと思っているが。
ただ今回に限っては間が悪すぎた。

本来なら憲紀は今頃許嫁であるナマエと嵐山の竹林の小径で散歩でもしているところであった。それも仲睦まじく手を繋いでだ。
手を繋ぐようになったのは、映画を観た後思い掛けずにナマエを抱き締めてしまったのだが、それをきっかけにナマエとの距離感が近くなったからだ。
その流れで嵐山を観光したいと言うナマエを連れ、遅くまでずっと一緒にいるはずであったが、嵯峨の清滝トンネルで発生した呪霊による事故のために急遽現場へ派遣されたのだった。

それに加えて、この地区の監視担当の仕事の甘さには許しがたいものがあった。そもそもこの清滝トンネルは有名な心霊スポットであるが故に呪いの吹き溜まりやすい場所である。その為常に窓や地区担当の監視下にあるのだから、人命が失われる前に呪霊が発生したことに気がつくべきであった。守れた命を助けられなかった地区担当の監督不行き届きの罪は重い。

その現場監督の事前に調査した情報によると、呪霊は術式を所持していると推測される為に等級は準一級以上で、憲紀の等級より上の一級の可能性もある。恐らく術式によって清滝トンネル内にて車を爆破させたという。現状煙は落ち着き、一酸化炭素中毒の恐れもないことは確認済み。あとは呪霊本体を祓うのみだが、トンネルの入口の気温が摂氏七十度を超えていることから、呪霊の術式は恐らく炎や熱関連であることが予想される為に慎重さが求められる。
この任務を遂行するには呪霊が最低でも準一級以上と見込まれることから、一級術師、最悪同等級であり、環境適性のあるメカ丸、もしくは体温の調整が可能な憲紀しかいなかったが、いかんせん一級術師もメカ丸も別の任務にあたっていた為に出先である憲紀が呼ばれたのだった。

この任務への適性があるから派遣されたのはいい。納得のできる理由だ。ただ問題は制服でない為に動きにくく呪力による攻撃には無防備な上、自身の血を抜いて保存した血液パックがないことだが、やるしかない。
憲紀は早く許嫁の元へ帰ることを想像するが、足取りはあくまで慎重に、ゆっくりと熱源へと近づいていく。

コツン、と革靴で何かを蹴った。暗くてよく見えないが、恐らく爆破された車の破片である。
即座の判断で補助監督から「何もないよりはマシだろう」と受け取ったナイフを使い、指の腹を薄く切り、破片に血を流した。
己の血のまとった破片を赤血操術で操り、強い呪力の源へとぶつける──トンネルの奥で赤い火花が散り、金属が地面を穿つ固い音が響いた。

「少々面倒だな」

準一級術師として数々の任務をこなしてきた憲紀は加茂家相伝の術式を駆使して近距離、中距離、遠距離と、あらゆる場面に応じて自分が一番優位に立てるように戦うことができていた。
ところが、今回ばかりは多少のリスクが必要になるようだ。

顎から滴る汗を手の甲で拭い、すーっと熱い空気を肺へ吸い込み息を吐く。熱気の籠もった空気は体内まで焼けるようで、呼吸器系の損傷が気にかかる。長くは呼吸していられない。
自分の体調を考慮して勝負は数手でつけるしかない。

憲紀は意を決して走り出した。







呪霊は術式を持っている為準一級以上、或いは一級の可能性もあると見込まれていたが、実際の運動能力は二級程であった。とはいえ、炎を使う術式によって呪力による攻撃を防がれる可能性も考慮し、出力を最大限に上げた呪力攻撃で片を付けた。

呪霊が消え去ると、辺りの気温が一瞬にしてもとに戻り、憲紀はなんとか血圧操作をすることで急激な環境の変化から体を守った。
並みの術師であれば、ヒートショックで体に支障をきたしていただろう。

トンネルを出ると、憲紀を送り出した時と同じく、補助監督とともに結界の中でナマエが待っていた。トンネルの外は摂氏五十度程であったが、ナマエはずっと車の外で待っていたのか、暑そうにして髪を片側に流し、白い首筋をさらしている。

