27


歩き出す、扉


「十四朗、足元には気をつけなさい。」
「わァってるよ、言われなくても。」

ガラゴロと音を立て、トシとお父さんが大きな荷物を引いて歩く。
玄関先に出ると、眩しいほどの朝陽を感じた。

「いい天気だね…。」
「言葉と表情は一致してやせんがね。」

私の少し後ろで総悟お兄ちゃんがクスッと笑う。

「まるで雨空でも見てるような顔してまさァ。」
「…そんなことないよ。」
「なんでもない顔されるより、寂しいと言われる方が嬉しい時もありますぜ。」
「……。」

細く息を吐き、前を行くトシを見る。
これから旅立つ背中は、なんとなく…もう遠い。

「父さん、タクシーはあとどれくらいで着くって?」
「10分だ。」
「それならちょっと早く出過ぎたんじゃねェのか?どうせ渋滞に巻き込まれて10分なんかで着かねェよ。」
「早く着くかもしれないだろう?どんな状況でも対応できるよう早め早めの行動を心掛けないと。」
「真面目。」
「あいにく、そうしておかないと父さんの仕事は務まらんのでな。お前も少しは――」
「はいはい、わかった。」

話を切り上げ、面倒くさそうに肩をすくめる。
お父さんは「まったく…」と溜め息を吐いた。

「あなた、大通りで立っておいた方がいいんじゃない?うちの家、少し分かりにくいから。」
「そうだな。遅れるといけないし、出ておこうか。」
「荷物持つわ。」

トランクの上に載せていた荷物をお母さんが手にする。
お父さんは「ありがとう」と言い、トシへ目を移した。

「じゃあ真面目な父さんは大通りに立っておくから、お前達は後で来なさい。」
「は?なんで。」
「しばらく会えないんだ。せいぜい別れを惜しむといい。」
「優しいんだか酷なんだか分かんねェ言葉だな…。」
「それが親というものだよ。さ、行こう。」

お父さんは荷物を引き、お母さんと二人で歩いて行った。

「なんだ、あの"言ってやったぞ感"は。…腹立つな。」

トシが顔を引きつらせる。
総悟お兄ちゃんは「何言ってんですかィ」と片眉を上げた。

「これから父親と二人きりの生活だってのに、仲良くしねェと。」
「何真っ当なこと言ってんだよ。…つか、お前は仲良くし過ぎるんじぇねェぞ。」
「ひっでェ言い方。十数年ぶりに家族で過ごす人間に、普通そんなこと言いやすかィ?」
「俺は言う。大事なもんを残していく家だからな。」

フンと吐き捨てると、総悟お兄ちゃんも同じようにフンと鼻を鳴らす。
けれど、

「…でもまァ、」

総悟お兄ちゃんはボソッと呟き、

「紅涙のことは心配いりやせんよ。ちゃんと…護ってみせる。」

そう言って、背を向けた。

「総悟お兄ちゃん…。」
「総悟…、」
「べつに野郎のためじゃねェし。護りたい対象が同じなだけでさァ。」
「フッ…そうかよ。」
「…じゃあ俺は戻りやすんで。」

スタスタと歩き、玄関に手を掛ける。
顔を半分だけ振り返らせると、

「せいぜいカルチャーショックでも受けて病んできてくだせェ。じゃ。」

悪態づいて、バタンと扉を閉めた。

「…可愛くねェヤツだな。」

トシが小さく笑う。

「総悟お兄ちゃんらしいね。」
「ああ。」
「……、」
「……。」

会話が消えると、静かな住宅街が戻ってくる。
遠くに、大通りを走る車の音が聞こえた。

タクシー…、もうすぐかな。

「…少し…、行ってくるだけだからな。」

トシがポツりと口にする。

「絶対…迎えに来るから。」
「…、……うん。」

頷く声すら掠れそうになった。

喉が震える。
何か話そうとするだけで、泣きそうだった。

「向こうにいる間は、あんま連絡できねェけど…」
「どうして?」
「ん?」
「どうして連絡…できないの?」
「時差があるからな。俺が電話できる時間は、こっちだと深夜なんだよ。」

そっか…、時差…。

「私は夜中でもいいよ。」
「そういうわけにはいかねェだろ。まァメールなら空いた時間にでも送れるし、メールは…たまにすると思う。」
「『たまに』?」
「たまに。あんまりすると、全部投げ出して帰りたくなっちまうから。」

それでもいいのにな…。
…あ…、そう言えば。

「…ねぇ、トシ。」
「なんだ?」
「トシは…向こうで何をしたいんだっけ?」
「なんだよ今さら。」
「私、ちゃんと聞いてなかったなと思って。」
「あー…」

思案するように視線をさ迷わせ、

「そうだな。確かに俺も、お前との関係ばっか気にして…そういう大事なことを話し忘れてた。」

苦笑して、「向こうにはな…、」と言う。

「向こうには、自信つけに行ってくるつもりだ。」
「『自信』?」
「そう。自分に…俺達の関係に、自信をつけに行ってくる。」
“ま、後付けな部分もあるけど”

そう話しながら、少しずつ視線を落としていく。

「俺さ…、…。」

とうとう私の足元まで視線を落とすと、トシは何かを話しかけて、やめた。

「どうしたの?」
「いや……その…ちょっと気持ち悪ィ話するけど、引くなよ?」
「う…うん。」

なんだろ…。

「お前の部屋で俺が最低なことをしようとした時、あっただろ?」

最低なこと…?

