※御朱印=主に日本の神社や寺院において、参拝者向けに押印される印章(ref.wiki)






五月の二週目のこと。憲紀はナマエから妊娠していないことを告げられた。

ナマエが妊娠すれば、彼女との繋がりはより確実になり、彼女の身の保護にもなると思っていた為に落胆した。また、ナマエとの子はどんなに愛らしいものだろうと考えてもいた為に残念でもあった。

一方ナマエもどこか寂しげだった為に、憲紀は「では、実家に帰るといい」とは言えず、ちょうど連休中で特に任務もなかった為に翌日に市街地まで出歩く約束をした。

翌朝、憲紀が身支度を済ませてナマエを部屋まで迎えに行く途中でメカ丸に呼び止められた。

「何か用か?」

「ナマエとデートに行くのだロ?」

「デートというより、一緒に出かける予定だ」

「それをデートと呼ぶのだガ……呼び止めたのは真依たちからの伝言を伝える為ダ」

「なんだ?」

「『夜まで帰ってくんな』だそうダ」

「……どういう意味だ?」

「夜までナマエを楽しませロってことだろウ」

「私服の件といい、真依たちは世話焼きだな」

普段着も和服であることが多い憲紀は一週間程前に「ナマエとデート用の服買ってきたからデートくらい誘いなさい。あとお金寄こしなさい」と真依たちに勝手に洋服一式を押しつけられた上にトータル五万以上の代金まで請求されたのだった。
その上「夜まで帰るな」とメカ丸伝いに帰宅時間まで指示してくるとは、彼女たちが如何にナマエのことを気に掛けているのか伝わってくる。
恐らく早く帰ろうものなら、言葉の限りを尽くした酷い嫌味を言われそうだ。

「珍しく洋服を着ていると思ったガ、それは真依たちが選んだやつカ。ナルホド。悪くナイ」

「上下黒は葬式のようだが」

憲紀は自分の服を見下ろして素直な感想をこぼした。

トップスもボトムも黒である為、憲紀にはどうしても葬式を連想させた。革靴は深みのある茶色で、トップスの下に着ているインナーは白Tで、西宮に言われた通りにトップスの下からはみ出させるように裾を出しているが、なんだかだらしなく見えて気に入らない。ナマエにシャツをしまい忘れていると思われるのは嫌であるが、それを見越した西宮が「いい?絶対この白Tは裾を見せなくちゃダメだからね!」としつこく言ってきた為に指示通りにしている。

「そんなことはナイ。格好を気にするよりナマエを楽しませることに注力しないと真依たちがうるさいだろうから頑張レ」

「もとよりそのつもりだ。では、行ってくるよ」

「アア」

メカ丸に見送られ、憲紀は約束の時間通りにナマエの部屋へ向かった。



 ◇



市街地の広がる京都盆地。四囲は山岳や丘陵に囲まれ、夏冬の寒暖差は大きく、四季は明瞭。故に自然は四季折々の風光明媚な姿を見せる。

京都といえば桜や紅葉が有名であるが、五月を迎えた今は咲き乱れる藤やツツジが美しい。

公園や寺社仏閣で花や若草の緑を愛で、ニューヨーク発などのお洒落なカフェで流行のものを飲食し、話題の映画を観て、ショッピングモールで軽く買い物でも──それが古都といえど、京都の学生らしい楽しみ方であると憲紀は思っていたがナマエの行きたいという場所は寺院か神社であった。

「憲紀さま、御覧ください!こちらの御朱印、とっても可愛いです!」

ナマエは興奮したように神社用だという和装の御朱印帳を開き、憲紀に見せる。

ナマエの着ている服は英国風のクラシックワンピースで靴はレースアップのローファーを合わせ、上品な雰囲気であるが、やはり年頃。普段は慎ましやかにしていても、好きなものに対してはこうしてはしゃいで見せるらしい。

