カレット
よん
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盛り上がりが落ち着いてから、櫻井は席を立った。

「どした?」
「ちょっとトイレ行ってくる」
「おお、転ぶなよー」

酔いを心配しているのだろうが、そう言う高島のほうが余程酔いが回っているように見えた。大丈夫だと返し、足元に気をつけながら手洗いに向かう。高島ほどではないが、確かに櫻井も酔っていた。若干火照った顔を歩きながら冷まし、何となく心地好い気分で手洗いの扉を開けようとする。
その時だった。同時に、内側から扉が開けられた。足を止め、ふと下に落としていた視線を上げて硬直する。

――え?

顔を見た途端、心臓が重く鳴った。ザッと酔いがさめるのを感じて思わず一歩引く。

(どうして)

会うはずがなかった。それなのに。
扉を開けた男――古賀芳久(こがよしひさ)もまた、目を丸くして櫻井を見つめていた。

「……櫻井?」
「っ……あ、」

間違いない。男は櫻井の知る古賀だった。
何か、何か言わなければと口を開くが、上手く言葉にならないどころか、声にすらならなかった。速まる心臓の鼓動が冷静になろうとする櫻井の邪魔をする。
あまりに唐突すぎた。

「あ、おい……っ」

気が付けばその場を走り去っていて、古賀の声も聞かないままに元いた席に駆け込む。鞄とジャケットを乱暴に掴む櫻井に、近くにいた高島や西崎が驚いた顔で訊ねた。

「櫻井、どうした?」
「悪い、今日は帰るッ……また今度」
「ちょ、櫻井」

どうしたんだと櫻井の背を眺める同期たちに心の中で謝りながら店を出る。しばらく走ってタクシーを捕まえ、急いで乗り込んだ。

「お急ぎですか?」
「いや、っはあ、普通に……、とりあえず、南公園まで」
「かしこまりました」

タクシーが走り出すと、流れていく景色に古賀は映らず、櫻井は深く息をついた。まだ心臓がドクドクと音をたてて、嫌な汗が滲む。
――どうして、
どうして、とその言葉ばかりが頭の中を埋め尽くす。会うはずがなかった。もう何年も経った。月日も、場所も、あの頃から離れたというのに。
今頃。

「……は……」

――『櫻井?』

呼ぶ声が記憶と違わないことが胸に刺さった。思い出してしまった。忘れかけていたこと、否、忘れようとしていたこと。
名前も、顔も、声も、言葉も。
櫻井の心に残ること。離れないこと。

――『古賀』

こんな時に蘇る声は、古賀のものではなかった。
今でも、今だからこそ酷く滑稽に思える。

『お前が好きなんだ』

――やめてくれ。

蘇る声は櫻井自身の声。櫻井の言葉。過去の自分に懇願しても、何も変わることはない。
古賀芳久。
櫻井が初めて想いを抱き、口にして、受け入れてくれた人。

そう思っていた男だった。


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