鍵盤の上でおどる
title by EVER GREEN
「櫻井くん、まだ弾いていく?」
先生に問われ、「ご迷惑でなかったらお願いします」と答える。
「好きなだけ弾いてていいわよ。もう少ししたら、あの子も帰ってくるから」
レッスンの時の厳しさとは真逆の顔で、俺をからかったのはピアノの先生。テレビでのお仕事をきっかけに再び習い始めたピアノ。定期的に練習したいが、仕事の波があってそうもいかない。
そんな時に思い出したのが、小学校からの同級生だった彼女。お母さんがピアノの先生で、彼女自身も凄腕の持ち主だ。友だち伝いに連絡を取り、時間の空いたときにレッスンを受けるという破格の対応をして貰っている。それ以来何度かレッスンで顔を合わせるうちにお付き合いするようになった。実は彼女、俺の初恋の相手だ。
先生にお礼を言ってピアノと向き合う。楽譜を頭から追い、時々鍵盤を見ながら無心に音を奏でる。頭と指と音。それが上手く絡まって一つのメロディーを奏で始める瞬間。滅多にないけれど、上手くはまった時の快感が忘れられないから練習してるのかもしれない。
「一緒に弾いてもいい?」
背後から声をかけられてビクッとする。誰かが入ってきたことに気づかないなんて、普段の俺ではあり得ない。それだけ集中していたということなのだろうと、驚きから少し汗ばんだ手のひらをズボンで拭いながら思った。
「帰ってきたんだ」
俺の返事も聞かず、隣に椅子を持ってきて座るあい。
「お母さんから、翔が来てるって連絡あったから急いで帰ってきた」
何気ない顔をしてても、そんな可愛いこと言われたらたまんない。正面の楽譜を見つめる彼女の顎をすくい取り、強引に唇を重ねた。
「俺に会いたかったんだ?」
濡れた唇を拭いながらニヤリと微笑むと、「当たり前でしょ」と唇を掠めとられた。
「ははは。さすがあい」
思わぬ仕返しを受けて笑いが零れる俺を横目で見た彼女は、再び楽譜に目を遣る。空中で指を動かし始めたそれは、彼女の準備運動。それならば俺も用意しなくてはと楽譜を頭にたたき込んだ。
「翔、いくよ」
あいの一言で演奏が開始される。彼女が演奏するのは下パート。もちろん楽譜なんて無い。これまで何度も練習してきたであろうこの曲を思い返した彼女が、頭の中で指で組み立てる音が彼女の楽譜だ。時に軽やかに、時に壮大な音に引きずられないよう正確な音を奏でる。あいは楽譜を元にアレンジをしている。それなら俺に求められるのは如何に楽譜を正確に再現できるかだろう。
それでも乗ってくるとどうしても感情がこもる。ここは少しだけ強く。この部分はちょっと溜めて。そういう微妙な俺の癖にも彼女は見事に対応し、二人で奏でる音楽は麻薬のように脳に染み込むのだ。
「はぁ。ちょっと休憩」
二人で演奏を始めてどれくらいたったのか分からない。絶えず動き続ける指に疲労を覚えて彼女へ願う。
「どうぞ」
そんな俺に小さな微笑みを返し、彼女は自由な旋律を奏でる。世界的なピアノ奏者である父親と、ピアノ教室の先生である母親。両親からのプレッシャーは無かったと彼女は言うが、周囲からの勝手な期待に押しつぶされそうになった時期もあっただろう。それを乗り越えたのは、両親から与えられた才能だけではない。彼女のたゆまぬ努力があったからだと俺は知っている。
昔はしかめっ面で弾いていたピアノ。「そんなに面白くなさそうな顔してるのに弾き続けるんだね」と言う俺に、「呪いみたいなもんだから」と悲しそうに笑ったあい。そんな彼女が今は微笑みながらピアノと向き合っているのが俺は嬉しくてたまらない。
彼女の細長い指が、鍵盤の上で踊るように跳ねる。まるで誘われているみたいで、勝手に演奏に参加した。一瞬こちらを見た彼女が破顔して、俺の鼓動が速くなった。
「あー、楽しかった」
連弾が終わり、指を休めるための緩やかな曲を演奏しながら彼女が呟いた。さっきまでとは打って変わってゆっくりとした動きに、気持ちが凪いでいく。それなのに、黒鍵の上を滑る白い指が何故か扇情的に見えて思わず緩く掴んだ。
「翔……どうしたの?」
演奏を中断されたあいが訝しげに俺を見上げるけれど、そんなことはお構いなしにその手に口付けた。
「鍵盤じゃなくて、俺に触れて」
思わず口をついて出た言葉に頭の隅で納得する。久しぶりに会えた彼女。一緒にピアノを弾くのも楽しいけれど、そんな間接的なふれあいばかりでなく、もっと直接君を感じたい。
俺の目に宿る欲望を感じたのかあいの瞳が少し潤む。離れようとする手を握る力を強めた。逃げようなんて考えてないよね?
「……私にも触れて」
観念したかのように呟きを落としたあいの手を引き、勝手知ったる彼女の部屋へ押し入る。ベッドに押し倒すと性急に唇を重ねた。
「覚悟しな」
耳元で囁くと一気に彼女の体温が上がる。衣服を取り滑らかな肌に触れる。時折零れる吐息に、溺れるように彼女を求めた。
鍵盤の上でおどるように動く君の指
今度は俺の指と唇で君が踊る番
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