これの後日談
「性教育をする」
サリアがそう言ったのは、わたしが泣きべそをかいた日の夜のことだった。
その日の朝はお腹が痛くて、いつもよりはやく目を覚ました。下腹部、ちょうどへその少し下あたりに疼くような重い痛みに、仕方なしに瞼を開いたのだ。
こんなに最悪な気分は久しぶりだと、浅い息を繰り返す。吐いても吐いても体は全然、軽くはならないけど。
冷えたりしたときとはまた違うような、へんな痛みに次第に冷や汗が滲み出てくる。横たわったベッドにはじっとりと嫌な違和感が張り付いて、泥濘に埋もれているみたい。おまけに身体がいつもより熱くて怠い気がした。
このまま丸くなってやり過ごしたいとお腹を抱えたけど、数分で耐えられなくなってのろのろ布団から這い出でるように床に降りたった。
そしてわたしは、違和感の正体をすぐに知ることになる。
「……え」
声はそれだけしか出なかった。ひゅっと息が詰まる感覚と一緒に、鈍った頭が無理やり覚醒させられる。
今まで自分が転がっていたシーツに広がる、赤黒い染み。それを認識した途端、ずく、とお腹の痛みが増したような気がした。
おそるおそる、わたしは自分の姿を確認しようとした。鏡を見る勇気がなかったから、足の指からゆっくりと視線を上にずらして、けれど、すぐに目を瞑った。下肢に跡を残す赤い筋がどこからきているのか、嫌でもわかってしまったから。
血なんて見慣れているはずなのに、どうしてか身体が動かなかった。脚の間から伝う血液に呆然として、サリアが戸を叩くまで突っ立っていたと思う。
いつもの時間にやって来たサリアは血まみれのわたしを見て、僅かに目を見開いたけど、すぐに何かを察したのか大丈夫だと頭を撫でてくれた。自分の身体に何が起こっているのか自分でもわからないのに、サリアがくれる大丈夫という言葉に、不思議と安心できたのをよく覚えている。
サリアはわたしの汚れたパジャマを脱がせて、シャワー室に連れて行ってくれた。ゆっくり体を温めろと頬を擦る手のひらを掴みたくて仕方なかったけど、体液の感触が気持ち悪くてすぐさま温水を頭から被った。体が火照っているからか、肌を打つお湯がぬるい。寒くないのに指先が震える。
排水溝に流れていく赤色をぼんやり眺めて、もしかしたら鉱石病の症状のひとつなのかもしれないなんて考えた。
そう思うと、唐突に心臓が激しい音を立てて軋んだ。大きな不安の塊が喉に詰まっているみたいに息が苦しくて、視界が滲む。
あのやさしい指が、わたしの汚れた血が染みた服に、シーツに、わたしに触れてしまったことが、急にとても怖くなってしまったのだ。
だから、シャワー室を出た後に清潔な服を差し出して、髪を拭いてくれようとする手を払って、わたしはぐすぐす鼻を鳴らした。
「わたしに触らないで」
そんな言葉をいきなりぶつけても、サリアは驚かなかった。伸ばした手も引っ込めようとしなかった。
「……それは、何故だ?」
「…………」
そのかわりに、宥めるような問い掛けと眼差しをくれた。
なぜ? なぜって、それは。
シャワー室で過ぎった可能性を口にすることすら怖くて怯んだ。縫い付けられたみたいに唇が張り付く。言わなきゃいけないってわかっていたのに。
「名前」
慎重に、探るようにわたしを見つめていたサリアがやさしく名前を呼ぶ。怖がらなくていいと言われているような声音に、目の前が脆く溶け落ちてしまう。
すかさず指先が涙を掬って、わたしを抱きしめようとする。怯えをほどくその手は限りなくやさしいのに、あまりに容赦なくわたしの心に触れようとする。サリアが乱暴にしないことはちゃんとわかっているけど、その躊躇いの無さにひっ、とちいさな嗚咽が漏れ出た。
それでも構わずに、大きな手のひらが後頭部をそっと覆うから、咄嗟にわたしは叫んだのだ。
