短編集
置き去りの春にさよなら
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次に知賀に会ったのは、進級して三年になった初夏だった。
暖かくなってから昼休みの中庭には人が増え、知賀の姿を見ることはなかった。どこにいるのか、と思いを馳せる。
その日の購買からの帰り、ふと思い当たり、難波は屋上に続く階段に向かった。

「……お、当たっ……た、と」
「……」

一番上の踊り場で、知賀はイヤホンをしたまま階段に座り、壁にもたれて静かに眠っていた。
眼鏡が僅かに変わっているのに気づいてこっそりと外す。試しに覗いてみれば景色は歪まず、確かに伊達のようである。

(あ、またちょっと痣……)

口元を眺め、痛そうだなと胸が痛む。
ーー『絡まれただけ』

ーーそんなに?

「……、……」
「あ、」
「……ッ、な、」

目を開けた知賀と思いきり視線が合い、難波はしまったと身を引いた。

「悪い、つい……」
「なんでいんの……」

イヤホンを外し、驚いたのか怒ったのか、微かに赤い顔で問う知賀に「いや、」と隣に座る。

「最近見なかったから……ここ、去年文化祭の準備で使ってて、涼しかったからもしかしてと思ってさ」
「……返して、それ」
「あっ、ごめんな」

眼鏡を返すと、知賀はすぐに掛け直してため息を溢した。
その様子に思わず呟く。

「……顔、」
「は……?」
「あ……顔、隠れてんのさ、なんかもったいないと思ってた。ずっと」

男前なのに、と小さく笑うと、知賀が眉を寄せる。
マジの地雷か、と身体をこわばらせるが、知賀は激昂することなく静かに俯いた。

「……るせえな……どうでもいいよ顔とか……」
「あー……そっか、」
「…………」
「…………あ、メロンパン食うか?」
「いらねえし」

突き返され、苦笑して自分で食べる。
それを横目に見た知賀が「先輩」と小さく呟いた。

「なんで俺に構うわけ」
「ん? ん……構うというか……なんかお前、心配なんだよ、しょっちゅう怪我してるし」
「……」
「親も心配するだろ、そんな怪我見たら」
「……するわけねえだろ」
「えー……」

してると思うよ、と続けようとした難波より先に知賀が話した。

「全部親父だし」
「……、……ん?」
「親父だよ……俺のこと殴ってんのは」

これも、と知賀の指が口元に触れる。
ーーなんだって?

「それって……」
「だから心配なんかいらねえの」
「は……?」

おかしいだろ、と内心怒鳴るが、上手く言葉にならなかった。
何が心配しなくていいものか。

「……相談したか? 誰か、」
「別に……そこまで大騒ぎするようなことじゃねえし」
「お前な」
「俺のせいなんだよ!」

知賀が声を荒げるのは、思えば珍しかった。その迫力に思わず固まると、ばつが悪そうにした知賀が唇を結ぶ。
予鈴が鳴り、難波もはっとして知賀に謝った。

「……わかった、ごめん、お節介だったな」
「……」
「けど……わかんないけどさ、お前のせいなんてことないよ、絶対……殴られるようなことしないだろ、知賀は」
「……もうほっとけよ……」

そう言って、先に立ち去ったのは知賀のほうだった。
ーー何してんだ俺、

「……はー……」

結局、夏休みが終わるまでの間、知賀を見かけることさえなくなっていた。

* *

「難波、推薦かー。いーなあ」
「でも一応面接も試験もあるし」
「ブーブー」
「はは」

季節は秋、難波の大学は推薦でほぼ決まっていた。この時期、部活も引退して受験一色となった三年生の階はもちろん、校舎はどこか静かな空気に包まれている。
昼休み、ふと廊下を見て知賀の姿を探した。いるはずもない。学生証を拾って届けてくれた日を懐かしく思い出し、一応買った面接の対策本をぱらぱらと捲る。

