短編集
塔野くんの自然観察同好会日誌
[2/7]


虹が架かっていた。
花は雫を落とし、土は濡れ、雲の隙間から射し込む光が辺りに煌めいている。

美しいと思った。
ただそれだけ。


* * *


「塔っ野」
「げ……っ」
「くん、おはよう!!」

挨拶と共に気安く肩に置かれた手を払う。

「声デケェし……」
「小さいよりいいだろう」
「うっせーんだよ朝から」
「朝元気じゃなくてどうするんだ。一日は長いんだぞ」

この一瞬で塔野の半年分の笑顔を見せた春山は、快活に笑うと「あっ!」と塀の上を見た。そちらを見るより先に春山の声に驚いて肩が跳ねる。

「なんだよ……!?」
「猫だ。ブチ模様だぞ……新入りじゃないか」
「あ?」
「学校近辺のエリアで確認出来ているのはトラとミケとクロだけなんだよね。猫が少ないんだ」
「……いや、どうでもい」
「てんとう虫だ!! 塔野くん!!」
「話聞けや」

紫陽花の上で休むてんとう虫を見に、ふらふらと離れた春山を置いて先を行く。しばらくすると満足したのか、春山は小走りで追い付いてきた。

「見なくてよかったのか? 可愛いのに。紫陽花に止まるなんてセンスがいいよね」
「付き合ってられるかよ……遅刻すんぞ」
「や、もうそんな時間か。あっ!」
「今度はなんだよ……! つかいちいち声がデケェんだよ!」
「ちょうちょ」
「幼稚園児かてめーは」

モンシロチョウを指して笑う春山に眉を寄せ、塔野は息をついて空を見上げる。青い空を呑気に漂うわたあめのような雲に、なんとなく小馬鹿にされている気分になった。
ーーなんでこんな奴と、



そもそも繋がりなどないはずだった。
同学年、ということ以外接点もない。中学で既にいわゆる「不良」に分類されていた塔野は、地元の高校に進学したものの特に誰とも関わることなく日々を送っていた。男子校で色気はないが何より近いのが楽で良い。授業は難しいことはなく、適当に受けていてもついていける。時折抜け出しても何を言われることもないのは、塔野が特別目立たない程度には、他の生徒もサボタージュしているからに違いなかった。
例えばここに兄が入学したならば、恐らく発狂するだろう。

「何してんだアイツ……」
「大丈夫かあれ」

入学して一ヶ月と少し、天気も良く新緑が眩しい昼下がり。適当な昼寝場所を探して校内を歩いていたところ、隣の棟との渡り廊下がざわついているのに気がついた。
大衆の視線の先を見れば、中庭に並ぶ木の一つ、その上のあたりに誰かがいた。
何やら枝に掴まり、ブルブルと震える手を懸命に伸ばしている。
ーーいや、どう見ても大丈夫じゃねーだろ……
塔野が足早に木の下まで行くと、内履きのシューズの色で同学年とわかる。かかとには小さく『春山』と書かれていた。

「何してんだお前……」
「えっ……あっ、いや、猫がっ」
「猫?」

葉で見えなかったが、立ち位置をずらすと確かに伸ばされた手の先には子猫がいた。み、と頼りなく鳴くのに、震える春山の顔が歪む。

「この通りで、助けてやらないといけないんだけど、ぼっ、僕、なかなかの運動音痴でねっ、勢いで登ったはいいものの、このままでは共倒れ……うう」
「なんで登ったんだよ」
「放っておけないじゃないかぁ……」

こんなの、と涙目で手を伸ばす春山に呆れつつ、下に回った遠野が両手を伸ばす。

「ん」
「……え」
「早くしろ」
「う、受け止めてくれるのか」
「早くしろって……」
「僕見かけより重たいぞ」
「てめーじゃねえよ猫だよ」

落ちるなよ、と声を掛けると、春山は頷いて冷や汗混じりに少しずつ進んだ。枝が軋むが、何とか手が届き、その手に驚いた子猫が足を踏み外す。

「あっ!」
「っと」

春山が声を上げるが、塔野がタイミング良く落ちてきた子猫を抱き止め、揃ってほっと息をついた。
子猫を地面に置き、それから春山を見上げる。

「で、次お前だけど……さすがに自力で下りてこいよ」
「うっ……世知辛い……」
「そうそう、ゆっくりな」

後ずさる春山を誘導し、ようやく幹に移るかという時だった。

「わっ」

ずるりと足が滑るのを見て考えるより先に身体が反応する。
ドッと鈍い音、背中に衝撃。頭を打たなかったのは幸いだろう。

「ッ……つー……」
「……っ……、あ! ご、ごめんよ、大丈夫かキミ、」

慌てて上から退いた春山が塔野の背を起こす。

「あー、イッテェ……どんくせえな、ったく……」
「足が固まってしまって……そ、それより大丈夫か、背中打っただろう」
「平気だこんくらい」
「でも一応保健室に、」

春山がそう言いかけたところで、胡座をかいた塔野の足に先ほど救出した子猫が乗って丸くなる。

「……」
「……ふ!」
「何笑ってんだてめー」
「笑うだろう! 可愛すぎる」

ぷは、と満面の笑みを見せるのになんとなく毒気を抜かれ、塔野は子猫を持ち上げると春山に押し付けた。

「特に怪我してねーし、んなやわじゃねえ。次こういうことあったら馬鹿なことしねえで誰か呼べよ」
「わ、わかった……あの、えーと……救世主くん」
「なんだそれやめろ」
「何くんなんだ」
「……塔野」
「塔野くん、か」

