今から十三年前程の記憶──加茂憲紀が母を想って部屋で泣いていると、唇と頬に紅を差した知らない女の子が勝手に入ってきて「泣かないで」と手鞠模様の飴玉をくれ、「わたしの母さまはこうしてくれるの!」と、頬に口付けられたことがあった。

自分よりも幾分幼く、まだ物心付いているかも怪しい女児が化粧をしていることに驚いたが、勝手に部屋に入ってきた挙句に知らない相手に口付けをする女児のませ具合にも驚いた。

「君はどこの家の子?」

「アナタこそどこの子?泣いているならわたしの家に来ていいよ。わたしのお母さまがチュウしてヨシヨシしてくれるわ。あ、わたしがヨシヨシしてあげる!」

女児に「ヨシヨシ」と頭を撫でられて憲紀は呆気にとられたが、次第に女児の、自分を一生懸命に励まそうとする優しさに、憲紀は元気を取り戻した。

それから数日後に憲紀は加茂家の傍系であるミョウジ家のナマエという二つ歳下の女児との婚約が結ばれた。

顔合わせをすることなく、呪術界では目立たない家の娘との婚約は子供ながらに不思議に思っていたが、あの日の女の子が後にナマエであると知ると、憲紀は特別嫌とは思わなかった。

それから時折ナマエが家に遊びに来ては彼女の相手をすることが多くなり、自分が加茂家の嫡男として迎え入れられると更にその頻度が多くなった。

「憲紀さまー!」

「ナマエ」

法事だというのに自分を見るなり無邪気に抱きつくナマエが憲紀は好きであった。他人に甘えられない境遇にいる為か、自由奔放に振る舞うナマエが羨ましく、嫉妬することもあるが、ナマエの笑顔を見ると、そんな負の感情は簡単に吹き飛ぶ。

ただ自分の周りがナマエを許さなかった。憲紀が嫡男として加茂家に迎え入れられた時に婚約の解消の話があがったのもそうであるが、ミョウジ家の呪術界における地位、加茂家の伝統と格式を重んじる家柄にナマエは許嫁として相応しくないという風潮が高まった。その所為か、ある時からナマエは新年の挨拶周り以外の祭事や葬式以外の法事には顔を出さなくなり、定型以外の会話をする機会が完全に失われた。

それから憲紀はナマエとまともに会って話もできないことに気を病んだ。会えなくなると余計に鬱屈した加茂家で生きる憲紀の中で、ナマエは癒しであり、愛おしい存在でもあることに気が付いた。ある時、ナマエの母親が自分の母に嫌がらせをしていたという噂を聞いてもそれを信じず、ナマエを嫌うことにはならなかった。

しかし憲紀が十七歳になった頃、ナマエの不義の噂を耳にすると、流石の憲紀もナマエへの恋慕が揺らいだ。

「それは本当か……?」

祭事の為に帰省したところ、廊下で女給の立ち話を耳にした憲紀は半ば呆然として女給たちを問いただす。

「あ……も、申し訳ありません、憲紀様!気が付きませんでした!」

「申し訳ありません!」

女給は二人揃って腰を折り、憲紀に頭を下げるが、今憲紀が求めているのは謝罪ではない。確かな情報だ。

「禪院家のあの男とナマエが不行状を働いていたとは本当か?」

「い、いえ……!噂にございます!ただの噂で……ですが、仲睦まじく肩を寄せ合っていたところを禪院家の女給が何人も見ていらしたようです……!」

憲紀の頭の中で、禪院家の男──直哉が軽薄な笑みを口元に浮かべてナマエに触れる表象が浮かび、怪訝そうに眉を絞る。

「……くだらぬ噂はその辺にしておけ。二度と私の前でその話はするな」

女給たちにはそう告げたが、翌日、憲紀は祭事で一緒になった同じ呪術高専生の後輩である真依に話しかけて裏を取ることにした。

真依は憲紀の質問に整った容貌を不快そうに歪めて舌打ちをした。

「知らないわよ。聞くなら本人に直接聞けばいいじゃない」

「ミョウジ家は新年を除いた集まりには参加しない」

「……ほんっとくだらない。好きなら自分から会いに行けばいいし、それが無理なら手紙の一つでも送ってみれば?」

真依はそれだけ言うと、再度舌打ちして背を向ける。

憲紀は「手紙なら送っている」と反論したが、「は?」と肩越しに睨みつけられ、それ以上は何も言えなくなった。
そのまま噂の真相を知ることもできずに翌日には高専に戻り、いつも通りの生活を送った。

それからナマエに会えたのは、新年の集まりの為に京都の老舗である高級旅館へ行った時であった。
毎年見る度にナマエは美しく成長していて、今年は特に目を見張る程であった。薄桃色の着物に金糸と螺鈿の装飾の入った帯を締め、長い髪を華美に結い上げたナマエの姿は実際の年齢よりもずっと大人びて見え、指先までも上品に揃え、しゃんと背筋を伸ばした姿は天女のように美しい。
ナマエが一度伏し目がちな瞳をどこかへ向ければ、視線を向けられたと思った男たちが顔を赤くさせて呼吸を止めるほどであった。

憲紀は「綺麗だ」と一言でも声を掛けてやりたいと思っていたが、そんな個人的感情を吐露できる状況ではなかった。それにナマエの美しさを思うと不安が募る一方であった。あの噂は本当なのか、と。

不安を抱えたまま宴会場でナマエとその母親から新年の挨拶を受け、加茂家がそれに二、三の言葉を返すのみで、婚約に関する話は一切出なかった。今年で憲紀は十八歳、ナマエは十六歳──互いに婚姻を結べる歳になるが、加茂家が何も触れなかった為か、ミョウジ家は呪術界の重鎮に挨拶を済ませるとそそくさと帰ってしまった。

「正に麗質。アレは生まれながらに男を誑かす生き物やね。あれで真依ちゃんの乳があれば、俺も危ないところやったわ」

禪院家の揃う席の方からあまりにも下卑た言葉が聞こえ、憲紀が声の主の方へ目を遣ると、盃を片手に立膝をする下品な男が出入口の方を見て軽佻に笑っていた。──如何にもな話し方や侮辱の言葉だけでわかってはいたが、声の主は禪院直哉だ。

酒の席とはいえ、加茂家次代当主の許嫁に対し、下卑たことを言った為に当然禪院家の者がたしなめたが、本人はへらへらと笑っている。ナマエを快く思わない加茂家側の人間も声には出さないが薄っすらと笑っていた。

「腐っている」と憲紀は静かな怒りが胸の内に渦巻くが、憲紀にとっては喜ぶべきことと、更に不安に思うことがあった。

「俺も危ないところやったわ」ということは、少なくとも直哉はナマエに手を付けていない。しかし「俺も」ということは、他の誰かがナマエに接触しかけていたということだ。一体誰であろうか。それとも単なる言葉のあやなのか。
ナマエの美貌を思えば当然なのだろうか。しかし小学校からずっと女学校に通うナマエにそのような男ができるのだろうか。

そんな風に不安になっている時に限って、ナマエに関する不義の噂を聞いた。夜遅くまで男といただの、援助交際をしているだのと、どれも信じたくもないような話がひそひそと聞こえてきて不快極まりない。

「ナマエはそんな女ではない」と怒鳴りつけたくなるが、憲紀はそう言いきれる程にナマエのことを知らなかった。


 
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