長い、長い夢を見ていたような気がする。
目を覚ましたその時、眼前に飛び込んできた光景を彼はぼんやりとした頭で見つめていた。
自分がなぜここにいるのか、今まで何をしていたのか、曖昧にぐらつく脳みその奥で彼は過去を思い出そうと瞬きを幾度かする。
その瞬きの最中、鼓膜を揺らしたのは劈くようなクラクションと軋むブレーキ、影をくっきりと持ち上げるライトに、どんどん視界を埋め尽くしていく大きな鉄の塊。死の瞬間には時間の進みが遅く感じるというのはよく聞く話だけれど、まさか体験できるとは思ってもみなかった。
「…思い出してきた」
目を閉じれば鮮明に浮かび上がる。
青く煌めく信号機、ライトを浴びて白線と同じくらい白くなる湿った道路、水滴が零れ落ちる艶やかな藍色、彼の金色の瞳に反射する十何年付き合ってきた自分の顔。
自分が生まれた日、幼稚園での出来事、小学校、中学校、高校……トラックにぐちゃぐちゃにされるまでの十何年の殆どを覚えているがただ一つだけ思い出せないことがあった。
自分の、名前だ。
「むきゅっ」
そして今自分の視界を埋め尽くした、何とも分類できなさそうな動物の事も、残念ながら記憶にはない。
顔面に張り付いたその生き物をそっと両手で包んで顔から離す。その生き物は相変わらずきゅうきゅうと鳴きながら、親指にまん丸くて大きい瞳が張り付いた顔を擦りつけてきた。
その生き物は短い手足とふわふわの長い尾をぱたぱたと動かし、ロップイヤーを携え、背中には自分の身体と同じくらいの大きさの翼が生えている。
甘えるように鳴きながら額を押し付けてきていることを考えたら恐らく敵意はないのだろう。とりあえずは安堵の息を吐く。
それにしても兎に羽が生えたようなこの子、結構鳴き声大きいな…。
その時、視界の端っこにあった金色のドアノブが回り、蝶番が軋む音が聞こえた。
「もう、リリィ。なに騒いでるの?」
重そうな真白いドアの奥から滑り込んできたその声は脳みそをひっくり返してもどこにも欠片すら残っていないと断言できるほど、聞いたことのない言語で構成されていた。
にも関わらず、声は彼の頭の中にあっさりと入り込んできて、脳に理解を強要する。
妙に冴え渡った脳裏に対し、なぜ理解できるのか理解できないという疑問が心臓のあたりを掻きまわした。
「ここには入っちゃダメっていつも……」
後ろ手でドアを閉めたその人物と目が合う。
黄緑色の長い髪を低めの位置で結ったその少女の、黄緑色の瞳がぱちくりと数度開いて閉じてを繰り返した。
彼女は数秒の沈黙の後、縺れそうになりながら悲鳴のような声を上げながら彼が寝かされていたであろう透き通った白いベッドに駆け寄る。
「に、兄さん…!! 兄さん、目が覚めたの?!」
「え…あ……?」
もちろん、この少女の事も彼の記憶の中には残っていない。自分を兄さんと呼ぶような関係の人物がいたということも。
少女の言葉にどう反応すべきか迷っている間に、その少女の声を聞きつけてか部屋の中に男女が飛び込んできた。彼らも少女と同じように彼のベッド脇に駆け寄り、声を震わせる。
「ああ…ああ…!!! 神よ、ありがとうございます…!」
「貴方が起きるのを待っていたのよ…!私はあなたの母さんよ、わかる?」
わかる?と言われても…。だって記憶の中の両親はこんな顔をしていなかった。
おいおいと涙を流すその二人にどうしていいかわからず思わずふいと目を逸らし部屋を見渡した彼は思わず息を呑む。
大きな鏡に映る自分は、記憶の中の自分とは似ても似つかない見た目をしていた。
鮮やかな緑色の髪と同じ色の瞳。そこに映っているのは自分だと、恐る恐る右手を挙げてその鏡の向こうに手を振るまでは、その鏡の向こうで緑色の髪の彼が手を振り返してくれるまでは俄かには信じがたかった。
自分は黒髪黒目の父と母とを持つ人間のはずだった。少なくとも、記憶の中では。
「あの…ここは、どこですか」
思わず出した声は酷く掠れていた。まるで何十年も眠っていたかのように。
「まあ!もう言葉を…。思った通り、貴方は天才ね。ここはディーゼルツェ家の屋敷よ。貴方はこの家の長男なの」
女性はそう言い、にこりと微笑んだ。
その笑顔はまさしく"母"のものだっただろうが、彼にとっての母にはなれそうもなかった。記憶の中で黒髪の"母"が優しく微笑む。
「…名を、」
声が掠れた。首を傾げる両親と名乗る二人が聞こえなかったのか首を傾げた。
一度咳払いをしてもう一度口を開く。
「俺の名前を教えてくれますか」
「貴方の名前ね。貴方が生まれる前からずっと考えていたのよ、ね、あなた」
