置き去りの春にさよなら
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晴れた空に、生暖かい風に運ばれた、甘く柔らかな花の香りを思い出した。
だんだんと花の季節が近づいて、しかし未だ冬の寒さは続いている。数日後には雪予報が出ているほどである。
駅のホームで電車を待っていた。早朝、ホームにはサラリーマンや学生の姿が散り散りにあり、眠たげに白い息を吐き出している。
春になると、高架駅のホームからは駅前の立派な桜並木がよく見えた。
風に吹かれて舞っているのも。
ーー『先輩』
懐かしい記憶の声と重なってアナウンスが響き、難波は思わず一歩後ずさった。朝日を浴びながらやってくる電車をぼんやりと眺め、いつの間にか冷えていた指先を擦り合わせる。
プシ、と扉が開き、ボストンバッグを持った青年一人だけが降りてきた。
アッシュグレーの髪とピアスが目に留まる。
そして難波が乗らないまま、電車の扉はゆっくりと閉まった。
「……知賀」
呼び掛けにもならない呟きだったが、その青年は足を止めて振り向いた。そして目を見開き、そのまま呆然と難波を見つめている。
電車がホームを去り、難波はようやく一歩踏み出した。
「知賀だよな、やっぱり……あ、覚えてるか俺のこと……?」
「……忘れるわけねえだろ……」
「そ……か、よかった、」
「はあ……?」
その声から沸々と込み上げるような憤りを感じてはっとする。青年ーー知賀は落とすように荷物を置き、難波に歩み寄ると容赦なく胸ぐらを掴み上げた。
「ぐ……!」
「何がよかったって……? つーか、よく平気で声掛けたな……あんたこそ覚えてんのか」
記憶よりも大人びた顔がぐっと近づく。
「俺にキスして逃げたこと……」
「ッ……」
「どうせ物珍しくてちょっかいかけてきたんだろ? とんだ最低野郎だよな」
「知賀……っ、話を」
「ちょっと、やめなさい! 何してるんだ」
駅員の声が響き、知賀が舌打ちをして乱暴に手を離す。それから放り出した荷物を掴むと、降り口に向かって足早にホームを去っていった。
「待ちなさいッ」
「いいです、俺が悪いので、本当に」
「え……はあ、」
「本当に……」
ーーあの時も。
* * *
知賀桜介は、高校時代の後輩だった。
学年は一つ下。陸上部に所属する難波と接点はなかったが、二年の秋の頃、初めてまともに顔を合わせたのを覚えている。
昼休み、クラスメートに呼ばれ、廊下に出ると知賀がいたのだった。アッシュグレーの髪にピアス、程よく着崩した制服、一見派手なビジュアルに掛かる黒縁の眼鏡がどこか不釣り合いだったのを覚えている。
(顔が整ったヤンキー……?)
最初の印象はそれだった。
何か気に食わないことでもしたろうか、と思わず見つめていた難波に、目を逸らした知賀が「これ」とカードを差し出す。
「外に落ちてたんで」
「……え? あっ、学生証! 探してたんだよ、ありがとう」
「それじゃ……」
「あ、ちょっと、」
渡して去ろうとする知賀を呼び止めたのは、何となくだったのか、今でもよくわからない。
「……何」
「いや……なんか、お礼を」
「別に、大したことじゃねえし」
「あ」
結局すたすたと歩き去っていった知賀の背を見送り、難波は教室に戻った。先ほど難波を呼んだクラスメートが恐る恐る寄ってくる。
「難波、なんだったん?」
「学生証、昨日落としたんだけど届けてくれた」
「えっ。あー、そうなんだ……じゃ受け取って渡せばよかったな、ヤンキーぽいからちょっとビビってすぐ呼んじゃったわ、ゴメン」
「いや、平気、ありがとな」
名前聞くの忘れた、と気づいたのはその時で、しかし同じ学校なんだからまた会うだろうと、難波は受け取った学生証をしばらく眺めていた。
* *
「あ」
意外と会わずに一ヶ月、珍しく朝練のない登校中に再び知賀の髪色とピアスを見掛けた。後ろ姿を早足で追いかけるとイヤホンをしていて、難波が隣に並ぶとようやく目が合った。
「っ、」
「あ、ごめん、驚かしたか」
「……なんだよ……」
難波側のイヤホンを外した知賀に、ちゃんと外してくれるのか、と内心笑う。
しかし反対側の口元が切れているのを見つけてぎょっとした。頬には湿布まで貼ってあり、難波がそれ、と呟くと目を逸らされた。
「……あ、そうだ」
鞄を漁り、絆創膏を取り出して手渡す。
「……は?」
「いや、口んとこ切れてるから……ほら、この前学生証届けてくれたお礼」
「いらねえけど……」
「今いらなかったらまあ、とっといて」
そう笑えば、ふと知賀が足を止めた。難波もつられて立ち止まると、渡したばかりの絆創膏を差し出してくる。
「……貼って。見えねえから」
「、ああ」
素直じゃない、と絆創膏を受け取り、さっさと剥がしてその口元に手を伸ばす。
ーーなんだろ、
じ、と胸の奥で何か燻るのを感じた。
黒縁の眼鏡の向こう、半分伏せた睫毛が知賀の瞳に影を落としている。絆創膏を貼る時、形よく結ばれた唇に触れそうになってぱっと手を離した。
「ん、貼れた」
「……どうも」
「何聴いてたんだ?」
「なんでもいいだろ……どうせ知らねえよ」
「たしかに、あんま音楽とか聴かないからなあ」
