28


優しい理由


空港へ向かうタクシーが来るまでの10分。
私とトシは、充分に二人で過ごすことが出来た。

お父さん達は大通りで車を待っているし、総悟お兄ちゃんは早々に家へ戻ったから。

もしかしたら皆、
私達に気を遣って、二人きりの時間を作ってくれたのかもしれない。

「紅涙…、」

抱き合って、
ほんの少しキスをして。

いくら住宅街の早朝でも、私達は塀に隠れた控えめな場所で寂しさを埋める。

「そろそろ来る頃だろうな…タクシー。」
「うん…、…そうだね。」

抱き締め合ったまま、言葉を交わす。
私からは離れたくなくて、トシが離れるのを待っていた。

「お父さん、呼びに来るかな。」
「たぶんな。」
「……。」
「……。…なんか…、…アレだな。」
「…なに?」
「こう…よ、…やっぱこう…、…離れ難い…よな。」

トシ……。

「行くっつったのは俺なのに…なんか…離れたくねェよ。」
「…うん。」

私も、離れたくないよ。
…でも、

「でも…もう行かなくちゃ。」

その言葉が聞けただけで、私は充分。

「飛行機に乗り遅れたら大変だよ?」
「だな…。」

トシの腕が解ける。

二人の身体が離れて、
少しずつ距離が出来て…

私の肌は、トシの体温を一瞬で忘れてしまった。

寂しくない、…寂しくはない。

「…紅涙、」
「ん…?」
「無理させてごめんな。」
「…なんの話?」
「お前の気持ちの話。」

トシが私の手を掴み上げる。

「我慢すんなよって言った俺が、一番お前に我慢させてる。」

硬く握り締める私の拳を見せられた。
無意識に手を握っていたらしい。

「俺が言うことって…全部俺が壊してるな。」
「そんなこと――」
「紅涙、」
「…なに?」
「やっぱ…、…やっぱ俺のこと、待たないでくれ。」
「えっ…」

なに…?

「つらくなったら、俺のことは切り捨てろ。」

え、なに…言ってるの?
なんで?

「お前が俺を前へ進ませてくれたように、俺も、お前の足を止めたくない。」
「トシ…」
「紅涙らしく過ごせなくなった時は、俺の存在なんて忘れてくれ。」

どうして…
どうしてそんな言い方するの?

「さっきまでは、待っててほしいって言ってたのに…」
「ああ。でも気が変わった。」
「そんな…」

迎えに来るって言ってくれたのに…、
それすらも、なかったことにしたいの?

「トシが…私を迎えに来るか分からないから……?」


『これから先、向こうで色んな人と出会って、中には魅力的な人もいるかもしれないわ』


お母さんが昨日の夜、トシに言っていた。


『紅涙もそれを理解しておきなさい。十四郎君の人生なんだから、縛りつけたりしないように』


頭では分かってる。
だからあの時、「はい」って返事もした。

けど…
せめて待つくらいは…

「違うって。」

トシは小さく笑い、
「お前の思ってるような意味じゃねェから」と私の頭に手を置いた。

「俺は絶対にお前を迎えに来る。だがいつか、俺という存在に縛れていると感じる時も出てくるはずだ。」
「…ないよ。」
「ある。小さいなりとも必ずな。傍で支えてくれる奴も…出てくると思う。」

トシは直接的な例を出さなかったけど、
たぶん、坂田先生のような存在を言いたいんだと思う。
話せる人がいなかった時、優しく寄り添ってくれる人のことを。

「もし俺が戻って来た時、紅涙が他の奴と…、傍にいてくれた奴と一緒に居たいと思っていたら……」

頭に置かれた手が、

「ちゃんと、祝福するからな。」

まるで私の涙を誘うように、優しく撫でる。

「元"兄"として、お前の前に立って『久しぶり』って言うから、心配すんなよ。」
「トシ…っ、」

トシは今も昔も変わらない。
私なんかよりずっと大人で、いつも私を想ってくれている。

「俺の存在よりも、紅涙自信の気持ちを大切にな。」
「ん、っ、」

頷き、涙を拭う。
トシは困ったような笑みを見せて、「じゃあ、」と言った。

「…行ってくる。」
「っ、ま、って!」

歩き出そうとした背中を呼び止め、その手を掴む。

「タクシーまで…っ、ちゃんと見送るからっ、」
「…、…ああ。ありがと。」

トランクを引き、
トシと二人で、お父さんとお母さんが待つ大通りへ向かった。

「おや…」
「あらあら…」

目を真っ赤にした私に、二人が苦笑いする。

「十四郎に随分と泣かされてしまったみたいだね。」
「人聞きの悪い言い方すんなよ。タクシーは?」
「まだだ。」
「ほら見ろ。やっぱ遅くなってるじゃねーか。」
「いや、じきに到着するはずだぞ。」