本日四軒目の寺社仏閣で、憲紀は履き慣れない革靴に足を痛めていたが、こうしてナマエのはしゃぐ姿を見れば自然と口角は持ち上がり、来てよかったと思えた。

「そういうものが好みなのか?」

「好み……?動物の絵が描かれているものは好きですが、可愛いから御朱印をいただいているわけではございません」

「動物は好きなのか?」

「人並みに好きなつもりです」

「人並みか……」

ナマエの好みを知りたい憲紀であったが、今のところ趣味が御朱印集めとしかわからなかった。

ただ境内にいる猫を自然と目で追い、自然と跡を追って写真を撮るところを見るにナマエは猫好きに見える。恐らく犬派ではなく猫派だと推測できるが、狛犬の写真も撮っていたから確定とは言い難い。いや、そもそもどちらの派閥であるかという考え方自体がナンセンスかもしれない。とにかくナマエが人並みに動物好きであるとわかっただけでいいだろう。

「次はどうしたい?」

「次ですか?近場といえど四つも御朱印をいただきましたので、今日は寺社仏閣への参拝はやめておきます。一日に何人もの神さまや仏さまとご縁を契るのはよくないでしょう」

どういう思考過程かはわからないが、御朱印帳を寺院と神社で分けているナマエのことだ。御朱印集めにも忌避すべき行動が幾らかあり、それに従っているのだろう。それに寺社仏閣にある立て札を一々全て読み、何を祀っているのか、庭園の借景はどこの山であるかなどを確認して覚えようとすることから、スタンプラリー感覚で参拝しているわけではないとはわかる。

「そろそろお食事にしましょうか?」

ナマエは御朱印帳を大事そうに鞄に仕舞うと、憲紀を見上げるようにして小首を傾げる。その動作によって艶やかな髪が肩から滑り落ちるようにして揺れ、花の香りがふわりと匂い立つ。

思わず手を伸ばして触れたくなるが、憲紀はそんな思いを殺して取り澄ました顔のまま頷いた。

「そうだな。もう昼過ぎだ。何を食べたい?」

「わたしはなんでも食べられます。憲紀さまは?」

「……エスニック料理以外であればなんでもいい」

好き嫌いはよくないとわかっているが、やはり生まれついた好みというものは変えられない。憲紀は生来エスニック料理が舌に合わなかった。

「エスニック料理がですか……?」

「何故そんな顔をする?」

好まない料理を伝えただけで、輝く笑顔を見せるナマエの感情がわからずに憲紀は問いかけた。

「いえ……憲紀さまの好みでないものを知ることができて嬉しくて……」

ナマエの反応は大袈裟に見えるが、それ程自分を好いているのかと思うと悪いものではない。いや、むしろ好ましい程か。

こういう時ナマエへの愛しさが増すのだが、憲紀はナマエの気持ちに報いる言動を取ることはなかった。

「もう五月だ。納涼床が出ているはずだ」

納涼床とは、料理店や茶屋が川の上や屋外で川のよく見える位置に座敷を作って料理を提供することで、川沿いにある大体の店がそれを五月から始める。

憲紀はそのうちの何軒かには顔が利く為、予約なしでも入れる。ナマエとゆったりと過ごすには良い場所だろう。

「川床ですか……?いつか憲紀さまと行ってみたいと思っておりました……!」

「貴船の方に行こうと思っていたが、希望はあるか?」

「いえ、特に希望はございません。あ、でも川床のスタバも憲紀さまと行ってみたいです!」

「それは今度にしよう」

まだ川床の料理店にも行っていないのに次の話までするナマエの気の早さに微笑ましくなり、憲紀は眦を柔らかく下げる。

「今度があるのですか?」

ナマエの言葉に憲紀はハッとした。
ナマエを高専から追い出す予定ではあるが、暫く様子を見てからそれを伝えるつもりであった。
それが、さも当分ナマエを高専に留まらせ、また出かける機会があることを仄めかすようなことを言ってしまった。

「それは……機会があればだよ」

「その機会が来ることを楽しみにしております」

ナマエの期待の籠った瞳で見つめられると、また余計にナマエを高専から追い出しづらくなった。
憲紀は目的の為ならば幾らでも冷酷になれる自信があるが、もう少し日にちを置き、ナマエの仕事振りを見守ってみるのも悪くないだろうと思った。