 「憲紀さま……!」

ナマエは手に飲料を幾つも抱え、ワンピースの裾を揺らしながら憲紀へと駆け寄る。

「お怪我はありませんか?凄い汗ですが、大丈夫ですか?補助監督さんが替えのお洋服をお持ちしましたので是非お着替えになってください。きゃあ!血が!血がでております!急いで手当てしましょう!あ、これは憲紀さまの為にご用意したコーヒーです。ぬるくなってしまっていますがよろしければ……」

心配そうに眉を八の字に垂らし、自分の為に色々と世話を焼こうとしているナマエは可愛らしいが、状況に適していない飲料を与えようとするのは流石の憲紀も困った。

激しい呪力の消耗、脱水によるふらつきで、頭の巡りが悪くなっていた為に、憲紀は他の高専の仲間たちに接するようないつもの調子で言ってしまった──

「脱水で私を殺す気か?」と。

その瞬間ナマエの顔から一切の表情が消えた。



 ◇



補助監督の運転する車で病院に寄った憲紀は適切な治療を受け、高専に戻り、寝床についた。
高専に戻るまでの間のナマエはずっと憲紀に付き添っていたが、悲し気な顔をしていた。本人は口では「常識に欠けていました」と反省の意を示していたが、実際は反省というより、傷ついているような様子であった。

憲紀はナマエになんと言ってやればよかったのか適切な考えがあまり思い浮かばなかった。ただ傷つけるつもりはなかったといえばいいのか、謝れば済む話なのか。
幼き頃から呪術界で育つ子は皆並みの人間よりもずっと精神年齢が高い傾向にあるが、蝶よ花よと育てられたのだろうか、ナマエはまだ幼いところが目立ち、対処に悩まされる。むしろ、「このくらいで傷ついていては加茂家次代当主の嫁は務まらない」と叱咤する方がナマエの為になるのかもしれない。いや、そんなことを言えば、あの時のように泣かれる可能性がある。

せっかくナマエとの距離が縮まったというのに振り出しに戻った気がした。とても残念なことだ。

また出歩きに誘えば、楽しそうにするナマエが見られるのだろうか。自然と手を繋げる仲に戻れるだろうか。

憲紀は悶々とそんなことを考え、なかなか寝付けないでいた。病院での仮眠の影響もあって余計に眠気が覚めている。

このまま問題を引きずるのは精神衛生とナマエとの関係に良くない影響を及ぼすと判断し、言い方がまずかった、とナマエに一言伝えにいくことにした。

廊下を出てナマエの部屋に向かうと、ナマエの部屋の前で新とナマエが話しているところであった。
ナマエの手にはノートがあり、何か授業に関する要件で話しているのかもしれないが、夜に他の男と話しているのは面白いものではない。

「ナマエ」

「憲紀さま……お加減はいかがでしょうか?」

自分を見る度に顔を輝かせていたはずのナマエの表情が曇るのを視認し、憲紀はやはり謝るべきであると確信した。

「特に問題ない。新田、私はナマエと少し話をしたいのだがまだナマエに用があるのか?」

「担任から返されたノートを届けに来ただけなんで、俺はもう行きます!今日の任務、お疲れ様でした!お休みなさい!」

新は気を利かせたのか、憲紀を恐れているのか、一方的に捲したて、走り去っていった。
そんな新の後ろ姿を驚いたようにナマエは見つめていたが、ふと憲紀に視線を移し、「何か御用でしょうか?」と小首を傾げる。

「今日のことを話に来た。少しいいか?」

「はい。中へどうぞ」

ナマエに誘われるままに部屋に入った。

「お身体に障りますので」

と、ベッドに座るように促されたが、本当に二言三言話したら戻るつもりでいた為に断った。

ナマエの夜着は浴衣ではなく、裾がフリルになっているロングワンピースドレスの上にパーカーという格好になっていた。パーカーはどこか既視感がある淡い色の、暖かそうな素材のものだ。
要件を伝えるだけで会話を終わらせるつもりであったが、まず格好の方が気になった。

