それと知らずに


それは一瞬。
まさに瞳を瞬いたと同時に視界が鮮やかな桜色で染まった。


厳しい冬の寒さは幾分和らいだものの、桜の芽が薄紅色に染まりつつある早春。ゆっくりと昇る太陽の光が、朝帰りの楸瑛の肌に優しく温もりを与えてくれる。
昨晩は少し飲みすぎたらしい。
邸に着くなり、酔い覚ましがてら庭園を目的もなく歩いていたが、そのうち疲れて一番立派な桜の木の幹に凭れかかってそのまま寝てしまったようだ。
冷えた身体に陽射しがじんわりと染み渡る。
空を見上げると早朝特有の白んだ色ではなく、真っ青。
(そろそろ出仕しないといけない時間かな、遅れるとまた絳攸を怒らせてしまうだろうし)
少し遠くで家人が朝支度をしている音が聞こえる。
今一度空を見上げたその時、視界が桜色で染まった。

突風が舞い上がる。と、同時にまだ咲いてもいないはずの桜の花びらが舞い散り、目の前に現れた桜色のそれは楸瑛の前に落ちてきた。
地面に落ちる前に咄嗟に抱え込む。
あるはずもない場所から落ちてきたのは、見たこともない衣を纏った女性であった。
受け止めたそれは、冷え切った自分の体温と同じくらい冷えている。
「大丈夫ですか?起きれますか?」
仰向けに抱きかかえ少し身体を揺らすが、閉じられた瞼はぴくりとも動かない。呼吸はしているようだが、寝ているというより、気絶している様子に近い。
ふわふわとした見たこともない裾が風に揺れて靡く。
軽々と抱えあげて邸内へと向かった楸瑛の足取りは軽かった。



「顔がにやついているぞ楸瑛。春に便乗してとうとう脳内に花でも湧いたか」
「こんな時に苛々してもしょうがないよ。のんびり我らが主を待とうじゃないか」
主上付きになって数日経ったが、一向に二人の前に姿を現さないことに絳攸は苛立っていた。
毎度のことながら書を片手に沸々とした怒りを湛えている絳攸の横で、楸瑛は窓から空を見上げる。
昼餉の時間も過ぎ、太陽は空高く昇っている。
ふと今朝方の出来事を思い出した楸瑛は思わず笑みを溢した。
「何が可笑しい!」
「いやいや、君じゃなくてね。絳攸、君は花の精を見たことあるかい?」
「・・・花の精?・・・真面目に言っているのか?」
訝しげに眉を顰め楸瑛を一瞥した後、またすぐ書に視線を落とす。
全く取り合ってくれる様子のない友人に楸瑛は肩をすくめた。
あのあと家人に任せてそのまま出仕してきたが、あの女性が目を覚ましたのか非常に気になる。
人ではあるだろうが、その確証はない。
主上付きに任命されていなければ、そのまま適当に言い訳して休んでもよかったのだが。
(絳攸が煩いだろうしねぇ・・・)
真面目が取り柄の友人は、短気も取り柄であるため、ずる休みなどまかりとおるはずがない。
「ねぇ絳攸、このまま窓から陽にあたっていてもしょうがないから、今日は帰っていいかい?」
ぴきりと血管が切れる音が聞こえた気がする。
「阿呆か貴様!!!そこで窓際官吏をしている暇があったら主上を探してこい!!」
やはりというかなんというか、烈火の如く怒られた楸瑛は「じゃあ探してくるよ」と手を振って室を後にした。


我が国の王様は、なんといっても隠れるのがうまい。
主上付きになった日、一日待っても現れなかったため翌日二人して躍起になって探したが見つからず、今日まで自分達の前に姿を見せてくれてはいない。
捜索するも三日目に絳攸が「こんな歳にもなってかくれんぼなどやってられるか!!」とキレてそのままである。
すぐに室に帰っても怒られそうだし、と、楸瑛は主上の執務室からほど遠くない庭を歩くことにした。

そこには藍家別邸に勝らずとも劣らずの風景が広がっている。
(・・・ん?)
空耳だろうか、心なしか人の声が聞こえた気がする。
奥に一本だけ、早い時期に狂い咲いている桜の木が見えたため、気になった楸瑛はそこへ向かった。
立派に咲いている桜の木に近寄り、ふと上を見上げた。
途端、突風が吹いて枝についている桜の花びらと、地面に落ちている桜の花びらが宙に舞う。
楸瑛の目に、見覚えのある桜色が映った。
桜の枝に女性が座っており、あちらも驚いた顔でこちらを見ている。
その顔立ちには見覚えがある。
楸瑛が知っているその顔は寝顔ではあったが、間違いない。
今朝方、突然現れた女性であった。


お互いに視線を合わせたまま数秒沈黙が続いた。
視線を逸らしたのは彼女からだった。あからさまに顔を逸らして大幹にガバリと抱き着いている。
その様子を見て、楸瑛はやっと我に返った。
今朝、邸で家人に任せたはずのなに、なぜ宮城の、しかも官吏であっても入るものが限られているこの場所にいるのか。
本当に桜の精なのかもしれない、という考えが頭をよぎる。
「そこにいては危ないですよ。こちらへ。」
すっと下から手を伸ばした。
彼女が座っている枝は楸瑛の身長より幾分か高い場所にあり、手が届く高さではなかったが、飛び降りてきても受け止められるだけのことはできるだろう。
彼女は背けていた顔をおそるおそる向けて、ゆるゆると首を横に振った。
「なぜ?」
楸瑛の問いかけに対しての返答はなく、もう一度首を横に振る。
警戒されているのだろうか、と彼女の様子を見て思った。
「私は怪しい者ではないです。ここに出仕している藍楸瑛と言います。この場所が少し特殊で・・・、他の者に見つかってはマズイのでひとまず外に出ましょう?」
「らん、しゅーえい・・・?」
彼女の唇から初めて零れた声に、楸瑛は僅かながら珍しくも動揺した。
今一度視線が交じって、大きく頷く。
「はい、藍楸瑛と申します。さぁ、早く」

言い終わる前に彼女がふわりと飛ぶのが見えた。

朝の出来事の繰り返しのように、楸瑛の視界に鮮やかな桜色が広がった。



20150910
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