カレット
じゅうご
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「櫻井さん、おはようございます」

朝、櫻井がいつも通り営業所に行くと入り口で朝比奈と鉢合わせになった。ぱっと顔を明るくして立ち止まる朝比奈に思わず笑い、それから手を伸ばす。
そのままそっと髪に触れると、朝比奈が目を丸くした。

「おはよう。花びら乗せるの上手いな」
「あ、ありがとうございます……」

朝比奈が運んできた二枚の桜の花びらを風に乗せ、春らしい景色に微笑んで営業所に入る。後ろから続いた朝比奈が照れたように呟いた。

「ちょっと期待しちゃいました」
「ん?」
「いえ、あっ武井さん。おはようございます」
「おー」

オフィスから出てきた武井に話を遮られたが、櫻井はちゃんと朝比奈の呟きを聞いていた。そして言わんとすることを察し、微かに頬を赤くする。
ーー会社でそんなことできるわけがない。



「あー、その花は、もう少し右でお願いします。そうそう、そこで」

洒落たテラスに立ち声を張る青年の後ろ姿を見て、櫻井は口元を緩めた。

「正田様」
「ん? ああ、櫻井さん!」

気が付いた正田がテラスの階段を下り、笑顔で片手を挙げた。

「こんにちは。わざわざ来てくれたんだ」
「もちろんです、ご無沙汰してしまって申し訳ございません。ご開店おめでとうございます、いよいよ明日ですね」
「ありがとうございます。タチカワさんからのお花も届いてるよ。いやあ、こういうのってさ、何回やってもやっぱり楽しいね。ほらほら、中も見てってよ」
「はい」

正田にカフェの中も案内され、最後に見た完成予想図がほぼそのまま反映されていることを実感した。櫻井が手を出すのはイメージや諸々の手配までだが、実際に形として出来上がっているところを見るのはいつも嬉しい。
ところどころで美しく揺らめくシェルランプを眺めて微笑していると、隣に立った正田が眼鏡を指で押し上げた。

「これホント、綺麗だよね。さすが櫻井さん」
「いえ……ありがとうございます。想像以上にイメージと合っていて。何よりです」
「うんうん」

感慨深そうに頷く正田に、櫻井も微笑む。
何枚か内装の写真を撮ってからカフェを出ると、正田も見送りに出てくれた。

「改めて、本当にありがとう櫻井さん。またよろしくお願いします」
「こちらこそ、ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

握手を交わして車に乗り込む。窓越しに会釈をし、正田のもとを後にした。
就職する時、特別インテリアが好きだったわけでも、営業がやりたいわけでもなかった。
履歴書でも面接でもあれこれ理由を並べたが、要は一人で暮らしていけて、必要とされるならなんでもよかったのだ。
それでも必死でやっているうち楽しくなって、好きになっているのだから、仕事というのは面白いものだと思う。
ここにいなければ得られなかった感情、立ち会えなかった出来事、出会えなかった人々。そう考えると運命やら、ご縁やらというものもあながち、と思えてくる。
ーー浮かれてるなあ。
朝比奈と恋人という関係に変わって早三ヶ月が過ぎ、妙な緊張も解けてきた。二人揃って真面目な性格のおかげで、会社では特に今までと変わりない日々を過ごしている。だからと言って会社外での関係もカテゴリーが変わっただけに過ぎないのだが、恋人でなければ得られない距離感や時間が確かにあった。それが幸せで、やはり浮かれているのだ。



就業後、櫻井はいつも通り会社を出て、家の近くのスーパーに車を停めた。先にマンションの傍に車を置いた朝比奈が来ているはずである。
『着いたよ』とメッセージを飛ばすと、少しして『すぐ行きます』と返事が来る。
間もなくして後部座席のドアが開いた。

「お疲れ様です」
「お待たせ」
「いえ、ちょうどレジ終わったところで」

後ろに買い物袋を置くと、朝比奈はそう言って助手席に乗った。車を出して自宅へと向かう。
夜までゆっくり過ごせる週末は、毎週こうして互いの家を行き来していた。仕事終わりに食事や近場のドライブに行くこともあり、二人きりで過ごす時間も増えている。

「何買ったんだ?」
「真鯛にしました。煮付けとムニエルどっちがいいですか?」
「煮付けかな」
「はい。帰ったらすぐ作りますね、お腹空きました」

あとは、と献立を話す朝比奈は、櫻井に対してこのところますます甲斐甲斐しい。櫻井の家に訪れる際には世間に望まれる嫁理想像さながらのサポートを見せ、感心させられることも多かった。お返しにと櫻井も同じようにしているが、朝比奈は嬉しそうにするものの、自分が動くほうが好きなようで、櫻井の世話を焼く時のほうがいきいきしている。
たまにふと気が付いたように「鬱陶しくないですか?」と聞いてくるので、その度首を横に振っていた。

