愛君


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満員電車で足を踏まれた。すし詰め状態はなんとなく慣れるけど、卸たてのパンプスを硬い革靴で踏まれるのは、腹が立つものだ。それが木曜日なら尚更、休み前の金曜日とは訳が違う。会社についてから自分のデスクで、決して安くないパンプスの汚れを拭いた。


「苗字、頼んでた企画書今日中に仕上げられるか?」
『明日までじゃなかったですか?』
「社長が明日から旅行行くらしいねん。社内プレゼン明日の朝イチになったから今日中やないと出せへんやろ」
『無理です、今日打ち合わせ3件ですよ』
「頼むわ苗字!お前しか居らんねん、一晩であの企画書完成させられる奴なんて苗字しか居らんねんから、な?」
『はぁ…分かりました』
「ホンマに困った社長やで、ほな頼むわ」



広告代理店eight agencyのクリエイティブ部。クリエイティブはこの会社では一応花形部署。出来て間もない会社だから6年この会社に勤めている私は先輩よりも後輩の方が多い。就活の時、なかなか就職が決まらなかった時、手当たり次第に履歴書を送って唯一受かったのがこの会社だったのだ。

ぽつりぽつりとオフィスから帰宅する同僚。自分のデスクの照明が暗いオフィスを照らす。PCをたたく音だけが響いた。


「名前」



終業時間を2時間ほど過ぎた頃、誰もいないクリエイティブ部に後ろから声がした。



『忠義』
「まだかかりそう?」
『うん、ごめん。もう少しかかりそう』
「そっか、じゃあ…はい」


大倉忠義
eight agency営業部 。
この整った顔立ちから女子社員には人気があって社内では忠義を狙っている人もたくさんいる。隣の部署だし、うちの会社の営業とクリエイティブは関わりの強い部署同士だから仲良くなるのに時間はかからなかった。最初は忠義がご飯に誘ってくれて、何回かご飯に行っているうちに好きだと言ってくれた忠義と付き合うことになった。1ヶ月ほど前プロポーズを受けた。

ドサッと置かれたコンビニの袋の中を覗いてみると、お弁当とコーヒーが入っていた。今日は仕事帰りに駅前にオープンしたばかりの洋食店に行こうと約束をしていた。どうやら、時計を見てみればその約束は守れそうになかった。


『私に?』
「お腹すいたやろ?」
『ありがとう』
「俺もここでごはーん」


にっこりと笑った忠義が持っていた袋の中には大きなお弁当とおにぎりが入っていて「休憩して腹ごしらえしようや」といいながら隣のデスクにお弁当を広げた。


『ごめんね、楽しみにしてたのに』
「そんなこときにせんでええよ。社長の思いつきは、営業部も被害にあってんねん。それに、名前と食べたら何でも美味しいもんやし。いただきまーす」


忠義がモテる理由って顔だけじゃなくて、こういう所でもあるんだろうなって思う。忠義が怒ったところをほとんど見たことがない。こうやって過ごす忠義との時間なら、残業だって悪くない。熱々の洋食よりも、営業部の愚痴を聞きながら食べるほんのり温められた唐揚げ弁当の方が、100倍美味しい気がした。


『ごちそうさまでした』
「ごちそうさまでした」


忠義が買ってきてくれたお弁当を食べ終わると、再びパソコンに向かった。社長の思いつきのために、なんで残業しなきゃいけないんだよ!という怒りはとうの昔に捨てた。忠義の言う通り、よくあること。毎回腹が立ってたらやっていけないと、ここに勤め始めて2年目で諦めた。


『お弁当ありがとね、忠義仕事終わったなら先に帰っていいよ?』
「終わるまで待ってるで」
『でも何時に終わるかわかんないし…』
「俺が一緒に居りたいの」
『ありがとう』
「俺も何か手伝えることある?」
『じゃぁ…これホチキスで留めてもらおうかな』
「OK」


私は、こんな男性に出会ったことがなかった。約束をすっぽかしたのに笑顔でお弁当を買ってきてくれて、自分も忙しく外回りをしていたのに、自分のではない残業に付き合ってくれる。その間もコーヒーを入れてくれたり、コピーを取ってきてくれたり、膝掛けを用意してくれたり。1つだって嫌な顔を見せなかった。