「夜着を変えたのか?」

「はい。パーカーは西宮さんとおそろいです。このワンピースも同じお店で買いました」

ナマエはそう言ってワンピースの生地を摘んでみせた。
淡いピンク色の生地に大判の薔薇のプリントがされていて、ナマエの上品な雰囲気にぴったりだ。

「よく似合っている」

素直な感想をこぼした。別に酷いことを言ってしまった罪滅ぼしではない。
思えば今日の外出着である英国風のクラシックワンピースもナマエによく似合っていて、とても可愛らしかった。和服のナマエもいいが、ワンピース姿のナマエもいい。

「あ、ありがとうございます……」

ナマエは頬を赤く染め、視線を床に落とす。
自分が好意を示す度に照れを見せるのは嬉しいものだが、こちらがあまり良い態度ではない時にもはっきりと悲しそうにするのだからナマエの素直さは一長一短である。
だからこそ、ナマエには自分のことを理解して欲しい、と憲紀は考えている。

「私はナマエが想っている以上に、ナマエを好いている。ナマエを傷つけることを目的としたことは口にするつもりはない。それはわかってくれるか?」

「勿論です。あの時のことでしたら、わたしの配慮が欠けていたので憲紀さまは当然のことを仰られたと思います。そのことでわたしを気にかけてくださるなんて……憲紀さまのお優しさに感謝いたします」

「……大袈裟だな」

「大袈裟ではございません。こうして、憲紀さまがわたしを気にかけてくださっていると知ることができてわたしは幸せで幸せで仕方ありません」

瞳を潤ませ、熱っぽく自分を見つめるナマエの媚態に、憲紀は困惑した。
あまり意識しないようにしていたが、自分を拒否することなど想像もできない程に、ナマエは自分を好いてくれている。その上、ナマエの考え方にはどんな自分も受け入れてくれるような心の広さを感じられる。

その所為で保っている理性が揺すぶられ、あの日、ナマエを強く抱いてしまった時のことがまざまざと思い出される。もう二度とあのような心の通わない行為はしたくない。もう一度やり直し、今度は体を労り、呼吸を合わせ、優しくナマエを愛してやりたい。

ただ残念なことにそのきっかけがわからず、呪力消耗の激しかった体にそれだけの余裕は残っていない。ナマエも帳を降ろすのに呪力を使ったであろうから、今日は互いに休むべきだろう。

「私はいつもナマエを気にかけているつもりでいるが、その余裕がない時もある」

「はい。憲紀さまが時折わたしのことを思い出してくださるだけでも、わたしは幸せにございます」

「……要件は伝えた。私はもう寝る。今日は呪力消耗が激しかったからな」

「憲紀さま……!」

憲紀が背を向けたところ、いつかのようにナマエに浴衣の袖を掴まれた。刹那、心臓が大きく鼓動する。
以前もあったことであるが、急に接触してこられるとどきりとさせられる。

「どうした?」

「あ、あの……わたしも帳を降ろして呪力を消費したのですが、少し休んだら余裕がでてきまして……わたしの術式はどんな方にも受け入れられるもので……つまり、憲紀さまに呪力を注ぐことができます」

「新田にやったようにか?」

憲紀の脳裏には、ナマエが新の手に触れていた光景が過る。悪気があって聞いたわけではないが、その言葉に嫉妬が含まれていないとは言い難い。

「そうですが……新くんから聞いたのですか?」

「……聞いてはいないが、知っている。手を使うのか?」

「わたしは手を使いますが、触れる箇所はどこでもいいのです。ですが、勝手を考えると手が一番いいでしょう」

そう言ってナマエは両手を広げる。

「ナマエから呪力を奪うようなことはしたくない」

「それではデートの御礼だと思ってお受け取りください。本日はとても楽しゅうございました」

「礼などはいい。私も楽しんでいたからな」

「ですが、交通費から拝観料、御朱印代、食事代や映画代と、全て憲紀さまが払ってくださいました。わたしから何か御礼がしたいのです。どうか受け取ってくださいませんか?」

「……ナマエの術式には興味がある。だが、今でなくとも──」

「憲紀さま、お願いです」

ナマエに潤んだ瞳でじっと見つめられると、流石の憲紀も断ることはできずに右手を差し出した。
ナマエのしなやかに伸びる細く、白い指が憲紀の手を捉える。
接地面から感じるのはナマエの肌の表面のひんやりとした冷たさと滑らかな感触で、出歩きの際に少しの間手を繋いでいた時のことが思い出される。

