ゆかり


 春の嵐だ。
 紫辺史乃(ゆかりべしの)が一番最初に思ったことはそれだった。

「百川宵子と申します。どうぞよろしくお願いいたします」

 名乗っただけで教室の中はちょっとしたパニック状態だ。無理もない、と史乃は考える。それほどまでに、黒板の前に立つ転校生は強烈な見た目をしていたのだ。
 クマやニキビひとつ無いつるつるの肌に、ぱっちりとした二重の瞳。
 明るいブラウン色の瞳は、窓から入り込む日光でより明るく宝石のようにきらめいていて、キューティクルが輝く長い黒髪は常日頃から手入れされているのだとひと目で分かるほどだ。
 薄桃色の唇から紡がれる言葉は透き通っていて、見た目と声のダブルパンチで大半は瀕死に違いない。

(絵に描いたような美少女、ってやつだな)

 心のなかで頷き、史乃はぼんやりと担任の話を聞き流す。
 正直に言おう。史乃はこれっぽっちも転校生という珍獣に対して興味がない。
 周囲から浮かないように視線は前を向いているが、その実考えているのはお昼ごはんの内容だ。成長期なのか、最近は特に空腹になりやすい。中休みの時間に持参した弁当を食べているにも関わらず、昼にはまた腹がきゅうと鳴る。
 なので史乃の頭の中は、まだ朝のホームルーム中にも関わらず、既に昼ごはんの内容がトップニュースとなっている。

(今日はクラムチャウダーだったはず)

 シチュー系の料理が好きな身としては、お気に入りの給食の内容はついつい覚えてしまう――というか、そわそわする我が子に毎朝父親が教えてくれる。



「百川宵子です。よろしくお願いいたします」

 見た瞬間、脳に焼き付いてしまうような美しい少女だった。
 陶器のように真っ白な肌に、きれいな二重の瞳。小さく筋の通った鼻、自然な赤色のぷるぷるした唇。艷やかな黒色の髪は腰まで伸びており、絵の中から出てきたのではと錯覚してしまうほどに彼女は整っていた。
 教室中の視線をほぼ釘付けにしながら、少女は戸惑う素振りも見せず堂々とそこに立っている。
 随分と慣れた様子だと思いながら、紫辺史乃は窓越しの空へと視線を移した。
 澄み渡るような綺麗な青空だ。ぽかぽかとした陽気が、こっちへおいでと手招くように眠気を誘う。

(――早く帰って寝たいなぁ)

 きっとリビングの窓側がいい塩梅に日差しが入るだろう。
 帰宅後の予定を立てる史乃の頭からは、転校生のことはとうに消え去っている。


 ◆1




「史乃、これ進路調査?」
「んー……」
 うつ伏せに寝転がり足をパタパタと振る娘の姿を微笑ましく思いつつ、伊織は手にした紙へ目を落とした。

 ――進路、ねぇ……
 大きめの文字で進路調査と記された紙きれに、娘は随分と心を掻き乱されているようだった。
 伊織個人としては無理して進学しろとは言わないが、「なりたいもの」があるなら最低限高校卒業資格くらいは持っておいた方が損はないだろう、という考えだった。ただ、史乃の場合は――

(――「なりたい」と思うものもないんだろうなぁ……)

 元々、惰性で学校に通い続けているようなものなので尚更だろう。
 史乃がもて余している「惰性」が何から来ているものなのか理解している分、それをどうにかしてやる術を持たない自分が下手にどうこう言えることもなく、父親としてはただ受け入れて見守ってやることしかできない。

「どこがいいんだろ……」
「どこでもいいよ。史乃が自分で選択することに意味があるんだから」
「んぐぐぇ……」

 途方に暮れたような声を出す娘は、果たしてどんな選択をするのか。それがどんなものであれ、娘(しの)にとって良い結果を齎すものであってくれれば――と、父親は心の中で祈るのだった。



「史乃さんのお家は……ええっと、せいかマンション、ですか?」
「いや、さんずいにあお、の「きよ」、に炎の「ひ」、で「きよび」って読むんだよ」
「名前だけは大仰だよな、人全然居着かないのに」
「……それ、管理人の前で言わないでよ。家賃を相場よりずっと安くしてるのに人が居着かないから、瑕疵物件でもないのに、って気にしてるんだよ」
「切実だなぁ」