お父さんとトシが、通りの先を見ながら話す。
少し後方で、お母さんが私にハンカチを差し出した。

「ありがと…。」
「ちゃんとお別れは言えたの?」
「…、…ん。」

返事をするだけで胸が詰まってまた泣ける。
落ち着かせようと大きく息を吸った時、

「お、あれじゃないか?」

お父さんが通りの先を見ながら、手を振った。
ボヤけた視界に、近付くタクシーが見える。

瞬きをする度に距離は縮まり、ものの数秒で私達の前に停車した。

「よしっと。」

タクシーに荷物を積み入れ、

「それじゃあ行くか、十四郎。」
「ああ。」
「あなた、気をつけてね。」

お父さんとお母さんが二言三言交わす。
私もと思って、

「トシ…、…、」

口を開いたけど、言葉は続かなかった。
震える唇で何を言っても、寂しくなるだけ。

「っ、…、」
「……、」

するとトシは私の頭にポンと手を置いて、

「…行ってきます。」

穏やかな、静かな声音で言った。

「っ、っ…気を、っつけて、」
「うん。」

後部座席のドアが開き、二人がタクシーへ乗り込む。
窓越しに目が合うと、トシは弱く笑い、奥でお父さんが軽く手を振った。

「…っ…、」

ああ…、私…
もっと…、もっとトシと話したかった。
もっと傍にいたかった。

今日までたくさんトシと過ごしたのに、全然足りてなかった。

「トシ…、」

どうして別れるこの瞬間に気付くんだろう。

区切りがつかないまま離れるみたいで、やるせない。
やり残したことばかりが頭を占める。

トシ……

『行ってきます』

窓の向こうで唇が動く。
ほどなくして、車は発進した。

タクシーが遠のき、車列に入って、他の車と混じる。
呆気ないほど早くに見えなくなった。

「帰りましょう、紅涙。」
「……、…うん。」

家に帰った後、
私は自室にこもり、随分と長い時間、泣きはらしたのを覚えている。



そんな別れの日から、数年。

「早雨さーん、この後どう?皆と呑みに行かない?」
「あ、はい!ぜひ。」

私は社会人となり、ごく普通の日々を過ごしていた。

「じゃあ外で待ってるからー。」
「すみません、すぐ行きます。」
「いいよいいよ、ゆっくりおいで〜。」

デスクを片付け、パソコンを閉じる。

上司も同僚も、いい人ばかり。
みんな仲が良くて、文句の付けようがない職場だと思う。

なのに、

「はぁ…、…。」

どこか深く入り込めない。
こうして誘ってくれれば参加するけど、気付けば溜め息をつく自分がいる。

そういう時にふと、トシを思い出すことが多かった。

「今どうしてるかな…。」

先月は『忙しい』と言っていた。
弁護士の試験を受験をするかどうか悩んでるって。
本当に『たまに』しか連絡してくれないから、あまりよく知らない。

年末年始くらいは戻ってくるかと思ってたけど、毎年バタついてるようで会えないままだ。

「連休を使って向こうに行ってみようかな…。」

でもトシにも都合があるよね。
行って迷惑な顔をされるのは…会えないより悲しいし。

「仕方ないか……っあ、急がないと!」

バッグを手に、急ぎ足で会社を出る。
外には皆が…と思ったけど、先ほど声を掛けてくれた上司しかいなかった。

「お疲れー。」
「お疲れさまです!遅くなってすみません。皆さんは…」
「先に行ったよ。隣駅の店だから先に入ってもらったんだ。」
「そうなんですか!?すみません!本当に長い間待っていただいて…。」
「大丈夫大丈夫。じゃあ行こっかー。」

おっとりした上司と二人で駅へ向かう。
私が「早く合流しないと!」と焦っても、「ゆっくりでいいよー」と自分のペースを乱さなかった。

いいのかな…ほんとに。

「じゃ、じゃあ"向かってます"って連絡だけでも入れておきますね!」
「よろしくー。」

えっと、どこに入れたっけ…

バッグを探り、ガサガサと中を探す。
そこに「すみません」と後ろの方で男の人の声が聞こえた。

…私に?
いや、違うな。

「ちょっといいですか。」

さっきより声が近い。
これは…私に話しかけてる気がする。

でもなんか面倒そうだ。
道を聞かれる声音でもないし、ここはもう少し無視をしよう…。

「あの、こっち向いてもらえませんか。」

うわ…これ絶対面倒なやつだよ。
完全に無視無視。
っていうか、上司はどこに行ってるの!?