 ◇



二人は貴船の中でも景色の良い料亭の川床で季節料理を楽しんだ後、近くの劇場に映画を観に行った。

憲紀は特に観たいものがなく、ナマエも映画に詳しくないというのでちょうど今日公開された映画を観ることにした。

映画は女性が主人公のクライムドラマでナマエにはまだ早いような描写が幾つかあったが、上映中のナマエは真剣な面持ちで画面に集中していて、上映後は神妙な顔をしていた。

「感動するところはあったか?」

憲紀は、エンドロール後も座ったまま放心しているナマエに声を掛けた。

「ございました。主人公はよくないことをしていましたが、他人の為──いえ、自分の確固たる信念の為に不利な道を選び、罪を告白しました……あれだけ勝ちに拘っていた方が……素晴らしい変化です。心が挫けてしまいそうな道を、自分の信念、或いは想いの為に選ぶことは褒められるべきことです」

あくまでも、「主人公が何を重要視したか」に重きを置いた上でのナマエなりの感想は、憲紀の心に響くものがあった。

まずナマエが主人公の取った選択を"成長"ではなく、"変化"と表現したことは、憲紀にとってはありがたかった。憲紀の中で自分の目的の為に常に勝利は必要なものであると考えているからだ。日々努力を積み重ねているのもその為だ。

そしてその努力は、自分の想いの強さがあってこそのものだ。そのお陰で挫けずにいられる。それが自分を支えていたと言っても過言ではない。

ただの映画の感想ではあるが、ナマエの言葉から、彼女は人の大事にするものを尊重できる人間だと、憲紀は思えた。

半日一緒にいる間にナマエに心惹かれる場面は幾つもあったが、ナマエの考え方というものに触れたことが、何よりも大きかった。
憲紀の中でナマエへの想いがより一層強くなる。

「憲紀さま、そろそろ係員の方がいらっしゃると思いますので行きましょうか?」

ナマエはゆったりと立ち上がり、憲紀に背を向けて殆ど人の掃けた館内を見渡す。

「ナマエ」

「はい?」

憲紀も遅れて立ち上がり、体ごと振り向いたナマエの背と後頭部に腕を回して抱き寄せた。

腕に収まるナマエの体はあの日抱いた時の感覚と同じく華奢で、簡単に折れてしまいそうだ。

まだ幼い許嫁だ。自分が守るべきものだと感じてしまうような庇護欲をそそられる骨格の頼りなさがある。

ただこの頼りない体にも、時に縋りつきたくなるような度量の大きさがあるのだろう。

「憲紀さま……?」

ナマエは戸惑ったような声を出す。

実際のところ憲紀も自分がこのような行動に出たことに戸惑っている。

憲紀はナマエを抱いて以来、ナマエと極力触れ合わないようにしていた。あの日の憲紀は嫉妬に囚われ、ナマエに酷いことをしたと自覚していたからだ。故に理性のない人間だと思われたくなく、ナマエの指先にすら触れないようにしていた。

それがこうしてナマエを抱きしめてしまい、離す気にもなれなくなっている。

「ナマエには人の理性の箍を破壊する才能がある」

「……それは褒めてくださってますか?」

「叱っている」

「えっ!ご、ごめんなさい」

「謝らなくていい。許嫁が君で良かったと思う」

憲紀がナマエを好いているのは、彼女の美しさだけの為ではない。
初めて会った時から自分を慕ってくれていたからだろう。あれ程好意を示され続けていたら、好きにもなる。単純な理由だ。

だがこれ程までにナマエを好き、欲してしまうのは彼女の内面や、内面から滲み出る美しさの為であろう。
それだけに高専から遠ざけて守ってやりたい一方でずっと隣にいて欲しいと思ってしまう。これまでのように顔も近くで見れず、自由な会話が出来ない程に離れたくない。

「わたしも憲紀さまの許嫁になることができて幸せにございます」

ナマエも憲紀の背へと腕を回し、力を込める。

ナマエの細腕から感じる力の強さが心地よく、憲紀は益々ナマエを離したくなくなる。

人が来るまで、と時限の縛りを設けることでしかこの気持ちは抑制出来そうになかった。



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