ほとんど難波が一方的に構っていたが、なんやかんやと他愛ない話をしながら校門に着くと、立っていた難波の顧問が目をぱちくりさせてこちらを見たので不思議に思いながら挨拶した。
「おはようございます」
「はい、おはよう……おい知賀、その怪我なんだ?」
ーーあ、チカっていうのか。
などと難波が考えていると、知賀は不快そうにして「別に」と難波を置いて行ってしまった。
「あ、知賀っ……あー、もう」
「先生」
「難波、お前あいつと知り合いなの?」
「知り合いというか……顔見知り程度ですけど」
はあ、と息をついた顧問が「そうか」と残念そうにした。
「俺のクラスの生徒なんだが……いろいろ心配でな」
「いい奴ぽいですよ」
「まあ、特段問題起こしたりはしてないんだ、染髪もピアスも校則違反じゃないし」
ただ、と口ごもると顧問はそれ以上言わず、難波に「仲良くなったら話とか聞いてやってくれよ」とだけ告げて話は終わった。
いろいろってなんだろう、と首を傾げる難波だったが、不思議と少しだけわかるような気がしていた。
何かが、そう、心配だった。
*
「あ」
冬の中庭、ベンチの上。
購買から教室に戻る途中、知賀の姿を見つけ、難波は友人と別れて声を掛けに行った。
「お前なんでこんなところで飯食ってんの……? う、寒」
「……じゃ教室戻ればいいだろ」
「いや、まあ……」
と言いながら一人分の空間を開けて隣に座ると、知賀に変なものを見る目で見られた。
「……先輩、ドM?」
「なっ……違う」
罵られたことはさておき、先輩と認識されていたことに妙に感動する。照れくさくなっておにぎりの袋を破ると、知賀が「それだけ?」と尋ねてきた。
「ああ、早弁しちまったから足りなくて……知賀こそ、そんだけなのか」
サンドイッチとコーヒー牛乳。
尋ねれば、知賀はつまらなそうにサンドイッチをかじる。
「あんま食欲ねえし……」
「お前細いもんな……あれ、部活やってんだっけ?」
「書道部」
「へえ! 字、上手いんだ」
「いや、幽霊……バイトあるし」
「あー……」
なるほど、と知賀を眺める。背丈は難波と大差なく、華奢とまでいかないが、運動部の難波と比べると全体的にスレンダーである。
中庭を寒風が吹き抜け、難波は思わずくしゃみをした。知賀が呆れた顔で呟く。
「もう戻れば」
「じゃ、お前も戻れよ……食い終わったろ、風邪引くぞ」
そう言えば、知賀は渋々立ち上がり、難波と共に校舎に戻った。しかし教室のほうへは行かず、「それじゃ」と難波と別れる。
「え、どこ行くんだ?」
「どっか……人いねえとこ」
そう言ってやはり、難波が引き留める間も残さず立ち去ってしまう。
午後の授業中も、何となく知賀のことを考えていた。
ーー『話とか聞いてやってくれよ』
(……いじめ?)
まさか、どうだろうと知賀の性格と風貌を脳裏に浮かべて教科書に視線を落とす。知らずに否定は出来ないが、どうもそんな気はしなかった。
ふと、難波から視線を逸らす知賀の姿を思い出す。
(……人自体、)
ーーあんま好きじゃないのかな。
*
「知賀、おはよ……」
雪予報が出た寒い朝、通学中に見つけた知賀に声を掛けて思わず言葉に詰まった。
頬に以前見たより大きな湿布が貼られ、目元も痣っぽくなっている。いつもの眼鏡はなく、じと、と難波を見た知賀の瞳は薄暗い。それもすぐに逸らされた。
「……前はあんま、聞かなかったけど……それ、転んだとかじゃねえだろ。喧嘩?」
「ほっとけよ……絡まれただけ」
「絡まれたって、誰に」
「誰でもいいだろ」
鬱陶しそうに吐き捨てた知賀が歩幅を広める。
「……絆創膏貼るか?」
「いらねえ」
「今日眼鏡してないんだな。コンタクト?」
「っせえな……壊れたの。あれ伊達だし」
「そうなのか? なんで伊達……あ、知賀、」
とうとう置いていかれ、しつこかったかと反省する。
「難波先輩、おはざっす!」
「おう、おはよ」
入れ替わるように後ろから声を掛けてきた陸上部の後輩三人が、前を行く知賀の背を見て難波に尋ねる。
「今のって、知賀ッスよね? 仲いいんスか?」
「仲いい……というか、知り合いというか? てか、知ってるのか、知賀」
「俺ら、同じクラスッスよ。ろくに話したことないけど……」
「あー、俺も」
「同じクラス……、なあ、知賀ってちゃんと……なんというか、上手くやってるのか?」
「どういうことッスか?」
「その……友達とか」
なんのお節介だ、と内心思うが、やはりいろいろと心配だった。後輩らが顔を見合わせて小首を傾げる。
「友達ってか……あんまつるむの好きじゃないっぽいんスよね。授業は普通に受けてますけど、自分から誰とも話さないし、休み時間はどっか行ってるし……一匹狼的な? 感じッス」
「俺らも、あんま知ってることないですよ。あ、ガソスタでバイトしてるのはクラスの奴から聞きました」
「へえ」
「あ、それから……一回話したことあるんですけど、」
降り出した雪がぽつりと地面に染みた。
「知賀って自分の顔とか、嫌いみたいなんですよね」
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