カレット
ろく
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「ただいま戻りました」

梅雨も明け、じわじわとした暑さを感じ始める夏。
いつも通り帰社した櫻井は、鞄を置いて日報を書こうとした。その時、奥にいた相沢が「お」と声を上げる。

「櫻井、ちょうどよかった。ちょっといいか」
「はい」

呼ばれ、一体なんだろうかと立ち上がる。デスクの前に立つと、相沢はA3サイズの封筒を櫻井に手渡した。中に入っているのは恐らくどこかの会社の資料だろう。
相沢がなんともない風に言った。

「お前、古賀芳久さん、って知ってるか?」

――え?

一瞬何を言われたのかわからず、しかしすぐにその中にあった名に驚愕する。
古賀芳久。
何故ここで、こんなところで、上司の口からそんな名前が出てくるのか。
渡された封筒に視線を落とす。嫌な予感しかしなかった。
そしてそれは現実となる。

「今度このエリアに出店を考えてるらしいんだが、あちら様からウチをご指名でな……それで、担当を」

先がわかってしまった。

「お前にしてほしいと」

心臓の音が重い。
古賀が櫻井と会おうとしている。喜びはなかった。胸の中が急速に不安感と疑心でいっぱいになる。痛いほどに心臓が脈を打つ。
――なんで今さら、

「櫻井? どうした、大丈夫か?」
「……あ、……すみません、」
「学生時代の知り合いだから、気を楽にして仕事が出来るって仰ってたが」

相沢の言葉がほとんど入ってこない。
目眩がしそうだった。
突っ立つ櫻井を不思議に思ったのだろう、相沢が心配そうに言った。

「櫻井? 気掛かりでもあるのか?」

気掛かり。
正直に嫌だと、言ってしまおうかとも思った。
しかしこれは仕事だ。私情を挟んでいいものではない。
ここで断るのは逃げではないのか。
気まずい、苦しい。思い出したくない。
会いたくない、

――本当は、会いたいのか、

様々な感情が一度に混ざり合い、櫻井は無意識に止めていた息を吐き出した。
今の自分の根底にある気持ちはわからない。
それでも、だからこそ。

「……わかりました。担当、お引き受けします」

きっと、いずれ向き合わなければならなかったのだ。
過去と、自分自身の気持ちと。


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