「難波ー」

はっとして顔を上げた。

「二年の知賀が……」

すぐに廊下に出て、それから見つけたアッシュグレーの後ろ姿に「知賀」と声を掛けた。

「……どうも」
「久しぶり……何、どうしたんだ?」

伊達眼鏡は相変わらずで、しかし顔に傷がないのを確認してほっと息をつく。

「これ」

無愛想に差し出された手に、また何か落としたのかと難波も手を出す。この時期に落とし物は縁起が悪い。
と、見覚えのないお守りが手のひらに乗った。

「……? 俺のじゃないけど、」
「そりゃ、今俺があげたから」
「……え、」

改めて見れば『合格御守』の文字。

「……お節介ちょっと移った」
「知賀……」
「いらなきゃ」
「いる、いるって、ありがとう」

嬉しい、と笑うと、知賀の口元が僅かに弛む。
ーー笑った。

「じゃ」
「あ、知賀」

呼び止めると、知賀は珍しく振り向いた。

「何?」
「いや……なんというか……、ありがとうな」
「……別に……俺も、」
「え?」
「……なんでもねえわ。じゃ、頑張って、先輩」

そう言って知賀は去っていった。
部活を引退しても、受験が始まっても意識しなかった『卒業』を、何故かこの時初めて実感した。



そして春。
桜満開の晴天の下、難波たち三年生は卒業を迎えることとなった。
卒業証書を受け取り、最後のホームルームを終えると、同級生や後輩との別れを惜しんだ。教室で、廊下で、一人、また一人と別れの挨拶を済ませ、ふと知賀の姿を探す。
ーーいないか、
連絡先も知らない。しかし知賀の顔を見ないまま帰るのは躊躇われた。
ーー会いたい。
とうとうほとんどの生徒がいなくなった校舎の中を抜け、陰になった中庭に出た。

「……先輩?」
「あ」

ベンチの上に座っていた知賀に声を上げる。木はなくとも桜が吹き込む中庭には花びらが溜まり、まるで花畑のようだった。

「知賀……よかった、探してたんだよ」
「……なんで?」
「なんでって、……なんでだろ、てか、知賀こそなんでこんなとこにいるんだ」
「中も、帰るにしても、人多かったから」
「あー……なるほど……」

近づいて、それから「お守り」と声を掛ける。

「効いた。ありがとう」
「……おめでとう」

素っ気なくも、どこか温かいその声がじわ、と胸に染みる。
ーー顔、ちゃんと見たいな。
長い睫毛が影を落とす綺麗な瞳も、本当は柔らかい目尻も、もう知っていた。

「……眼鏡、これからもずっと掛けてるのか?」
「……だったらなんだよ」
「いや、ずっと思ってたけど」
「っ、……な」

座ったままの知賀の眼鏡を優しく奪えば、驚いた顔で見上げてくる。
その瞳に映る難波の顔と春の青空に、雨上がりの水面を思い出した。

「……眼鏡ないほうが、やっぱり知賀っぽいな……」

吸い込まれるように唇を重ねた。
ーー桜の匂い、

「……っ、ふ、」
「……、っ!」

知賀の唇が動いた瞬間、我に返り、ばっと顔を離してそのまま後ずさる。
難波の手からベンチに落ちた眼鏡が虚しく音をたてた。

「っ……あれ……ごめん……、」

ーー何してんだ、本当に、俺。

「ごめん、な、……っごめん!」

走り去る難波の背を、知賀が呼び止めたような、罵られたようなーーもうよく聞こえなかった。
最後に見た知賀の顔は、呆然としていたか。怒りに震えていたか。否、見られなかった。

なんであんなこと。

(ごめん、)

ーー知賀、




「……ごめ……」

耳に響いた自分の声で目を覚ます。
はっとして時計を見るとまだアラームの二時間も前だった。力が抜け、まだ暗い室内で、息をついて天井を見上げる。

ーー『忘れるわけねえだろ』

十年ぶりに、例え恨まれているとしても、変わらない声でそう言われたことが嬉しかった。
あの時はわからなかった。
何故か世話を焼きたくなったことも、妙に心配だったことも、いつもどこかで知賀の姿を探していたこともーー唇を重ねたことも。

今ならわかる。

「……好きだったよ、知賀……」

いつからか。



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