六月半ば、京都呪術高専に重大なニュースが飛び込んできた。──仙台で宿儺の器となる青年が現れ、術師として東京の呪術高専に入学したと。

宿儺とは、仮想の鬼神──両面宿儺の名を冠した千年以上も前の人間である。術師が総力をあげても敵わなかった上に現代でも彼の死蝋さえ祓うことができずにいる為に、呪術界では今も昔も"呪いの王"と恐れられて認識されている。

そんな恐怖の対象を宿した人間が生きているだけでも不安であるのに、術師として高専に入学するなど受け入れ難いことであった。呪術規定などなくとも、危険が見込まれる以上は祓うべき対象である。

──というのが、京都校の殆どの生徒たちの共通の考えであった。

「虎杖悠仁……わたしと同級生の男の子があの呪いの王の器だなんて……東京校の学生たちは大丈夫なのでしょうか?お忙しい悟さんが常に見張っていられるわけでもないでしょうに」

宿儺の受肉の知らせを受けてから数日後、学期末テストに向けて、憲紀の部屋へ勉強しに来ていたナマエは隣の座布団に座る憲紀を不安気な顔で見つめる。

木彫りの美しい座卓の上には英語の教科書が開かれていて、ナマエは先程までそのページの復習をしていたのだが、一旦憲紀と会話をするために手を離してしまった為に、開け放たれた窓から入り込む涼風によってページがパラパラと捲れていく。
ナマエはそれに気がついてそっと教科書に手を置き、視線は憲紀に向けたまま、「もしわたしが東京校の生徒でしたら、安心して眠れません」と言葉を継ぐ。

「肉体の主導権はその虎杖悠仁にあるらしいが、それもいつ宿儺に奪われるかもわからない。故に死刑の延期は正気の沙汰ではないとしかいいようがない……しかし、私達にできることは何もないのだから、今は目の前のことから片付けていくしかないよ」

「目の前のこと……」

憲紀の冷静な分析を受けて、ナマエは虚空を見つめ、頭の中で自問する。
目の前のことといえば、ナマエには対処すべきことが大まかに三つほどある。術師として、少しでも力を付けて他の術師たちのサポートをすること、憲紀の許嫁として恥ずかしくない成績を修めること、憲紀の子を成すこと──婚前ではあるが。
本来自分の立場に求められることには目を背けつつも漠然と把握している。

問題はナマエの中でその三つの優先順位を明確につけていないことだ。本心では、術師として他の術師たちのサポートをすることが一番であるが、これを優先すると三つ目の事項に支障をきたすのでなかなか踏み切れないでいる。

ナマエは今あくまで術師の支援にまわる立場であるが、自分も術師として自分の術式に向き合って理解を深めてミョウジ家相伝の術式を使いこなし、それによってより多くの支援を術師たちに与えたいと考えている。

故に現場で活躍する術師の足を引っ張るなんてことはできず、体力をつけることは勿論、自分の身を守る為により精密な呪力のコントール法を学ぶ必要がある。

そうすると日々の訓練の強度を上げる必要があるのだが、憲紀と幾度も肌を重ね合わせていると、やはり不安にもなる。もし子を宿していた場合の負荷のかかる運動は体に障る。少量とはいえ、アルコールを摂取した翌日はこっそり産婦人科に相談にいったくらいには体のことを気にしているのだ。

一人前の術師になること、子を成すこと、どちらを優先すべきか自分の立場を理解していれば間違いなく後者が優先されることであるが、高専で過ごしているとどうしても前者を優先したくなる。

アルコール事件のこともあり、最近は憲紀との行為が怖くなり、夜だけは真依たちと過ごすようになってしまった。だから、今日のように休日の昼間から一緒に過ごせるのは貴重な時間であるのだが、例の宿儺の器の件で空気が淀む。

いっそのこと、「術師として皆をサポートすることをなにより優先したいから子を作りたくない」とでも言ってしまおうか。自分の考えはあまりにも浅はかで身勝手であるが、自分を尊重してくれる憲紀なら理解してくれそうではある。

憲紀のことを信じて、ナマエは緊張を抑える為に意味もなく英語の教科書の文をそのままノートに書き写しながら、「目の前のことといえば──」と切り出す。

「わたしは最近術師として力不足に感じることが多々あります」

「ナマエに力不足云々の話は関係ないよ。君は今のままで十分人の為になっている」

憲紀の言葉から、やはり自分に求めているのは術師としての実力ではないことははっきりとわかる。余計に話しづらくなるが、早く言わないとそれだけ辛くなるのだから言うしかない。

「ですが、宿儺の器が現れたからにはいい加減に自分の進退は決めたくないのです」

重要なことであるから、一旦文字を書く手をとめ、隣に座る憲紀にきちんと向き直って気持ちを伝えた。

「進退?」

「はい。今のわたしは中途半端なのです。このまま術師としての力を付けていくのか、憲紀さまの──」

「その単語、"s"が一つ足りないよ」

「はい?えっ?」

真面目な話をしていたのに、唐突に英単語のスペルミスを指摘され、ナマエは動揺する。
一先ずノートを見返すが、どの単語について指摘されているかわからない。

「どちらの単語でしょうか?」

「"successful"のeの後は、sが二つ続く」

「あっ……お恥ずかしいミスです……」

座学で優秀な成績を修める憲紀に恥じないように勉学は頑張ってきたつもりでいたが、やはり完璧とはいかないようだ。
憲紀に賢いと思われたいナマエは直接本人に指摘されたことにより、羞恥心で胸がいっぱいになる。