「ああ。お前の名前は、」
二人は顔を見合わせ、ふわりと笑った。
「リュートだ」
そう言われると同時に彼の中にぽっかりと空いていた穴が埋まったような気がする。慣れ親しんだもののようにその名前は空っぽだった自分にしっくりと染み渡った。
やはり、以前の名前は思い出せないけれど。
「さあリュート、お腹が空いたでしょう? すぐに食事を用意させるわ。クユキ、少しの間、リュートをお願いね」
「はい、お母さま」
少女が頷くのを見た男女は広い部屋を小走りに出ていった。部屋には先ほどの良くわからない生き物と少女とが残る。
足音が遠くなった頃合いを見計らい、少女は困ったように笑いながら溜息を零した。
「ごめんね、兄さん。なんか変な感じでしょう? 言葉がわかるとはいえ、いきなりあんな風に言われたんじゃ混乱しちゃうよね。……私はクユキ。一応、あなたの妹」
「俺は、どうなっていたんですか?」
「…そう、だね。えっと、僕は聞いただけなんだけど…兄さん、眠ったまま産まれてきたんだって。心臓は動いているし、検査をしても眠っている以外は問題ないから起きるまで待とうってことになったらしくて」
そう言った少女もといクユキは寂しそうに眉を下げた。
一方、リュートはそんな彼女の言葉をどこか他人の事のようにただ聞いている。
説明されたところで現実味を帯びてくることはないが空いている窓から吹き込んでくる風や自分の手の中で楽しそうにきゅうきゅうと鳴いている生物の感触は残酷なほどにリアルで、現実であるという事実を噛み締める他なかった。
「ねえ、兄さん。いきなりでびっくりして、混乱しているかもしれないけれど…いきなり妹だとか言われて困ってるかもしれないけれど、お願いがあるの。ほら、僕たち、血の繋がった兄妹なんだよ?敬語は、その…やめてほしい、なあ……なんて」
そういう彼女の緑色の瞳は揺れている。申し訳なさそうに、だが縋るようにこちらを見つめる彼女の手は震えていた。
この少女は、十何年もの間、兄の起床を待ってくれていたのか。
「…俺は、まだ君の事を妹だと思うことはできそうにありません」
それは彼の本心だった。
ほんの少し前までは、こことは全く違う世界で全く違う人間として生活していた。
少なくとも彼の記憶の中ではそういうことになっている。
目の前に居る少女どころか鏡に映る自分ですら受け入れられていない彼に、いきなり妹の存在を受け入れろなんて土台無理な話だろう。
彼が眠っている間ずっと兄だとしたい続けてきてくれたのであろう彼女には酷な話だが、人の心というのはそう簡単に変えられない。
「そ、そう、だよね。ごめんね、兄さん」
少女の長い睫毛の奥からは今にも涙が零れ落ちてしまいそうだった。
良心がずきりと痛む。
「でも君のお願いは叶えてあげられる」
「…え?」
顔を上げた反動で零れてしまったらしい涙が彼女の白い肌を伝う。
それをそっと人差し指で拭い、リュートは微笑んだ。彼女のじゅくりと潤んだ宝石のような瞳が見開かれる。
……あれ、待って。
「敬語嫌なんでしょ?クユキ」
口から滑り出る言葉。それは自信を持って自分が思い、自分が口に出したと言える。
だが、自分は妹を名乗るとはいえ女の子を相手に、これほど積極的になれる性格だっただろうか?
記憶が正しければ交際経験は殆ど無いに等しい人間だったはずだけれど。
「…ふふ。兄さんって、思っていたよりもずっと"兄さん"なんだね」
クユキは数度瞬きをした後、潤んだ瞳のままふにゃりと笑う。
そして不思議そうに首を傾げるリュートの手を握り、そっとそれに頬を宛がい、擦りつけた。
「ねえ、兄さん」
彼女の細い指が手の甲を撫で、思わずきゅんとする。
だが決してそれは女性に対して抱くものではなく、少なくとも昏睡していた十何年を埋める記憶の中で妹を持ったことのない彼でもこれは"愛妹"に抱く感情なのだとわかった。
「何?クユキ」
少し照れがあったが、そう名前を呼ぶと彼女はくすぐったそうに笑みを零す。
十何年の空白を埋めるかのようにクユキはリュートの手のひらをぎゅうと握りしめ、兄妹はまるでずっとそうであったかのようにお互いを見つめ合う。
未だに先ほどの男女が両親であることも、目を細めて微笑むこの少女が妹であることも、喉につかえることなく飲み込むことは出来そうにはないけれど、一先ず彼女たちの言葉を信頼することに決めた。
「ずっと待っていたんだよ…ずっと、」
そんなリュートの内心を知ってか知らずかクユキはそう言う。
また彼女の瞳がうるうると揺れだした。
「おはよう、兄さん」
「…うん。おはよう、クユキ」