「気持ちが抑えられなくなって…襲っちまった時。」
「あ…、…うん。」
「その時まで…な。」

言いづらそうに何度も間を取りながら、

「その時まで俺…、」

大きく息を吐いて、私を見る。

「『もし紅涙も俺のことが好きなら、どうすれば一生、二人で暮らしていけるんだろう』ってことばっか考えてたんだ。」

えっ…

「ぼんやり考え出したのは、もっとガキの頃から。紅涙の気持ちを聞きもしねェのに、勝手に考えてたんだ。」
W自分で思い返しても、夢見がちで気持ち悪ィ話だけど…W

そう…なんだ…。

「引いただろ?」
「そんなことないよ。昔から考えてくれてたなんて…嬉しい。」

トシのわりに可愛らしい考えでビックリしたけど…
ずっと彼女がいなかったのは、私を想ってくれてたからなんだな、とか思うと…

うん、やっぱり嬉しいよ。

「本気か?」
「うん、嬉しい。」
「…、…そうか。」

トシは少し目を大きくした後、照れくさそうに笑った。

「でもその話と海外行きが関係あるの?」
「ああ。日本以外なら、俺達の関係を認めてくれる国があるんじゃないかと思ってな。」
「え!?ま、まさか、そういう国を探すために海外へ…」
「んなバカじゃねェよ。…今は。」

『今は』?
考えてたんだ…。

「日本の法律では、たとえ血の繋がりがない兄妹でも恋愛感情を禁止されてるようなもんだ。」
「うん…、」
「今でこそ籍が抜けたけど、あの時はまだ父さん達に離婚なんて話もなくて、どう考えても俺達は認められない仲だった。」

…そうだね。
そう思うと、私達はすごく悪いことを…してたのかな。

「だからあの頃は本当に歯痒くて…、どうしようもない焦りがあったんだ。」
“早く良い案を思いつかねェと、いつか紅涙を取られちまうってな”

トシ…

「それが紅涙を追い詰めて、兄妹の関係まで崩して…」

グッと拳を握り締める。

「おまけに黒川の件で、面倒くさがり屋の銀八と、捻くれたことしか言わなかった総悟が、俺なんかより紅涙を支え始めてさ…」

自嘲するような笑みを浮かべ、

「なんで俺だけ何も出来ねェんだろって…すげェ悔しかった。」
“一番傍にいた俺が紅涙を苦しめてたなんて…笑えねェだろ”

トシは弱く眉を寄せた。

「そんな時に、父さん達の離婚と海外転勤の話を聞いたんだ。どうせ傍にいられないなら離れようと思って、…行くって答えた。」

じゃあ…もう行く必要はないってこと?

…なんて、
ここまで出発準備をしている今があるのに、私はまだ淡い期待をしてそう言おうとした。

けど、

「その後だよ、向こうでしたいことを見つけたのは。」

トシの言葉に、淡い期待すらも弾ける。

「偶然父さんの部屋で、海外の判例集を見たんだ。」
「判例集って?」
「裁判の判例をまとめたもの。…まんまだな。」

苦笑して、トシが話を続ける。

「それを見た時に、向こうの法律なら俺達の問題はどうなるんだろうって思って、ちょっと調べた。」
「海外の裁判を…トシが?」
「ああ。そしたら結構色んな事例があってさ。事実婚は認めてくれる国とか、逆に日本よりキツイ国とか。」

どことなく楽しそうなトシに、私は「待って」と声を掛けた。

「でももう私達は家族じゃないし…必要ないんじゃないの?」
「ある程度はな。一度同じ戸籍に入ると、まっさらな他人ってわけにはいかねェらしい。」
「そうなんだ…。」
「けど、ちゃんと手続きすれば結婚だって出来るんだってよ。」
「っそうなの!?じゃあもう…っ」
「だからずっとお前と一緒に過ごしていくために、不安も心配も感じさせないように、色んな方面から日本の法律を見たいと思ったんだ。」

…え?

