四月を迎え、憲紀は学年が一つ上がって三年生となった。
相変わらず人材不足の呪術界では学内よりも任務の時間が長く感じられる程に忙しくしている。
その為許嫁のナマエがつい先日京都の高専に入学したことを知らなかった。初めてそのことに気が付いたのは、任務を終えて高専へ戻った時のことだ。

校庭でジャージ姿のナマエが一年の新田新と顔を突き合わせ話し込んでいたところを見かけた。飾り気のない服装をしていても、ナマエの美しさは隠せず、ナマエを見つめる新の頬は朱色に染まっている──ように憲紀には見えた。

「一体どういうことだ……?」

「あ、言うの忘れてたわ」

一緒の任務で憲紀のサポート役をしていた真依が含みのある笑みを口元に浮かべた。口調からして何か悪意のあるものが感じられる。

「何をだ?」

「あの子、憲紀を追いかけて編入したみたいよ。一週間女学校で"お作法"を学んでいたみたいだけど、やっぱり思い直したってワケ。色々手続きで手間取ってたみたいで、やっと昨日編入できたみたいね。スマホにメッセージ来てたし、寝る前にもちょっと話したのよね」

「昨日?連絡先を知っていたのか?ナマエもスマホを持っているのか?」

「ここ最近は仲いいわよ。それにスマホくらいナマエだって持ってるわよ。ナメてるの?」

「……」

真依はさも当たり前のように言うが、今までそんな大事なことを黙っていたことが憲紀には信じられず、絶句した。

「ま、とにかくナマエが好きなら優しくしてあげなさいよ?そうじゃないなら、早く手を切ってナマエを自由にしてあげて。ナマエはあの容姿よ?男が放っておかないわよ」

「……ナマエの噂は聞いているか?」

「あんなくだらない噂信じてるわけ?」

すっと細められた真依の瞳には、明らかな軽蔑の色が浮かんでいる。

どうやら真依はナマエのことを信じているようだが、憲紀はそう簡単には信じられない。
幼少の頃のナマエならよく知っている。良い意味で慎ましさの一切感じられない無邪気な子供であった。いつしか段々疎遠になり、会ったとしても定型句の会話しかしない彼女が今一体どんな女性に成長したのか等知りようもない。見た目や所作は慎ましやかであるが、一年に二回と会えるかもわからない彼女がどんな趣味を持ち、どんな友人がいて、どんなことを話すのか──気になったところで誰も教えてはくれない。
ナマエについて殆ど知らないといっても過言でもない自分が一体どうやってナマエを信じられるというのか。

「噂はしょせん噂……本人を見ていればわかる」

「なによ。わかってんなら、さっさと会いに行きなさ……あっ」

真依の不穏な「あっ」に釣られてナマエの方へ目を向けると、ナマエが新の片手を両手で包み込むようにして握っているところであった。ナマエの術式は呪力の付与であるから、試しに新に呪力を与えているのだろう。遠目だが、確かに呪力の流れが見える。

ただナマエの術式を知っているからといって、嫁入り前にも関わらずに他の男に堂々と触れることは許せるものではない。憲紀は腹の底から不快な感情が湧きおこり、募る怒りを殺すように拳を強く握った。

ふと脳裏に、ナマエとの出会いの記憶が蘇る。あの時はまだ幼かったとはいえ、初対面である自分の頬へ躊躇いもなく口づけた。ナマエはああいうことを誰に対しても平気でするのだろうか。

「火のないところに煙は立たない……正に、だな」

「憲紀って本当に面倒な男ね。ナマエは憲紀に一途よ」

「どうかな。私の知らないナマエが存在するように、真依の知らないナマエがいるのではないか?」

憲紀は真依に問いかけると、返事も聞かずにその場を後にした。



 ◇



同日の夕方頃、漸くナマエが憲紀へ挨拶に来た。高専の制服──ロングスカートに黒いタイツのようなものを履き、露出の抑えた姿のナマエは慎ましく、清楚である。

「憲紀さまとこうしてお会いできることをずっと待ちわびておりました」

瞳いっぱいに涙を溜め込み、顔を真っ赤にさせる様子には、新の手を握っていたことでナマエへ侮蔑の感情を抱いていた憲紀も思うところはあった。

しかし、許嫁が加茂家に黙って高専に入るのは大問題である。全寮制とはいえ、婚姻前に同じ寮で過ごすのは避けるべきである上に、ナマエの身の危険が及ぶような任務に当たって大怪我でもされたら堪らない。
加茂家の次代当主の許嫁であるならば、女学校に通い、そこで作法を学び、健やかに暮らすべきである。