「『──零型』……」

ナマエが小さく呟くと同時に呪力がゆっくりと接地面を伝って体に流れ込んでくる。

呪力を注がれるということは、負のエネルギーを注入されるということ。つまり、あまり心地の良いものではないと思っていたが、まるで最初から自分のものであったかのようにナマエの呪力が身体に馴染み、活力が漲ってくる。それに決して自分で呪力を練っているわけではないのに呪力量が増えている。

「ナマエ、もう大丈夫だ。離していい」

「はい。どうですか?」

「呪力ばかりでなく疲労も回復したようだよ。感謝する。手は離していい」

「よかったです……」

「……離していいのだが?」

「……」

何故かナマエは黙ったまま手を離したがらなかった。
憲紀の手を掴んだままそっと長い睫毛を持ち上げて憲紀を上目で見つめたかと思うと顔を赤くさせて俯いた。

憲紀には何が何だかわからなかったが、恐らくナマエなりに言葉に出さず、何かを伝えたがっているのだろう。
それがなんであるか自分にはさっぱりわからないが。

「ナマエ、言葉にしないと私にはわからないよ」

「申し訳ございません……ただ憲紀さまと離れるのが名残惜しくて……ずっとこうしていたいです……ご迷惑でしょうか?」

「迷惑ではないが……」

「体調が優れないようでしたら、すぐにやめます」

「体調なら問題ない。ナマエのお陰だ」

「それは嬉しゅうございます」

ナマエはまた憲紀を上目で見上げる。今度はじっと長く見つめられ、何かを訴えかけるような目に見える。

ナマエが何をしたいのか憲紀にはわからないが、この時漸く、今の状況が先ほど考えていた"きっかけ"であることに気がついた。
今なら自然とナマエと触れ合える。

「ナマエ、体調は大丈夫か?」

「はい。元気です」

「ならば、私はナマエを抱きたいと思うが問題ないか?」

「……はい?」

ナマエは驚いたように肩を跳ねさせ、憲紀から手を離した。

「嫌なのか?」

「そんなことはあり得ません!憲紀さまにこの身を愛されることはとても幸せなことです!ただ驚いてしまって……」

「何かまずかったか?」

「……まずくはございません。ですが、憲紀さまはわたしに許可を取る必要はございません。好きな時にこの身体を好きなようになさってください。わたしの身も心も全て憲紀さまのものです」

ナマエははっきりと起伏の感じられる程に膨らむ胸元に両手をおき、恥じらうように憲紀から視線を外す。

精神的に幼い部分があると思えば、自分を誘うような淫らな文言には驚かされる。一体どこで覚えたのだろうか。

「道具のように君の身体を扱うつもりはない。私はナマエを好いているからこそその身を愛したいだけだ」

「憲紀さまからそのようなことを仰っていただけるなんて……わたしは幸せ者です。わたしも愛するお方からこの身を愛されたいです」

ナマエはそう言うと、胸元にかかる髪を背へと艶やかに払い除け、パーカーのファスナーをゆっくりと下ろしていく。
ナマエが中に着ているのは半袖のワンピースだと思っていたが、ファスナーを下までおろし、肩からパーカーを落とすように腕の途中まで脱ぐと、ワンピースのストラップが随分と細いものであることに気がついた。造形はキャミソールドレスのようで、腕は勿論のこと、肩も胸元も剥き出しである。

半脱ぎ状態のパーカーから覗く首筋や肩は玉のように美しい肌をしていて、キャミソールドレスのカップから窮屈そうにはみ出す胸の膨らみの生白さは官能的で劣情をそそられる。

ナマエを初めて抱いた時、派手な下着であったことを憲紀は少し気にしていたが、こういう格好も自分の為だと思えば、咎めるべきことではないだろう。

「この格好ははしたないでしょうか……?」

「私にだけ見せるのならば、はしたないとは思わないよ」

「勿論です。憲紀さま以外にはこんな姿お見せしません……」

ナマエはそう言って柔らかそうに膨らむ胸を強調するように腹部の前で腕を組み、恥じらうように伏し目がちになる。

憲紀はどこまでも自分を誘うような媚態を見せるナマエへ近づいて華奢な肩を抱き、顔を寄せた。



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