「紅涙に片想いしてた頃は、いつかもっと器用に振る舞えるようになってから紅涙に会いに行くことが俺の目標だった。」
“戻ってきた時、出来ることなら…もう一度告白しようって”

「けど今は、」と私の目を真っ直ぐに見る。

「俺達のこれからのために、日本に限らず、法律を学びたいと思ってる。それが俺の海外へ行く理由だ。」

……、

「…それじゃあ…弁護士か…何かに?」
「ああ。」
「……、……そっか。」

それしか言えなかった。
しっかりと前を見据えるトシは輝いている。
誰にも邪魔できない…、やっぱり応援するしかないんだと思った。

もちろん邪魔するつもりもないし、応援するつもりで今日を迎えたけど…

「なんか…スゴいね。」

すぐに帰ってくるかもしれないっていう期待も、消えてしまった。

「弁護士なんて日本でも難しい道なのに…スゴいよ。」
「日本の方が難しいらしいから、頑張ればどうにかなると思う。」
「そうなんだ…。」
「まァ父さんが喜ぶ道に進むのはなんとなく腹立つし、跡継ぎみたいな目で見られるのは嫌だけどな。」

…ん?

「跡継ぎ?」
「事務所で息子が手伝ってれば、どうしてもそういう目で見られちまうだろ?」
「え、ちょ、ちょっと待って。」

トシが不思議そうに首を傾げる。

「なんだよ。」
「もしかしてお父さんって、…弁護士なの?」
「はァ?お前…何年家族やってきたんだよ。父さんは企業を専門にしてる弁護士。」
“主に海外商社と契約する時に立てるアレな”

そ…そうだったんだ…!!

「私、あんまり会えなかったから、仕事の話とか全然知らなくて…。てっきり、サラリーマンだと思ってたよ。」
「まァそこは雇われの身だから間違ってねェよ。現に今回も海外支社に出張させられるわけだし。」
「そ、そうなんだ…。」

頷いた後、思わずポカンと口が開いた。
トシはそれを笑い、何を思ったのか、身をかがめてチュッとキスをする。

「ト、トシ!?」
「すげェ間抜け面してるから。」
「お母さん達に見られたらどうするの!?」
「もう兄妹じゃないんだし、責められたりなんかしねェよ。」
「で…でもご近所の目もあるし…」
「『もう兄妹じゃないんで』って言ってやる。」
「そんなのっ……通じるわけないじゃん。」
「だろうな。だから、そんな目も気にならなくなるくらいの力をつけてくる。」
「……。」

私にはトシが居るだけで充分だよ。
トシが傍にいてくれたら充分…心強いよ。

弁護士になんて…ならなくたって、私は……、…。

「どうした?」

顔を覗き込むトシに、私は目をそらして首を振った。

「じゃあ…トシが戻ってくるのは、弁護士になってからってこと?」
「そうしたいけど、さすがに時間が掛かり過ぎる。目処が立ったら戻ってくるよ。」

きっと…、
きっと一日に感じる寂しさなんて一瞬だ。

私には私の生活がある。
ふとした時にトシを思い出して寂しく思っても、そんな僅かな時間なら、きっと耐えられる。

私達が過ごしてきたたくさんの日々を思い出しても、ほんの一瞬にしか感じないんだから。

トシが迎えに来てくれるまでの時間なんて、きっと、あっという間のはずだ…。

「…紅涙?」
「……、」

私達のため、
一緒に過ごしていくために、必要な時間。

寂しくない。
悲しくない。

「……トシ、」

うつむいていた顔を上げる。
眼に張り付く涙が、下瞼へ集まっていくのを感じた。

今まで散々泣いたから、笑って送り出してあげたいのに…。

「……。」
「…紅涙…?」
「ちょっと、…待って。」

一言でも話せば、すぐに感情が溢れてしまいそうだった。

震える喉で息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
一呼吸おいて、私はもう一度トシと視線を合わせた。

「がん、ばってね。」
「……、」

微笑む顔は、自分でも違和感を覚えるほど頬が引きつった。

でも、これが今できる限界。

「応援…っ、…してる、から。」

私が見せられる、笑顔の限界だ。

「紅涙…、……。」

眉を寄せ、トシが私を見つめる。
じきに涙が零れてしまいそうになり、私は目をそらして隠そうとした。

なのに、

「ありがとな、紅涙。」
「っ…、」

不意に掛けられた優しい声音に、涙が落ちた。

「ありがとう。」

苦しそうな笑みを浮かべるトシの"ありがとう"には、いろんな想いが載せられているように聞こえる。

応援してくれて、ありがとう。
どれだけ寂しくても送り出す私に、ありがとう。

これまでの日々に、ありがとう。

「自信つけて、帰ってくるから。」

トシの手が私の背中に回る。
抱き締めてくれた腕は、今までにないほど優しくて、

「トシ…っ。」

私はギュッと強く抱き締めた。

「待ってるからっ。」

絶対に迎えに来て。
私のこと、忘れないで。

「ああ…、必ず紅涙を迎えに来るよ。」

二人の身体が一つになってしまいそうなくらい、強く抱き締め合う。

「どこにいても、お前を想ってる。」

思えばこれが、私達にとってはじめての別れだった。


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