「っだめ! だめってば、やだ……! 鉱石病、悪化したのかもしれないの……ッ!」
「……は」
その瞬間、サリアが硬直したのがわかった。
見上げた先でぶつかる瞳がまあるい。初めて見る顔だった。まさにぽかん、という言葉がぴったりな表情を浮かべたサリアを見ても、わたしは疑問に思うことすら出来なかった。
いま思うと、わたしの見当外れの言葉に呆気に取られていたんだとわかる。けれどそのときのわたしはとにかく腕の中から逃げ出すのに必死で、泣きじゃくって途切れ途切れの言葉を並べていたのだ。
「血……これ、鉱石病の、症状かもしれなくて……伝染るのかわからないけど、あぶないよ……」
「…………」
「わ、わたし、ッ……わたしはサリアが鉱石病になるの、嫌だ……」
「…… 名前」
「ごめんなさい、サリア……でもやだよっ……」
「名前」
サリアがぐい、と胸を押し返すわたしの手を絡め取る。慌てて首をぶんぶん振ると、逆に抱き込まれて身動きが取れなくなった。
視界を塞ぐ長い銀糸が、涙の膜を通してきらきら光る。
「さわっちゃだめだよ、サリア……!」
「名前、大丈夫。大丈夫だ」
柔らかな微笑が額に降り注ぐ。サリアの熱い吐息が首筋に触れる。むずがって身を竦めるわたしを、サリアはより強く抱きしめた。
「なにが大丈夫な……の……」
わたしは真剣なのに、何を笑っているのかと顔を上げると、唇がわたしの睫毛に乗った雫を飲み込んでいった。熱くて、少し濡れた柔らかい感触にびっくりして、今度はわたしがぽかんと目を見開く番だった。
「それはお前が思うような悪いことじゃない」
「え……?」
双眸がなだらかな弧を描いて、睫毛が美しい影を作った。
サリアの手が、下腹部に添えられる。隔てるものがない肌と肌の感触。手を握ったりすることは日常茶飯事だというのに、触れ合う箇所が違うだけでなぜか心臓がばくんと跳ねたような気がした。そうっと摩る動きも、よしよしと頭を撫でるときに似ているのに、やっぱりなんだか少しだけ違う。何が違うのかはうまく言葉に出来ないんだけど。
あたたかくて大きな手のひらにすっぽりとおさまる、わたしの痛み。内臓を刺してずたずたに引き裂くような鋭い棘が、撫でられる度にサリアの熱に溶かされてゆっくりと丸くなっていくようだった。
「落ち着いて、まずは服を着ろ。それから髪を乾かして温かい飲み物をいれよう。話はそれからでも遅くない。……大丈夫だ、何も心配はいらない。私が傍にいる」
「…………うん」
それだけで、不思議と素直に頷くことが出来た。サリアはやさしく笑って、わたしの濡れた輪郭を拙くもゆっくり、何度もなぞる。体温を分け与えてくれる抱擁に、体の強ばりはいつの間にかなくなっていた。
脚の間にはまた筋ができている。汚れると鼻声で呟いたら、汚れないとサリアは囁いた。
声に背を押されおずおずと、広い背中に腕を回す。
首元に顔を埋めるとサリアの匂いがして、浅く速い呼吸が深くゆっくりとしたものに変わっていった。馴染んだ体温が心地よくて、頭の中が落ち着きを取り戻していく。
サリアの声も、言葉も、体も熱も、そのすべてが、まるで魔法みたいだと思った。
「……ありがとう、サリア」
指先は震えなんて忘れたみたいにしっかりとサリアに縋り付く。
不安の塊はもう、喉の奥からすっかり消えてしまっていた。
その後、服を着て髪を乾かし、みのむしみたいにタオルケットにくるまって、糖分たっぷりの甘いホットミルクティーをすするわたしを抱えながら、サリアは冒頭の言葉を告げたのだった。
「せいきょういく……?」
声に出して繰り返してもピンとこない。教育というくらいだから勉強なんだろうけど、せいは何のせいなんだろう。見当がつかなくて、何それとサリアを見つめた。