それに加えてこれから許嫁として相応しくないことを言おうとしているという間の悪さの為に本題を切り出しづらくなった。

「話を中断して悪かったね。それで、術師になるか、私の──なんだ?」

「えっと、なんでもございません……」

「いや、進退などと大事なことを言われては気になるのだが?」

その大事を遮ってまでスペルミスの指摘をしたのは憲紀であるのだが、ナマエはそれについて触れるのは控え、なんとか場を濁そうと言葉を探る。

「いえ……本当になんでもないのです……」

「……最近私を避けていることと関係があるのか?」

図星をつかれ、ナマエは動揺を隠すこともできずに、ハッと息を呑む。

「昼間はいつも通りに接してくれているが、夜になると私の連絡にもでず、西宮たちと一緒にいる。その上この前は部屋の明かりが付いているのを確認してから戸を叩いたが出てこない上に灯りをすぐに消していたな」

「ご存知でしたか……?」

「ということは、やはり故意にやっていたのだね」

「ごめんなさい……」

「何故だ?夜だけ避けられる理由がまるで思い当たらないのだが」

「それはわたしのお話ししたかったことと直結しておりまして……とても申し上げづらいことです」

「言いづらくとも、私にならなんでも話せるだろう?四月頃はともかく、今までナマエの気持ちを尊重してきたつもりだ」

憲紀は「心外だ」とばかりに、眉根を寄せるものだから、ナマエはこのままでは勘違いされてしまうと焦り、やはり本心を言うべきだと思い直す。

「わたしは術師として皆さんのお役に立ちたく……だから足は引っ張りたくなくて……その為にも皆さんと同じように厳しい訓練を受けて、身を守る力くらいは手に入れたいです」

「ナマエのことは私が守る、と言いたいところだが、私も準一級術師として忙しい身だ。常に傍らにいてやれるわけではない。ただナマエの場合、派遣される先では常に補助監督が同行しているのだろう?何かあれば補助監督がナマエを守るのだから、今のままでいい」

「……はい」

その補助監督に負担を掛けてしまうのさえ、ナマエにとっては好ましくないことであった為に憲紀の回答には納得できず、ナマエは表情を曇らせた。

「そんな顔をされては話を終わらせられない。強くなりたいのか?」

「そうです」

「その為に訓練の強度と頻度を上げたいということか?」

「はい」

「ミョウジ家には護りの呪具や術式が存在すると聞いたが、その呪具を使えばいいのでは?」

「呪具は以前母に渡されたことがあるのですが、お返ししたので今は母のものです。なので、わたしは自分の術式の理解を深めて、護りの術式が使えるようになりたいのです。この術式は他者も護ることができるので皆さんの役に立つはずです」

「それは良い考えだが、体に負担がかかるのは困るだろう?ナマエの体は君一人だけのものではないのだよ」

ついにこの話の核心に憲紀が触れてきたことにより、ナマエは緊張に身を固くしつつ、まずは憲紀の意見に同意を示すように頷いた。

「……確かに憲紀さまのものでもありますが……訓練の為に、一旦、その……夜伽といいましょうか……あのようなことは控えたい、です……」

「……そういうことか」

「……そういうことです」

何故ナマエが夜の接触を避けていたのか、憲紀は今の発言で理解できたらしい。憲紀は考え込むように視線を暫く落とした後に、ふとナマエにいつものように柔らかな眼差しを向けた。

「そもそも、私も君を抱く目的は変わりつつあった」

「はい……?」

「言い方があまりよくないが、君を守る為にも早く妊娠させて実家に帰そうと思っていたのだが……最近では愛おしさ故に肌を重ねたくなる」

「それはとても嬉しいです」

今までこうしてデリケートな問題を話す機会がなかった為に、ナマエはあまり意識しないでいたが、これまで何度か行われた夜伽が子作りの為でなく、愛情によるものだということを知り、ナマエは温かな気持ちになれた。
確かに行為中、憲紀は自分の体を労り、優しく抱いてくれていたことが思い出され、単なる子作りや肉欲を目的としたことでないことはなんとなくナマエに伝わっていた。

「つまり、ナマエが避妊を望むならそうする。行為自体を控えたいというなら、別の形で愛情を注ぐ」

「憲紀さま……」

これ以上ない自分を想っての言葉である。ナマエは感動と喜びに瞳を潤ませるのと同時に胸の奥から自分の我儘を全て聞いてくれようとする憲紀への申し訳ない気持ちが湧きおこる。

「──立場を弁えない、我儘な許嫁で申し訳ございません」

「構わないよ。私はただ、誰かの役に立ちたいという者の気持ちを、特にナマエの気持ちを無碍にしたくないだけだよ」

「憲紀さまのお優しさに感謝いたします」

自分の気持ちを正しく理解してくれた憲紀の言葉に、ナマエは殆ど泣き出しそうになるが、なんとか涙を堪えて伏し拝む勢いで頭を下げる。

「頭を上げて、早く勉強の続きをしようか。ナマエのスペルミスの多さには心配になるよ。ここの"secound"も"u"が余計だ。中学生レベルの単語なのだが……」

高専生になり、少し大人になったつもりでいたナマエは憲紀に呆れた様子で"中学生レベル"と貶されたことで流れかけた涙が一瞬にして引っ込んだ。



|



noveltop/sitetop