「つーかさぁ、ユカリんち広くね!?」
「うちは二部屋を一部屋にしてあるから」
「えっ、家賃とか平気なのかそれ?」
「割と。そもそもこのマンション自体家賃相場より安いし……というかたぶん買ってるんじゃないの? よくわかんないけど、だからドアが一個ダミー状態なんだよね」
「相変わらずすげーな、お前の親父さん……」
「家は一生の買い物だよ……?」
「買った頃はまだママも生きてたし、きっと私の下にも家族増やすつもりだったんじゃない? 今はパパと二人だから持て余してるけど、パパの友達とか管理人さん泊まりに来るし、余った部屋は来客用にしてるし――」
 と。
 二人の問いに答えていた史乃は、それまであった騒がしさが失われていることに気づいた。何事かと視線を向ければ、そこには顔を覆い項垂れた少年達の姿があって。

「おい」
「やめてよ……いきなりそんなのひどい……」
「いい加減慣れろ。私の鉄板ネタ」
「慣れるかバカ……慣れてたまるかってんだよ……」
「なんなの、お前達ママと面識ないのに、なんでママの話した途端メンタル弱くなんの? 何なの?」
「だっってさぁ、偉大な人じゃんかよユカリのお母さんってことは! あの父に愛されてもなお良識を保ってた偉大な人じゃんか! そんな人の話を聞いて動揺しないわけが無いだろうよ!」
「そうだそうだーー!」
「逆ギレすんな」
 熱弁する永束と山田に、史乃は口角を引き攣らせ、小さく溜め息を吐き出した。


 


 朝を迎え、太陽がまだ完全に頂点に昇りきる数時間前――、直に始まる授業を前に生徒の出入りが激しい教室の中で、窓際に佇む三人の生徒がいた。
 一人はぼんやりと窓から澄み渡る青空を見上げ、一人は椅子に座って慌ただしいクラスメイト達を眺め、一人は壁に背を預けながら片手に持った本へ視線を落としている。
 必要以上の会話など要らない、苦痛にならない沈黙。そんな穏やかな時間の中、口火を切ったのは、柔い茶髪のクラスメイト達を眺めていた少年だった。

「そういやさぁ、今度転校生が来るんだって」
「転校生?」
 おもむろに話を切り出した少年――永束に、本を読んでいた少年、山田と空を見上げていた少女――紫辺史乃(ゆかりべ しの)は、顔を少年の方へと向けた。
「いつ?」
「来週にでも来るんじゃね? 昨日、父親っぽいスーツの男と、転校してくるっぽい奴……帽子被ってたし服も男でも女でも着れるやつだったから性別はわかんねえけど、そいつと一緒に応接室に入って行ったらしいぜ。皆朝からその噂してる」
「ふぅん……」
「永束、何処でそんなネタ仕入れてきたんだよ」
 気の抜けた相槌を打つ史乃に対し、山田は少しばかり呆れた様子で永束に問いを投げ掛ける。
「何もしなくても入ってくるんだよ、人徳ってやつだな」
「盗聴なんてサイテー」
「してねーよ!?」
「本当にー?」疑るような山田の言葉に、「してねー!」と噛みつく。

「……どんなのが来るって聞いたの」
「聞いてくれるか史乃ォ!」
「うわ、ユカリやさしい」
 何せ、小学校一年からの付き合いである。ここで無下に扱って後で恨み節を聞くのは御免だ。
 あのな、と目を輝かせながら、まるで親に今日あったことを話すかのように嬉々と語り出す姿は昔から変わらない。
 今年十五になる男がそれでいいのか気になるところではあったが、そんな姿を眺めるのは存外嫌いではなかった。