「なァって。聞いてる?」

はァー…、…もう、しつこいな。

「すみません、急いでるんで。」

振り返り、顔を見る。
その瞬間…

「!」

息が止まった。

「やっぱり。」

私を見て、フッと微笑む。

「う、…そ。」

その人は、

「ほんと。」

私の、

「…トシ?」
「ああ。」

ずっと…ずっと会えなくて、会いたかった人。

「っト――」

「早雨さん?」

「!」
「あっ…、」

そうだ、
私、これから上司と一緒に…

「お友達かい?」
「え、えっ…と……、…。」

どうしよう、なんて紹介すればいいの?
お兄ちゃん…だったのは昔の話だし…。

って、そっか。
私達の過去を知らない人には、普通に"彼氏"って言っても変じゃないんだ。

「あ、あの彼は私の――」
「申し訳ありません、」

トシが私の言葉を遮り、上司に頭を下げる。

「ご挨拶が遅れました。紅涙の兄です。」

えっ…

「ああっお兄さんでしたかー。」
「紅涙がお世話になっております。」
「いやいや、こちらこそ。僕は早雨さんの上司です〜。一応。」
「ははっ。一応ですか。」
「ちょ、ちょっとトシ?」

『何言ってるの?』
訴えるように腕を引いて眉を寄せる。
トシは横目に見て、私の手を腕から剥がした。

触るなって、言ってるみたいに。
なんで…?

「早雨さんとお兄さんはあまり似てませんねー。」
「ええ。親の再婚で兄妹になったんです。まァその両親はまた離婚したんですけどね。」
「そ、そうだったんですか…。すみません、込み入った話を…。」
「いえ、こちらこそややこしい家族ですみません。」

なんで…言わなくてもいいことなのに……。

「それじゃあ俺はこの辺で。お邪魔して申し訳ありませんでした。」
「えっ、ト、トシ?」
「またな、紅涙。」

軽く手を上げ、私達に背を向ける。

もしかして…、

「早雨さんのお兄さん、立派そうな方だねー。」
「……、」

勘違い、してる?

「早雨さん?」
「…すみません、」
「え、何が?」
「あの、やっぱり今日は欠席させてください。」
「ええ!?ど、どうしたんだい、急に。」
「あの人、本当は私の彼氏なんです。久しぶりに海外から戻ってきたみたいで…」

トシが歩いて行った方を見る。
辛うじて、まだ姿が確認できた。

「でも…お兄さんなんでしょ?さっき彼も言ってたし…」
「上司を勘違いして言ったんだと思います。たぶん、私の新しいの彼氏か何かだと思って…」
「僕が彼氏!?そ、それは大変だ、早く行きなさい!皆には話しておくから!」
「すみません、ありがとうございます!」

頭を下げ、私は急いでトシの後を追った。
けれどもそこにはもう姿はなく。

「どこ…!?」

人混みに目をこらし、必死にトシを探した。

どんな服を着てたっけ?
…ああダメ、全然覚えてない。

でもトシの姿は目に焼き付いてる。
顔も雰囲気もまた少し大人になっていて、ますますカッコよくなっていた。

「きっとまだ近くにいるはず…。」

今日は家に帰るのかな。
それともホテル?
もし家なら、こっちの改札を使うけど……っ、あ!

「いた!っ、トシ!!」

今にも改札を通ろうとしている背に声を掛ける。

「待ってトシ!!!」

行き交う人の注目を浴びても、気にしない。
ただトシが振り返ってくれることだけを願い、私は駆け寄りながら名前を呼んだ。

「トシ!!!」
「?」

聞こえた…!

「待って!っ、行かないで!」

トシは改札の前から離れ、こちらへと歩いてくる。
私は走る勢いのまま、遠慮なしに抱きついた。

「トシっ!」
「うおっ、」

ドンッと音が鳴る。

「お前…こんなところで何やってんだよ。」
「それは私のセリフ!」
「?」
「なんで勝手に帰っちゃうの!?やっと…っ、やっと会えたのに!」

話すうちに胸が詰まって、涙が込み上げてきた。
悲しいのか嬉しいのか、自分でもよく分からない。

「なんでって…さっき彼氏といただろ?」

やっぱり…。

「違うよ、あの人は彼氏じゃない。職場の上司。」
「嘘つけ。言ってたじゃねーか、『一応、上司』って。」
“一応っつーのは、上司も兼ねてるけどって意味だろ?”