サリアは難しいというか、困ったような、なんか変な顔をして「とても大切なことだ」とだけ答えた。
そして迎えた当日、サリアは分厚い教本を抱えてわたしの部屋へやって来た。
彼女が使っていたものなのだろうか、年季の入ったその本は子どもが学校で使う教本というよりは、より専門的なものに見える。
パラパラ捲ると、書き込みなどもあった。几帳面に使い分けられた色を指先で辿ると、頭の中に教室で授業を受けるサリアの姿が浮かぶようだった。
背筋をしゃんと伸ばして、罫線に沿って綺麗な文字列を作る横顔を想像する。
サリア。あなたはどんなものを見て、どんなことを思っていたのだろう。
わたしのいない過去を想像しては寂しくなったり嬉しくなったりする。最近、なんだか我儘が増えてしまった。
わたしにたくさんのことを教えてくれるサリア。過ごした日々を知らなくても、彼女の中で育まれて根付いたものを受け取れることは、とても素敵なことに思える。
文字ひとつ、線一本にドギマギしているわたしをよそにサリアは至極、真面目な顔で授業を始めた。
堅苦しい話し方を気にしているのか、前に聞いた仮骨の話より今度はずいぶんと理解しやすい。
「お前が迎えたのは初潮だ。鉱石病の症状ではなく、身体が正常に成長していることを意味する。だから、何も気にすることはない。それは悪いことでもなければ、汚いものでもない。生命を形作る一部分であり、尊いものだ」
「……そう、なの?」
「私が嘘をついたことがあるか?」
「ううん。一度もない」
サリアが、わたしの頬を撫でる。無骨な手に、そうっと自分の手を重ねて笑ってみせると、サリアは眩しそうに目を細めてふ、と吐息をもらした。
わたしの身体に起こったことをひとつひとつ丁寧に教えて、仕組みや理由を噛み砕いていく。
内容がずっと先に進んでも、へんに誤魔化したりはぐらかしたりせず、サリアは隠さずにすべて教えてくれた。人間の持つ欲と本能、身体の働きと仕組み、生命の成り立ちを。
流れるような声を聞きながら、ああ、だからサリアはあのとき変な顔をしていたのか、なんてようやく合点がいったところで、ふと疑問がわく。ほのかな喜色をまとった、不純の好奇心。或いは期待。
そしてそれはぱちんと、ごく自然にわたしの舌で弾けたのだ。
「……じゃあ、サリアとその性行為をしたら、サリアの赤ちゃんが産めるってこと?」
かちん、という音でも聞こえてきそうなほど、瞬く間にサリアは固まった。とろけるような夕焼け色の瞳がぎょっとしてわたしを凝視している。
「サリア?」
何かまずいことを言ってしまったんだろうかと首を傾げた。サリアが教えてくれたことは、つまりそういうことだと思うんだけど、間違ってたのかな。それとも、例えばでもわたしとの性行為に、その可能性に、不快感を覚えたのだろうか。
広がる静けさに、少し不安になってくる。
「……いや、すまない。仕組みでいえば間違ってはいない」
顎に手を当てて、しばらく考え込む素振りを見せていたサリアだったけど、案外はやく答えてくれた。
でも、何となく歯切れが悪い。わたしは身を乗り出して更に問いかけた。
「仕組みでいえば? 仕組み以外になにかあるの?」
「性行為はお互いの同意のもとで行うのが大前提だ」
「わたし、サリアなら良いよ」
それは本心からの言葉だった。本当に、サリアなら。ううん。サリアじゃなきゃ駄目かもしれない。
「な……ッ」
「あ、でも、サリアはわたしじゃ嫌かな……」
体を侵す源石結晶を思う。それとは別に趣味嗜好というものも、気持ちの問題だってある。どれも大切なことだ。
サリアにとってわたしがそういったものの対象でない可能性を考えて、寂しくないといえば嘘になる。けれど、サリアに比べるとわたしはまだまだ子どもくさくて魅力なんてないから、当然と言えば当然なのだ。隣に並んでいると姉妹ですかって聞かれるくらいだし。