 ※※※

「転校生が来るんだって」
「転校生? へぇ、珍しい」
 ぱちぱちと目を瞬かせて、驚いた様子の父親の言葉に「ね」と史乃は頷いた。
 史乃の記憶の限り、小学校の頃から今日に至るまでこの町に転校生が来るという話は一度も聞いたことがない。大抵は隣の望月市の学校に行くからだ。
 朔日町は規模的には一般的な町より大きいものの、所詮は市に及ばない、一つの町だ。閉鎖的は言い過ぎだが、良くも悪くものどかな町。そんな町に来るよりは、発展している望月市に――という人は多い。
「中三で転校なんて大変だなぁ」
「私は耐えられない」
「史乃はデリケートだからねぇ……あっ、パパはそんなのしないから安心してね!」
「知ってる」
 史乃の父の仕事は自営なので転勤なんて全く縁のない話だ。
「今日はケーキ?」
「そうそう。小麦粉の賞味期限近づいてたから」
 目の前に置かれたデザートに手を伸ばす。口にいれると広がっていく緩やかな甘さに、史乃の口角も自然と上がってしまう。
「おいひぃ」
「やった。ありがと*」



「おーいユカリ」
「んん?」
 鞄に教科書を詰めながら、史乃は話しかけてきたクラスメイトに視線を向けた。「お前んとこの親父さん来てんぞー」と、続けられた言葉に、思わず目を見開く。
「パパが?」
「おう。事務室のとこで見た。学校に来る目立つ見た目の紫色の目したにーちゃんなんて、お前の親父さんしかいないだろ」
「確かに」
 クラスメイトの発言に頷く。髪色はともかく、はっきりとわかる紫色の目をした目立つ風貌の若い男なんて、この町には史乃の父親くらいしか居ない。
「何かあったのかな」
「なんかスーツ着てたぞ?」
「じゃあ仕事終わりかな。現場近かったのかも」
「ま、早く行ってやれよ。めっちゃ目立ってたぞー」
「うへえ……」
「まぁまぁ、がんばれ」
 嫌そうに顔を歪める史乃の肩を優しく叩いて、同情めいた生温かい眼差しが向けられる。
「教えてくれてありがとね」
「おう」
 手を振って教室を出る姿を見送って、息を吐く。
 小学校からの付き合いとはいえ、ここまで順応されると如何ともし難いものがある。
(――早くいかないと)
 これ以上目立つのはごめんだ。鞄を肩に掛けて、史乃も足早に教室を出た。

 ※※※

「……パパ」
「史乃! あぁ、会いたかった! やっと来たね――って、痛ッ! 痛いよ!」
 半日ぶりの再会は、娘の怒りのチョップから始まった。喜色満面の笑みで背後に花を散らす父親とは対照的に、真顔で対応する娘の眼は冷えている。
「なんで玄関まで来るの……校門で待ってればいいじゃん……」
「そりゃあほら、ッ、愛する娘に、一刻も早く、会いたかった、脇腹突くのはやめてっ」
「まず大きな声出すのをやめて」
 きらきらと顔を輝かせる父親はよく目立つ。娘の贔屓目を抜いても整った容姿をしているし、一見、中学生の子供を持つ父親には見えない若々しさがあった。

「目立つのは嫌だっていつも言ってるでしょ……」
 そう非難する娘の心などどこ吹く風と言わんばかりに飄々としている父親は、「ごめんごめん」と言いつつも嬉しそうに微笑んでいる。
 多分、父親の辞書に反省という言葉はないのかもしれない。史乃は深く溜め息を吐いた。


 桜の花は殆ど散って、桜の木を埋めるのが新鮮な若葉になってきた。
「ねぇ、史乃さん」
「……?」
 まるで内緒話をするかのような調子で、宵子が史乃に囁きかけた。
「史乃さんは、したいこと、ってありますか?」
「……したいこと? いや、特には……」
「将来の夢とか、どんなものでもいいんです。興味がある、ちょっと手を伸ばしてみてもいいかな――そんな風に思うことは?」
「……そう、だなぁ……うーん……したいこと、ね……」
 口許に手を当てながら考える史乃を見つめる宵子の目は穏やかだ。史乃は暫く考える素振りを見せていたものの、最終的には溜め息混じりに「ないかな」と頭を振った。
「悪いね、面白味のない人間で」
「いえいえ。史乃さんはいつも面白く見えますよ、少なくとも、私からは――」
 にっこりと浮かべた笑みは、どこか影を滲ませながらも穏やかだ。

「史乃――!」
 伊織が叫びながら手を伸ばす。
 意識を失いかけている娘の虚ろな目が一瞬自分を見た気がして、必死に手を伸ばすが――その手が届く前に、史乃の小さな体は泥のような暗闇に呑まれ、伊織の手をすり抜けた。

