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小学四年生の時、わたしの父は死んだ。四十代も後半、そろそろ五十路というところだった。五人姉弟の末っ子長男で、祖母からも随分と溺愛されていたから、マリアナ海溝もかくやと言わんばかりの泣き声が至る所から聞こえてくる。父が入院している時に最も父の元にいて、最も動き回ったのはわたしだと思う(責任の付属してくる事柄はさておき)。だから、父に着々と死の気配が近付いて来ていたのは、わたしが一番分かっていた。だからだろうか。何もかも、それこそ父の死という核である事柄でさえ、放り投げたくなって。
『もしもし、麻由ちゃん?』
「……みのりさん」
――思えば、一番最初の分岐点は、きっと此処だったのだ。
意味も必要もないのに、家族以外で唯一覚えていたダイヤルを押した。家の近くにある商店街の、お花屋さん。皆泣いているのだし、わたしだけ抜け出したって気付かれないだろうなと思って。いざ電話が繋がると、なんだろう、何だか、胸がきりきりする。泣けないのに。一番泣かないだろうなと思っていた姉でさえ号泣していた。親戚からは痛い目で見られた。父が死んだことではなくて、周囲の環境が嫌だったのだと思う。父を見取ったのは母だった。落ち着かなくて、走り回って。それまで父を見ていたのはわたしだったのだけど、そろそろ母も父のところへ行った方が良いだろうなと思って、わたしが母を呼んだのだ。両親はお見合い結婚だったのだけれど、お互い、情はきちんとあったのだと思う。母を見てから死ぬなんて。きっと分かってもいなかっただろうに、随分と自分勝手だったわたしは、父に裏切られた感覚さえ抱いてしまったのだ。世界の全てが裏返った気がした。例えば父が音痴だと思っていたのはわたしだけで、わたしの知らないところではすごく歌が上手かったりしたのを知ったのも死後だったし、普通の土木関係の仕事をしていると思っていたのに、とある会社の代表取締役だったことを知ったのも死後だった。父はわたしにたくさんの嘘をついた。それでも好きだった。
一緒に近くのプラネタリウムを見に行ったし、遠出して大きな天文科学館にだって行ったし、アミューズメント施設にも行ったし、色んなおもちゃで遊んだし、特撮ヒーローや機械周りの知識も父から教えて貰った。お父さんっ子だと自他ともに認めるくらい、好きだったのに。
「どうしよう、みのりさ、わた、わたし」
悲しいのに。哀しいのに。苦しいのに。大好きだったのに。
「泣けない、の」
誰かが扉の向こうで鼻を啜った。面倒臭いとすら思ってしまった自分自身に、目の前が眩んだ。
結局、花屋さん――みのりさんは、葬儀用の花を持ってきてくれた。変わらない柔らかな笑顔に安心して、胸が詰まる。
あ、泣きそう。
「良く、頑張ったね。いい子だ」
あと、もう一歩。感情を吐き出したくなって、大きく息を吸い込む。その時。
「麻由」
ぴしり、と体が固まった。母の声だ。暖かいみのりさんの笑顔が、塗り潰されていく。嫌だ、そっちは。行きたくない。母は酷いひとじゃないけど、時偶ヒステリックになるし、祖母と姉は――……。嫌な理由ばかり積み重なる。反射的に手を握りしめれば、浮かぶばかりだった嫌悪感も潰えるような気がした。
「……今行く」
じゃあね、とみのりさんに手を振る。物言いたげな瞳は知らないふりをした。喪の黒が風に揺れて、哀しげな声を運んだ。泣き声ばかりが埋め尽くすその場所に帰りたくないし、居心地は悪いし、直系の父が死んだのに涙を流さない異様な子供を見る目も痛かった。さびしくないの、と姉が聞く。さびしいよ、とわたしは答えた。なら、なんで泣かないの。
「だって、泣くのも面倒臭いんだもん」