サリアはため息を吐いて瞼を閉じた。
もどかしそうに歪んだ眉根を見つめて、やっぱり嫌かあなんて目を伏せて自嘲する。
その、刹那。
「嫌なわけがないだろう」
開いた目がまっすぐにわたしへと向けられていた。火花が散りそうなほど熱くて、射抜くように力強い視線に、くらりと目眩がする。
「愛しいと思う心があるなら、結びつきたいと疼く体もある。私はそれを否定したりしない。現に……私はお前を、ちゃんとそういう目で見ている」
「えっ……?」
「誰彼構わず滾らせるような欲は持っていないが、お前に対する欲情は、ある。だから……こういったことは、あまり不用意に口にするな」
つまり、それって。
涼やかな目元に熱を宿らせるサリアを見上げる。骨の檻を突き破りそうな心臓の鼓動が耳元で聞こえた。
胸が焼け爛れそうな感情を持て余して、わたしはたまらず、サリアにぎゅうっと抱きついた。
「嬉しい。でも、それならどうしてすぐそうしないの? サリア、我慢してるの? わたし、大丈夫だよ」
「我慢というか……今のお前の身体では耐えられない。私はお前を壊したくて抱くんじゃない。愛したくて抱くんだ」
壊してもいいのに。愛なら、わたしを壊したっていいのに。
そんなこと言ったらサリアはきっと怒るんだろうな。やさしいこのひとのことだから、悲しんで傷付くのだろう。
言葉を飲み込んで、わたしはただ抱きしめる腕に力を込めた。
「だが、お前の身体がしっかり出来上がって、それでも気持ちが変わらないのなら、そのときは必ずお前を抱く」
ぴったりくっついていた体を少し離して、サリアがわたしの頬を包みながら見下ろしてくる。
やさしい眼差しの奥で瞳孔がぎらりと瞬いた。まるで、剥いた牙を見せつけるように。いずれこの身体に突き立てるものだと告げる鋭いその切っ先に、背骨が軋むようなぞくりとした感覚が這った。
なに、これ。こんなの知らない。
薄皮一枚越しに感じる熱量は、わたしを飲み込むには十分すぎる。轟々と渦巻くような欲のひとかけらにすら呼吸が圧迫される。
サリアはこんなものを抱えているの。強靭な理性の殻に押し込んで、わたしに触れているの。そうしていつかこの迸るような激情を、残さずわたしに注いでくれるの。
喉奥が震える。サリアの視線に意識を搦め取られそうになる。吐息の熟れた熱に火傷してしまいそうだ。
「……約束。約束だよ、サリア。ぜったい、わたしを抱いてね」
触れた指先に唇を寄せる。
衝動の吐き出し方がわからなくて泣き出しそうになる。細胞をひとつ残らず焼き切ってしまいそうな、脊椎を貫くような疼きをどう言えばいいのかもわからない。
「わたし、はやく大人になるから」
ただそう呟くだけで精一杯だった。
未来の約束なんて馬鹿みたいだろうか。こんな体で大人になるまで生きたいなんて、夢を見すぎかもしれないなあ。
それでも、願わずにはいられない。
サリアはわたしの、子どもらしい頬の丸みを愛おしそうに撫でて、眦をくしゃりと緩ませた。
沈む夕焼けの奥は、もうすっかり穏やかなやさしい膜で閉ざされている。
「そんなに急がなくてもいい」
覗き込もうとするわたしを引き留めるように、額に口付けが降る。
巡る血を通して、心臓のずっと奥底に熱を注がれているみたいだ。細胞に根を張ろうとするそれを例えるなら、ちいさな埋み火。さっき垣間見た滾る熱とは比べ物にならないほどに淡く温く、けれども確かな熱を孕んだ、柔らかな火種のようだった。
水を与え、肥料を撒いて、花が咲くようにいつかこの火は爆ぜる。燃え上がったそのときを、わたしは想う。
ねえ、サリア。きっとわたしを愛してね。そうしてできれば、あなたとの実を結べますように。