神は存在している。
そう言われて、素直に心の底からその言葉を信じる者はどれだけいるだろうか。
素直に神の存在を信じ、主を求めて祈り、ただそれだけに身を委ねる者は一体どれだけいるのだろうか。
少なくとも、彼が居た世界の日本という国では殆どの人間が"無宗教"、とっくに神の手を離れ自分たちを確かに確立させていた。
だが、そんな彼が居た世界とは別の世界。
遠く離れていながらも、何かの拍子に簡単にぶつかってしまいそうな、そんな場所に存在するこの世界において、神という存在は少なくとも彼が居た世界よりは妄信的とは言わないまでも、それなりに信じられている。
そして人々が信じている通り、この世界には天界と言うものが存在していた。
所謂、神が存在している場所。
そんな場所を、藍色の彼は走っていた。
長い髪が汗で頬に張り付くのを構いもせず、長い装束が乱れるのを構いもせず、ただ、今この瞬間も真っ赤に染まったままであろう彼を想いながら。
この世界とは正反対の技術が発達した彼の世界が藍色の彼は好きだった。
藍色の彼がいる世界で発達したのは魔術だ。
人間以外の生物は幻獣や精霊、神……そして、人間の負の感情によって生み出された、魔物。
それが生み出されるロジックも原理も、対抗策さえ確実なものは未だ解明されていないが、共通の敵が人間以外に用意されていることを考えると、彼が居た世界よりはずっと幸せなのかもしれない。
もちろん、人間である以上欲に駆られ悪事に手を染める者もいるわけだが、一般人同士であまり争うことはない。
魔物の存在があるので平和とまでは言えないけれど、人類にとって共通の敵がいるというのは結束力を高めるのに充分な役割を果たしてくれる。
彼が、別の世界の存在を知ったのはただの偶然だったけれど、自分が居る世界とは全く毛色の違うその世界に彼は惚れ込み、度々時空を超えて訪れていた。
あの世界には共通の敵がいない。
そのためか人々は幾つかのグループを作って人間同士で争いながら生きている。あまり良いことだとは思えないかもしれないが、デメリットばかりとは言い切れない。
この世界にはない技術が数多く発達し、訪れる度に顔色を変える。
ついこの間まで更地だった場所に突然巨大な鉄の塊が聳え立っていたり、数十年で天にも届きそうな程の高さの建造物を作ってしまえるような技術がいとも簡単に発達する。
決して潰えることのない魔物の対処で手いっぱいで、殆ど変わることのない自分がいる世界よりも眺めていて面白かった。
そんな別の世界で一瞬だけ出会った彼は、その一瞬のうちに藍色の彼の中で特別な存在になった。
人の身が真っ赤に染まる様子は自分の世界で幾度となく見てきたが、ライトを煌々と輝かせた巨大なトラックによって吹き飛ばされ、コンクリートに叩きつけられた彼の口元は死に際とは思えないほど優しく歪んでいて、光を失った目元はふんわりと細められていた。
その瞬間、藍色の彼は自分が神であることなど忘れ、神々しいものを見るかのようにしばし灯を失った彼に魅せられてしまった。
それから彼の身を襲ったのは、死への憧れ。
死ねない身体を持つ彼にとって"死"は不謹慎にも美しいものとして瞳に映る。
いつか来る確実な終わり…それを恐れ、少しでも遠ざけるために文字通り必死で生きるのだ。
また、死は同時に生の証明にもなり得る。
自分が確実にそこに存在していたと、少なくともこの世界の一部としてそこに在ったと、確かめることが出来る。
本来、神は人間の生死に関与してはならない。
それはきっとどの世界においても絶対的に破ってはいけないとさせるほどの掟だろう。
だが。それでも。
荒い呼吸を整えようとしないまま藍色の彼はやがて目の前に現れた大きな扉を開ける。
ざわついていた扉の向こうはぴたりと静寂を迎えた。
代わりにいつも通りの刺さるような視線と恐らく彼についての悪口であろうヒソヒソとした囁き声とが眩暈がするほど広いその空間に響く。
それを意に留めることなく彼はどこまでも伸びていそうな程長い机の一番奥、仰々しく座った、その存在を睨むように見上げた。
「…頼みがある」
彼がそう口を開くと、ぴたりとその部屋の中のざわめきは一時なりを潜める。
「生き返らせてほしい人間がいる」
雨の雫が大きな水たまりを揺らすように、その広い空間の中で響いた彼の声はざわめきを呼んだ。
それを制すようにいちばん奥に居たその存在は手を横に持ち上げる。
「ついに貴様、人間に肩入れし始めたか。前から怪しいと思ってはいたが」
小ばかにしたように鼻で笑い、一番奥のその存在はぎしぎしと音を立てて玉座のような大きな椅子に座りなおした。
「貴様とて忘れたわけではあるまい。神の一存で人間を生き返らせることはこの世界が創造された時から禁じられている」
「見ていたんだろ、何があったか」
「何を根拠に?」
その存在はにたりと口角を持ち上げる。
「まあ、そうだな。あの人間、最期は笑っていたのだから、良いではないか」
「…覗きかよ。趣味悪いな」
「ふん。貴様が言うのか」
この光景は遥か昔から続いてきたいつものことだった。
神として抜きん出た才能を持ちながらもあまり真面目ではない彼は周囲の神々から疎まれ、最奥に居る存在…最上級神と衝突する。
「元居た世界じゃなくてもいい。なんならこの世界でもいい。まだあの人間には生きていて貰いたいんだ。何を捧げたって良い。なんだってする。だから、頼む」
彼がこの世界が創造されて、神々の存在が確立して初めて、頭を下げた。ざわめきが一層大きくなっていく間も彼は頭を提げたまま微動だにしない。
暫しざわめきの中で考えていたらしい最奥の存在は咳払いを一つして立ち上がった。
「確かに神の所為で人間が一人死んだというのも聞こえが悪い」
遠くで足音と騒めきが聞こえる。徐々に奥から近付いてきた足音は目の前で止まった。
その存在が持っている錫杖がじゃらりと音を立てる。
「ではこうしよう。汝は己の不注意により人間を殺した。その罪を背負い貴様は天界を追放、世の理を壊さぬよう、死んだ人間は別の世界にて再び生を受ける」
次の瞬間、鈍器で殴られたかのような衝撃を受けて、彼は膝から崩れ落ちた。視界の端でくすくすと薄気味悪く笑う顔が一瞬見えたような気がしたが、すぐに忘れてしまった。
「罪を悔いよ。汝はこれより、神を名乗ることを許されぬ」
彼の意識はそのまま底知れぬ闇へと放り出される。動かなくなった彼を見て、その存在は何とも取れない声色のまま喉の奥で笑った。
「良かったではないか。人間にあこがれていたのだろう。……なあ、レイジ」