……、…はぁ。

「違う。」
「違う?この国の言い回しは分かりにくいな。」

……。

「忘れちゃった?日本のこと。」
“私がトシの彼女だってことも忘れたの?”

トシは目を瞬かせ、「んなわけねェだろ」と薄く笑った。

「なんで俺が日本に戻ってきたと思ってるんだ?」
「…なんで?」

本当は、おおよそ分かってる。
分かってて、わざと聞いた。

もちろんトシにはバレていて、そんな魂胆お見通しだという顔をする。

けれど、

「ようやく…、」

いつになく真剣な顔つきで、

「ようやく、約束を果たせる日が来たよ。」

私の左手を掬い取った。

「トシ…」
「お前を迎えに来た、紅涙。」

私の薬指の付け根に、そっと口付けて、


「俺と一緒に来てくれないか?」


ずっと聞きたかった言葉を、私に言った。

「今すぐじゃなくていい。仕事の都合がついたら、俺と向こうで過ごそう。」
「っ…」
「紅涙の気持ちは?」
「っはい!」

トシを思いっきり抱き締める。
人前だなんて気にする余裕もない。

「待ってたよ…、ずっと…っ待ってた…っ。」
「待たせてごめんな。」

トシから香る懐かしい煙草の匂い。
目を閉じると、何年も前にタイムスリップしたような気分になった。

「紅涙、」
「うん?」

顔を上げる。
チュッと唇に軽いキスが降ってきた。

「ちょっ、トシ!?さすがにここでキスは…」
「何言ってんだ、こんなの挨拶だぞ?向こうじゃどこでもしてる。」
「…してたんだ。」
「してねェよ。そこまで心開いてねェし、唇とか紅涙しか無理だから。」
「ふふっ、そうなの?」
「ああ。だから一度やってみたかったんだよな、こういうこと。」

そう話すトシは、日本にいた時よりも少し明るい雰囲気に感じる。

考え方とか物の価値観とか、
見えない部分も少し変わっているのかもしれない。

「つうかよ、ここで慌てて会わなくても、家に帰りゃ会えたのにな。」
“日本にいる間は早雨家で泊まる予定だし”

うっ…そ、そうだったんだ…。

「いつまで日本にいるの?」
「明後日の朝。」
「えっ…」
「紅涙の準備が出来たら、また戻ってくる。その時は一緒に行こうな。」

なんて嬉しい約束だろう。

「うん…待ってる。」

なんて不安のない約束だろう。

「俺も、お前からの連絡を待ってるよ。」

トシが来てくれて良かった。
本当に…よかった。



そして、二ヶ月後。

「うわぁ…。名前が変わるって不思議な感じだね。」

私は再び戻ってきたトシと一緒に役所へ向かい、籍を入れた。

「土方 紅涙か。」
「なんか恥ずかしい…。」
「いい名前じゃねェか。しっくり来てる。」

二人分の荷物を引いて、私達は次の目的地を目指す。
いよいよ、空港だ。

「なァ紅涙。ガキの頃にした結婚の約束、覚えてるか?」
「…覚えてたの?トシ。」
「当たり前だろ。本気にしてたんだから。」
「夢見がちだもんね。」
「うるせェな、そーだよ。」

恥ずかしそうに睨みつけ、私に搭乗券を差し出す。

「俺は昔から変わんねェんだよ。」
「ふふっ、そんなトシが好きだよ。」
「ガキじゃねェんだから、愛してるとか言えねェのか?」

なっ…

「…言わないよ、恥ずかしい。」
「じゃあ言いまくって慣れろ。俺もそうするから。」
「トシはもう慣れてるんでしょ?」
「感覚としてはな。でも言い慣れてない。お前がいなかったから、言う相手もいねェし。」

…うん、嬉しい。
私だけに向けられている気持ちを感じる。

ずっと傍にいてくれた理由も、
ずっと私に優しかった理由も、
今思えば、あまりにも単純な話だったけど、

それが全てで、それ以上の理由なんて他にないよね。

「…ねぇトシ、これからもずっと傍にいてね。」
「嫌でも離れねェから覚悟しとけ。」

今までも、
この先も。

「…紅涙、」

ずっと、

「なに?」

私だけに優しいトシでありますように。

「……、……愛してるよ。」



優しい理由



「ごめん、トシ…無理。」
「はァ!?」
「やっぱり聞き慣れないから恥ずかしいよ…。耳熱い。」
「あ…あーそっちの『無理』な。……焦った。」
「……愛してるよ、トシ。」
「…うん、やっぱ俺も慣れてねェわ。」

2008.10.17
Remake 2017.11.25
*にいどめ せつな*


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