中に居る人達に聞こえないくらいの音量で、小さくそう言えば、姉は怒ったようにまたひとつ、涙を流した。だって今思ったのだけれど、誰が死んだって、結局他人事だ。どうしてそんなに泣けるんだろう。ぼんやりと進む葬儀を眺めている。まるでわたしが二人いるみたいで、気持ち悪い。ただじっと、そこに飾ってある花を見ていた。いつか聞いた話だけど、みのりさんも家族を亡くしているらしい。ずっと、小さい時に。
(なら、この花はどんな気持ちで用意したんだろう。……みのりさんも幻滅したかな。薄情な子供だって)
嫌だなあ、みのりさんにそう思われるの。悲しいなあ。それでも、仕方ない、なあ。本当に、どうして泣けないんだろう、わたし。
****
葬儀は無事に終わった。直系の家族が喉骨を取るだとかで、わたしと姉と母で父の喉骨を骨壺の中に入れた。気持ち悪かった。ただひたすら。母が父の死を受け止めきれなくて、骨壺を家に置いておくと言ったのが信じられなくて。みのりさんを呼んだのも、送り返そうとしたのもわたしなのに、弱るとすぐみのりさんを頼ってしまう。あまりにも自分勝手で吐き気がした。親戚の集まりが終わって、わたしは弾かれたように家を出た。ちょっとだけ他より大きな家は、父が設計したものらしい。父が乗っていたこのトラックは処分するそうだ。色んなものが変わっていく。変わっていく。変わっていく。変わらないでと思うわたしは、ただ取り残されるのが嫌なだけのわがままな子供だった。
商店街を抜けて、花屋のある場所に出る。いつの間にか上がっていた息を整えて、扉を開けた。
「いらっしゃ……」
「みのり、さん」
みのりさんがわたしの名前を呟いた。まるで何もなかったみたいに、いつも通り、笑って。
「どうしたの?」
「あ、」
みのりさん、だ。いつもみたいに、珍しくお父さんに怒られた時、お父さんに遊ぶ約束をすっぽかされた時、お母さんに家を追い出された時も。いつだって笑って迎えてくれた、みのりさんの笑顔だ。
これは、現実だ。日常だった。普段通りの。ただ、お父さんが居ない毎日が始まるだけの。だって、世界は歩みを止められないんだから。
「泣けなかった」「悲しいのに」「苦しい」「みんな好き勝手言って」「もうやだ」「帰りたくない」「泣き声なんてもう聞きたくないよ」
「助けて、みのりさん」
この期に及んでまだ泣けないわたしは、一体なんだと言うのだろう。もうここまで、喉まで、涙の味を感じているのに。
ふと、顔を上げる。きちんと地を踏んでいるはずの足が、ぐらりと揺らいだ。暖かな体温がわたしを包む。
抱きしめられて、いる。
「頑張ったね、麻由ちゃん。俺が麻由ちゃんの歳くらいの時は、すごく泣いて……何も出来なかったよ。ちゃんとお父さんを送れて、偉いね」
「わたし……」
「うん」
「でも、泣けないのは、おかしいんだって」
「うーん……そうかな」
「みのりさんだって、泣いたって言ってたし」
「それは、人それぞれだから」
「……ちゃんと、頑張れてた?」
「頑張れてた。頑張ってたのを、俺は知ってるよ」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
花の香り。炎に燃やされた灰のにおいが、上書きされていく。さっきまで大きくなっていた燻りが、小さくなっていく。憎悪、嫌悪に、罪悪感。凝り固まった全部が、少し、風に飛ばされた。
「ね、みのりさん。お父さんに言いたかったけどもう言えないこと、ひとつだけ、言っていいかな」
こくり、と頭上のみのりさんが頷く。
「……あのね。クリスマス、純粋に祝えなくなるから、クリスマスに逝っちゃうのは、やめて欲しかったな」
ふわりと後頭部に手が回されて、ぽんぽん、と寝かしつけるように背中を叩かれる。今から帰らなくちゃいけないのに。少しの抵抗を見せれば、「送っていくから」と言われて押し黙る。
……そういえば、お父さんが死んでからばたばたしていて、ろくに睡眠も取っていなかった気がする。随分、眠気が強い。
「おやすみ、なさ、」
「うん。おやすみ、麻由ちゃん」
『おやすみ、麻由』
ああ、お父さんの気配が、する。
夢みるくじら