冷めないキスを



 現在週末金曜日、午後18時。会社帰りの電車に揺られている。重い頭は熱があることをジクジクと訴えてくる。木曜日には既に怪しかった体調。それでも抜けられない仕事があったから、市販の風邪薬で騙しながらなんとか二日間を乗り切った。会社を出た途端気が抜けたのか全身が重くなった。

「それでは失礼します」

 と頭を下げた私を、顔を上げずに見送ってくれた上司はまだ仕事が残っているのだろう。手伝えない申し訳なさもあったけれど、この体調で作業したところで間違いだらけで足を引っ張ることは目に見えていた。だからこそ上司も「早く帰れ」と行ってくれたのだろう。

 満員の電車からはきだされるように降りて自宅へ向かう。足取りは重いけれど、途中でコンビニとドラッグストアへ寄った。週末分の食料と水分、薬や冷却シートなど、思いつく限りのものを購入する。おそらく体調は今夜から最悪になるだろう。こんな予想外れて欲しいけれど、自分のことだ。きっと当たるに違いない。それならば、まだ動けるうちに用意しておきたい。

 座り込みそうになる体に鞭打ちながら、ようやく家にたどり着いた。両手に提げた荷物を冷蔵庫の側に下ろしてすぐさまバスルームへ向かう。部屋着に着替えて洗濯物は洗濯かごへ放り込んだ。メイクを落とし歯を磨く。荷物を片付けて薬や飲み物、軽く食べられそうなものをベッドサイドに置くと、冷却シートを額に貼って布団へ潜り込んだ。途端に力が抜け、頭がぐるぐる回り出す。

「あー、限界」

 小さく呟くと何故か涙が出てきた。特別悲しいことがあるわけではないのに。それでも一度出てきた涙は止まることなく、枕をしっとりと濡らした。


「……」

 汗だくになった体を起こそうとして目眩がする。おそらく熱が上がっているのだろう。しまった。体温計を側に置いておくのを忘れた。あぁ、起きたくないなぁとぼんやり考えていると、目の前に望んでいたものが差し出される。

「39℃くらいあるんじゃない?」

 その声を聞いてガバッと起き上がる。すぐに頭痛が酷くなり頭を押さえる私を、「バカ。寝とけ」とベッドに横たえ、腕の間に体温計を挟んだ。

「……何でいるの?」

 掠れた声で問いかけると、「今日行くって連絡しただろ」と少し膨れた顔で答えが返ってきた。回らない頭で思い返す。あれは今週の始めだった。翔から金曜の夜行けるかもって連絡があったような気がする。嬉しいという気持ちはもちろんあったけれど、その時はすでに仕事が忙しすぎて余裕がなかったんだ。

「返事ないから、仕事忙しいんだろうって思ってたけど、まさか倒れてるとは思わなかった」

 心配そうな顔で頭を撫でられた。汗で額に張り付いた髪の毛を優しく剥がされる。その指の冷たさが熱で上がった体温に心地良い。

「……うつっちゃダメだから、帰った方がいいよ」

 側にいてくれて嬉しいのに、素直に言えない。彼は私より数倍忙しい。体調を崩すと大勢の人に影響する。だからこそ、体調管理はきっちり行っている彼に迷惑はかけたくない。

「泣いてたくせに」

 頭を撫でていた手が冷却シート越しに、私の額を弾いた。

「熱でうなされて泣いてる恋人をほっておけるほど、俺は薄情に見える?」

 言い終えた彼はどこか寂しそうで、「そんなつもりじゃない」と言いたいのに言葉が出てこない。

「あいが俺のためにって思ってくれているのは分かってる。でも、こういうときくらい彼氏らしいことさせてよ」

 布団の中の私の手が探し当てられ、彼の両手に包まれる。すぐに二人の温度が同じになった。

「翔……ありがと」

 やっと言えたお礼はとても小さな声しか出ない。それでも目の前の彼が嬉しそうに微笑んでくれたから、私は安心して目を閉じた。


「あい、何か食べられそう?」

 優しく揺り起こされて目を開ける。相変わらず頭は痛いけれど何か口に入れないと薬も飲めない。

「林檎……食べようかな」

 ベッドサイドに置いておいた赤い果物を指名する。「分かった」と林檎を持ってキッチンへ行く翔の背中に「洗って切るだけでいいから」と声をかけた。苦笑いを返した彼に、小さく笑いかける。彼は料理が壊滅的にできない。包丁をほとんど握ったことがないのだろう。林檎みたいに丸いものを切ることも心配なのに、皮むきだなんてとんでもない。

 指を切らないかハラハラしていた私のもとに、大きなお皿に乗せられた林檎が運ばれてきた。……包丁の使い方だけじゃなく盛りつけのセンスも問題ありかもしれない。

「口開けて」

 均等に切られた林檎の一つを、翔の指が摘んで私の口へ運ぶ。包丁を上手く使えないくせに、大きさは均等だなんて彼の性格をよく表していて、少し笑えた。

 口元に運ばれた果実を囓ると、シャリッと音がして瑞々しい水分が口の中に広がる。乾いた喉を潤すような爽やかな甘さに目を細めた。もっと欲しくて齧り付いては咀嚼し飲み込む。何度か繰り返していると、彼が持つ林檎の固まりは小さくなった。

「あい……その顔たまんない」

 何かに耐えるような顔をした翔が私の唇をゆっくり撫でる。まるでキスするような手つきに、胸が締め付けられた。

「翔……」

 呼びかけると動く唇と一緒に、添えられた指も動いた。かと思うと彼の手で口を覆われ、額に耳元に、頬に口付けられる。優しくも妖しく動く舌に、熱が上がったような気がする。

「治ったらここにするから、早く治して」

 唇をなぞられて、操られたように頷く。「いい子」と微笑まれるともう降参だ。意地っ張りな私は、いつも彼にこうやって溶かされる。彼にしか見せられない自分は嫌いじゃない。


 唇に残るあなたの熱が冷めないうちにキスして。

 そして頑なな私の心を解いて。

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