カレット

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湿った夜の空気がいやに肌に張り付く。
住まいのマンションに近い公園前でタクシーを降りた櫻井は、足早にエレベーターに乗り込むと、五階のボタンを押して息をついた。早く部屋に帰りたかった。
エレベーターを降りて鞄から鍵を取り出し、静かに扉を開ける。明かりもつけないまま真っ直ぐ寝室に向かい、そのままベッドに倒れ込んだ。明日は休みだ。このまま眠ってしまったとしても構わなかった。
カーテンの閉まっていない窓から月明かりが射し込む。眩しさに目を閉じて、シーツを掻いた。

――『櫻井』

(嫌だ)

とうとう布団の中に潜り込んで、頭の中で響く声を振り払おうとする。しかしそんなことでは、古賀の声は消えたりしなかった。混乱が落ち着くにつれて目頭が熱くなる。
もう会うことはないと思っていた。会いたくなかった。
思い出す度、惨めになる。

(泣くな)

いい大人にもなって、と自分に言い聞かせながら目を開ける。
不意にポケットの中の携帯が振動した。高島からのメッセージで、櫻井の様子を心配するものだった。一度携帯を手放し、しかしやはり取り直して、大丈夫だという旨を返信する。ゆっくりと起き上がり、ジャケットだけ脱いでハンガーに掛けた。ベルトも外し、床に放ってシャツのボタンを少しだけ外す。再びベッドに戻ると、目覚ましのアラームもかけないで目を閉じた。
眠ってしまおうと思った。一晩経てば、きっといくらか楽になる。

(大丈夫)

眠れる、と自分に掛けた言葉が薄れゆく時は、なかなか訪れなかった。

* * *

「――さん、……櫻井さんっ」
「、え」
「おはようございます」

は、として顔を上げると、もう見慣れた新人・朝比奈の顔がそこにあった。心配そうに覗き込んでくる朝比奈に、しまったと気を引き締める。
休日は、結局ぼんやりとしたまま終えてしまった。どこか靄が掛かったまま、しかし仕事に支障が出るようなことはあってはならない。

「おはよう。ごめん、ぼーっとしてた。どうした?」
「大丈夫ですか? 具合悪いんじゃ……」
「平気だよ。ちょっと考え事してたんだ、気にしなくていいから」

笑いながらそう言うと、朝比奈はまだ気にしている様子だったが、「そうですか」と言って続けた。

「今度の営業先のことなんですが……ジャスパーワークスの月岡様、以前櫻井さんが担当されていたと伺ったので」
「ああ、あるよ。そうか、今度朝比奈に回すって言ってたな」

何気なく相沢に言われただけだったので、櫻井も言われて思い出した。手帳を取り出し、月岡のメモを朝比奈に見せる。まだ頭の中にも残っている、確か物腰の柔らかい青年だった。

「大丈夫、穏やかな人だよ。話好きだから付き合ってあげて。あと意見を挟まれるのがあんまり好きじゃないんだ、全面的にこれでもかってくらい肯定的なほうが好まれる」
「なるほど……盛り上がる話題とかありますか?」
「ああ……確か結構可愛い物好きだったな」
「ほんとですか。ふふ、話が合いそうです」

だろうな、と櫻井はデスクに置き直した可愛らしいうさぎに目を向け苦笑した。相沢がそれを知っていたとは思えないが、営業として送るのに朝比奈は打ってつけだろう。
自分の手帳にメモをとった朝比奈が「よし」と笑った。

「ありがとうございます、これで契約もばっちりです」
「楽しみだな」
「頑張ります」

間もなく朝礼が始まったが、相沢の言葉を聞きながらも、櫻井はやはりどこか上の空であった。
頭から離れない。気にしないようにしようとすればするほど、脳内で強く響く声が。

――『櫻井』

「櫻井」
「ッ」

唐突に叩かれた肩にビクッと跳ねて振り向く。脈打つ心臓、しかしそこにいたのは当然古賀ではなかった。驚いたような顔をした三国が軽く首を傾ける。

「朝礼終わったぜ、どうしたんだよ」
「あ……いえ、すみません、なんでも」

櫻井を呼んだ三国の後ろでは、池谷や福本が不思議そうな顔をし、朝比奈が少し心配そうな顔をして櫻井を見ていた。これでは本当にいけない。

「すみません、では、各自今日のスケジュール確認をお願いします」

――忘れろ。
自分に言い聞かせるしかない。そう簡単に消えるものではないとわかっていても、それでも。


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