そのようなことをナマエに説明し、「今すぐ帰りなさい」と、憲紀は威厳を持って伝えた。
正直なところ、他の誰もいないところでナマエとこうして顔を合わせて話すのは貴重な機会である。このままナマエと語らい、今のナマエのことを知りたい。穢れた噂が嘘であることを自分に証明して欲しい。しかし、今はそういう状況ではない。ナマエを高専から追い出すことが最優先されるべきことだ。

「申し訳ありませんが、帰ることはできません。どうかここにいることをお許しください」

「帰りなさい」

今度は冷たく、突き放すように言うが、頑としてナマエは首を縦には振らなかった。

ナマエが何故自分を追いかけてきたのか、憲紀にはわからなかった。ナマエの不義の噂を幾つも聞かされていた所為か、疑心暗鬼になっており、純粋に自分を慕ってなのか、「婚約を解消されること」を恐れて自分に取り入ろうとしているのか判断し兼ねた。ナマエの態度を見れば前者に思えるが、後者も十分にあり得る。何故なら、自分が部屋にいる時は毎日のように、コーヒーと飴玉の差し入れをしてくるからだ。憲紀にとってナマエの行為は"安いご機嫌取り"に思えた。

真相はともかくとして、ナマエを安全な実家へ帰す為にも憲紀はナマエのそんな"ご機嫌取り"を無視し続けた。
ただ無視はせども、ナマエのことを信じられずとも、ナマエのことは心から想っていた。ナマエを近くに感じるだけでも全身の血が熱くなり、鼓動が速まる。できることなら、優しくしてやりたい。顔を合わせて話したい。華奢な肩を抱き、艶やかな髪に触れたい。以前にもまして、ナマエへの気持ちが強くなっていく。
だからなのか、ナマエが他の男といるだけで嫉妬に駆られ、漠然とした焦燥感に囚われた。



 ◇



数日後、ナマエが初めての任務で怪我をしたことにより、その手当の為にナマエの裸が他の男に暴かれたことを知り、怒りに身を焼かれるような気持ちになった。

医務室のベッドに横たわり、静かに眠るナマエの傍で、憲紀はその男を殺さんばかりの気迫で見下ろした。

「見たのか?」

「あ、えっと……見ないように努力はしました」

憲紀の殺意の籠ったオーラを恐れて新は体を縮こまらせて答えた。

「つまり、見ないように努力はしたが、『見た』のだね?」

「……も、申し訳ありませんでしたぁっ!で、ですけど、見たのは一瞬で、それも片方だけで……」

「片方?何がかな?」

「それわかってて聞いてはりますよね!?堪忍してください!」

「……私の許嫁に処置をしてくれたことには礼を言おう。だが、今日見たものは全て記憶から消してくれるとありがたい」

「は、はい!わかりました!今すぐ忘れます!たった今忘れます!もう忘れました!」

新は声を張り上げるようにして返事をすると、逃げるようにその場から走り去った。

残った憲紀は、昏々と眠るナマエの顔を見つめた。ナマエが学校に通うようになってからは、初めて近くで顔を見る。

意識がないせいか顔色が悪いが、それを差し引いてもあまりある程の美貌をナマエは持っている。肌は思わず触れたくなる程に滑らかで艶があり、きめ細やかに整っている。伏せられた瞳を縁取る密度の濃い睫毛は驚くほどに長く、瞼の下に影を作っている。鼻筋は細く、小鼻は愛らしい程に小さい。柔らかそうな唇は意識がなくとも口角がきゅっと上向きに上がっている。
いつまでも見ていられる程に美しいが、一秒でも早く目を覚まして元気な姿を見せて欲しい。

「ナマエ……だから、帰れと言っただろう。ここは危ない」

憲紀はそっとナマエの頬へ手を伸ばし、指の背でその表面を撫でた。見た目通りの滑らかな手触りだが、邪な気持ちにはならなかった。ただ新がナマエの裸をどの程度見たのか、と考えると、他の男にナマエを取られた気分になり、それを火種にナマエに劣情を抱いてしまう。ナマエを無理やり手籠めにし、子を孕ませ、自分から離れられなくしてしまいたい。

穢れに満ちた感情が胸の内を這いまわり、思わずナマエの胸元に手を伸ばしかけ、広げた指で空を掴んだ。

「ナマエ……噂は全て嘘だと言ってくれ……噂が本当であれば、私は容赦しない」

「容赦しない」ということが果たして加茂家嫡男として家名を守る為にナマエとの婚約を解消するのか、はたまた手籠めにするのか──ナマエがどんなに酷い女であっても前者の選択をできるとは思えない。それ程ナマエに対して妄執ともいうべき強い想いを感じていた。

そして数日後、ナマエがメカ丸と楽しそうに談笑しているのを見て、今までナマエに対して抱えてきた負の感情が一気に噴き出した。──ナマエに手を出してしまったのだ。




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