僕は春山、と子猫を抱いて笑う目の前の男は、なんだか不思議な空気を持っていた。
ーーいや、ただの変人……つーか馬鹿、

「ありがとう塔野くん。キミは僕らの命の恩人だな」

そう微笑んで、子猫の手をぴ、と挙げる。
じわりと頬が熱くなったのは気のせいだろう。

× ×

それから三日後、塔野は第二棟の裏庭で昼休みを過ごしていた。第二棟は昔使われていた学舎の一部らしく、本校舎に比べて小さな二階建てである。裏庭は草木が多いせいもあってあまり生徒は近寄らないが、陽当たりがよく気に入っていた。

「塔野くん!!」
「ぎっ」

突然響いた声に思わず跳ね、ばくばくと鳴る心臓を押さえて辺りを見渡す。が、姿がない。

「ここだよー、ここ」
「……あ?」

よくよく聞けば上から降ってくる声に空を見上げると、おーいと屋上から手を振る春山の笑顔があった。

「この間はありがとう! 第二棟によくいるってキミのクラスで聞いたから来てみたんだけど……まさかそんな草っぱらの中にいるなんてね! いいセンスだ!」
「下りてこい殴る」
「褒めたんじゃないか!!」

どこがだ、と青筋を浮かべる塔野に「下りるけど殴らないでくれよ」と叫んで春山が消える。そうして少しすると、何故かニヤニヤとして裏庭に現れた。

「んだよ気持ちわりーな……」
「塔野くんキミ、部活は決めたのかな?」
「は?」
「何かしらに所属しないといけないのは知ってるだろう。部活動」
「あー……適当でいいだろんなの」
「だめだ! もったいない!」
「いちいち声デケェな……」
「部活、何でもいいなら、ぜひ僕に手を貸してくれないか」

そう言って春山が差し出したのは、『入部届け』と題された規定の用紙である。
一体なんの、とその下を見れば、

【自然観察同好会】

「おい待て、なんで俺が自然観察しなきゃなんねえんだよ」
「二人からじゃないと同好会にすらならないんだ、頼むよ」
「名前貸すなら誰でもいいだろ、他当たれよ」
「キミがいいんだ」

塔野くん、と柔らかな眼差しでペンを差し出される。
ーーなんだこいつ。

× ×

「活動拠点には第二棟を申請したよ、定期的に手入れをする条件付きで。ここの裏庭はいいよ、いろいろとやりようがあるし、屋上も使いやすい……同好会ではあるけど、部室としてこの旧化学室も取れたから、早速明日から活動しよう!」
「……」
「塔野くん!!! キミが頼りなんだよ!!!」
「声デケェんだよ!」

その日の放課後、塔野は連れてこられた旧化学室で早速後悔していた。
なぜ名前を書いたのか。
埃っぽさに咳払いすると、春山が頷きながら室内を見渡す。

「しばらく掃除も入ってないようだし、ここだけでもまずは綺麗にしないとなあ……塔野くん力ありそうだし、模様替えもしてしまおうよ」
「勝手なことを……大体、自然観察同好会ってなんなんだよ。バードウォッチングでもすんのか? あ?」
「それもいいね! 文字通りだよ。自然観察」

旧化学室を出て、やはり埃の溜まった廊下を土足で進む。

「例えばさっき、この裏庭、上から見たらただの草っぱらだったんだけど」

廊下の勝手口から裏庭に出ると、いつも塔野が昼寝するブロックの横に出た。

「こうやって目の前にしてよく見ると、ハルジオンが咲いてたり……ほら、カタバミもあるし、あっヘビイチゴ! 可愛いよ、ほら」

春山が指差す先には、確かに苺のように見える小さな赤い実があった。

「こんなとこにイチゴ……?」
「食べても美味しくないのが残念だけどね。有毒説もあったようだけど本当は無毒で……まあ、つまりそう、こういうのも自然観察だろう」

真っ赤なヘビイチゴから手を離し、ポケットに手を入れた春山が笑う。

「あるものをありのまま、まっさらな心で見るんだよ。ただそれだけ……見ようとして見れば、普段見えなかったものも見えてくる。だから楽しくて嬉しいんだ」

裏庭を初夏の風が抜け、癖のない春山の髪を揺らした。
足元を覆う雑草の緑が、爽やかな風と光を受けてキラキラとざわめく。
ふと思い出した。
幼い頃、公園の木陰で飽きもせずに延々と蟻の行列を眺めていたこと。花に寄り添う蝶の群れを眺めていたこと。顔を上げれば母の笑顔があり、木漏れ日が眩しかったこと。
楽しくて、

「そんなわけで塔野くん、明日からよろしく頼むよ」
「……まあ、明日一日くらいなら付き合ってやってもいいけど」
「馬鹿言っちゃいけないよ、体験入部じゃないんだからちゃんと参加しておくれよ」
「あ? 名前貸すだけだっつーの」
「僕は名前じゃなくて手を貸してくれと言ったんだ。とにかく明日は来てくれよ、掃除もあるし、キミにも楽しんでもらえる何かを用意しておくからさ」

そう笑って鍵束を取り出した春山が勝手口を施錠し、表に回って昇降口も施錠した。

「僕は職員室に鍵を返してくるよ。下見、付き合ってくれてどうもありがとう」
「……ちっ。とりあえず、明日な」
「うん! また明日」

ぶんぶんと手を振る春山に視線だけ合わせて背を向ける。
帰り道、塔野はまだ明るさを残す夕方の空を眺め、日が伸びたな、と今さら思った。



* 前へ | 次へ #
栞を挟む

2/7ページ

LIST/MAIN/HOME

© 2018 甘やかしたい