「お邪魔します」

一声掛けた朝比奈は靴を揃えて玄関を上がり、手洗いをすませて冷蔵庫に食材をしまう。冷蔵庫とてもう勝手に開けていいと言っているのに、毎度律儀に「失礼します」と言うのには性格が出ている。朝比奈のコート類をハンガーに掛けながら、櫻井はいつものことながら不思議に思っていた。
ーー何で彼女いなかったんだろうな。
内心首を傾げつつ、何となくうやむやにしてどこかへ放るのもいつものことである。
やがてリビングは食欲をそそる香りで満たされ、ダイニングテーブルに朝比奈の手料理が並んだ。

「ありがとう、美味そうだな」
「今日は結構自信作です」
「いつも美味いよ」

褒めたつもりもなく感想を言えば、朝比奈はてれ、として「ありがとうございます」と自分も食卓につく。可愛いな、と弟のように思うこともある朝比奈だが、弟ではないのだ。
ーー恋人、
夕食を終えると、櫻井がコーヒーを淹れてソファーで寛いだ。
朝比奈が携帯で天気アプリをつけて嬉しそうに言う。

「明後日天気いいみたいですね」
「うん。よかった」
「ふふ、雨でも楽しめるのがラビランのいいところですけど」

にこにこと楽しげに話す様子に櫻井もつられて微笑む。
ラビランーーラビリンスランドといえば、学生から家族連れまで幅広く人気のあるテーマパークの一つである。朝比奈が行きたいと言ったので即了承したものの、櫻井から提案することはなかったであろうスポットだ。

「ラビラン、俺最後行ったのいつだろ」
「そんなに行ってないですか?」
「たぶん三年前くらい」
「じゃあ案内は任せてください」
「ん。任せた」

ぎ、とソファーが沈んで朝比奈との距離が縮まる。
これは知ってる、とゆっくり目を合わせれば、唇が重ねられた。

「ん……」

初めの一ヶ月くらいは触れあうだけだった。
それが二ヶ月、三ヶ月と、

「ン、ぁ……、ふ」

舌が重なるようになって、この時ばかりはいつも必死だったのだ。
期待しないように。

「ん、……は……」

控えめに舌先を繋いだ糸を、もう一度唇を重ねて切る。

「は……」

たった数秒、どうしようもなく幸せで、

「……ふふ」

朝比奈の笑顔を見るまでは、どうしようもなく不安になる一時。
それを拭うように頬に触れる温かい手。
いつも。

「そろそろ帰りますね。明日予定あるのに、遅くまですみません」
「ん、全然。ありがとう」

コートを着て鞄を持った朝比奈を玄関まで見送る。
短い廊下で朝比奈の後ろ姿を見つめるのは、毎度のことながらなんとも言えない気持ちになった。
靴を履く朝比奈に声を掛ける。

「……朝比奈」
「はい」
「明日、妹と会うんだ」

朝比奈が振り返り、櫻井を見つめる。意を決して尋ねた。

「朝比奈のこと話してもいいかな」
「もちろんです」
「……そ、そうか……」

思わぬ即答ぶりに櫻井のほうが戸惑ったが、同時にじんわりとした嬉しさがこみ上げてくる。

「話してもらえるの嬉しいです。すごく櫻井さんのこと好きですって、大事にしますって伝えておいてくださいね、ちゃんと。あと、すごく尊敬してて、仕事でもプライベートでも本当にお世話に」
「わかった、伝えるから、ちゃんと」
「ふふ。約束ですよ。気を付けて行ってきてください」
「ありがとう」

赤くなった頬に朝比奈が口づけ、ドアを開けて柔らかく微笑む。

「お邪魔しました。おやすみなさい」

朝比奈がいなくなったリビングで、二人ぶんのカップを片付けてから風呂を済ませた。
ベッドの中で明日の待ち合わせを確認する理香からのメッセージに返信し、アラームをセットして明かりを消す。
朝比奈の温もりを思い出して唇に触れる。
息を吐き、ぼんやりと脳にまとわりつく熱を払う。
本当はもっとーー、

(……ダメだ)

忘れるように寝返りを打ち、布団を手繰って別のことを考えた。
明日は理香と久しぶりに会える。楽しみだ。
朝比奈のことを話したらどんな顔をするのだろうか。きっと喜んでくれるだろう。
明後日は朝比奈と、朝比奈の好きな場所で一日デート。
朝比奈の笑顔がたくさん見られるに違いない。
幸せだ。

不安だなんて、贅沢だ。


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