「――!」



「――っ」
 頭が痛い。衝撃を受けた項部分に手を当てて、史乃は低く唸るように「くそ、」と声を吐き出した。
 目覚めとしては最悪に近い。というかほぼ最悪、人生の中でも最低の目覚めである。


 終わらない煉獄の夢を見た。
 幾夜を越えて、願いの果てまで走り続けることしかできなかった女の夢を。
 おそらくこれは百川宵子(かのじょ)の夢だ。――正しくは、夢を介して観た、彼女の今までの軌跡ともいうべきもの。

「……だから、私に近づいてきたのか」
 呟かれた言葉は虚空へ溶け消えていく。此処には誰もいない。居るのは史乃(じぶん)ただ一人。
 朧気な記憶を辿る限り、あの場に父親の姿が見えた気がしたのだが――気を失うほんの一瞬のことだったので自信はない。
 頼れるのは自分の頭と体だけ。その体はところどころ鈍く痛むし、頭もうまく回らない。最悪の状況だと、現実を叩きつけられた気分だった。

「連れていかなかったのは何故?」
「まだ熟れていなかったから」
「自分と同じ悲惨な目に遇わせて、体験させるのが愛だって? ふざけるのも大概にしとけよ、お前」
「目付きが怖いよ、紫辺史乃さん。……もしかして君は、宵子を友達だと思っていたのかい? ああ、それならすまなかったね。君の優しさに漬け込み、無体を働くような真似をしてしまった」
「ベラベラベラベラうるっせーなお前。――突き放すのも面倒で放置してただけだ。友達でもなんでもねえよ」
「ふふっ。苛立っているの? 繊細なんだね」
「そうだよ。こんな所に連れ込まれて苛立ちも不愉快も通り越してただただ疲れてるんだよ。お前が言うように私は繊細なんだ。さっさと帰らせろっつってんだ」

 目の前の「彼」は明らかに異形だとわかるのに、不思議なくらい恐怖は感じない。いつもならきっと顔を顰めて嫌がっているのに、なぜだか今はそういった感覚が希薄になっているようだった。

「……素直な人だね、きみは」
「素直さだけが取り柄だからな」
 会話をしながらも頭は回転し続けている。此処から出る術を模索し続けている。そんなことも目の前の「彼」にはお見通しな気がして、それが余計に苛立ちを加速させる。

「いつか、父さんを恨む日が来るかもしれない。――化け物だと、憎むときが来るかもしれない」
 そう語る伊織の眼は凪いでいて、硝子のような瞳に、彼の最愛の娘の姿が映しだされる。
「彼女と関わることを良しとしなかったのはそのせい?」
 史乃の問い掛けに、伊織は頷いた。ふぅん、と気の抜けたような相槌が部屋に染み込んでいく。
「……今のままなら、まだ人間として暮らせると判断した。俺と違って半分は人間だから、このまま上手く封じていけば、全うな道を歩かせてやれるって、そう思ったんだ」
「全うな道、ねぇ――私は、そんなの望んでなかった」
「知ってるさ」
 伊織は史乃を見つめた。いつもと同じ、我が子を慈しむ、愛情の籠もった優しい目。

「それでも……ああ、それでも俺は、パパは史乃に人としての幸せを得てほしかったんだ。――俺が彼女と出逢い、愛し合って、|史乃《きみ》を授かったように、史乃にもただ一人の誰かと、そんな幸せを見つけてほしかった」
 勝手なエゴだと言われたらそれまでだけれど。
 最後にそう付け足して、伊織は深く息を吐き出しながら背凭れに体を沈めた。そんな父親の姿を見つめながら、史乃は

(――幸せに、ね)
 もうバレてしまったから、あとは好きにしなさいと、そう言われているようだった。そしてそれは多分、間違いではないのだろう。
 選択をする日がやって来たのだと理解する。
 『ねえ、史乃さん』
 頭の中で、いつかの春の終わりの百川宵子(かのじょ)の言葉が甦る。

「パパ、私、決めたよ」
「言ってごらん」
「私は――」

 そして、冬は終わりを迎える。


暗転


「おまえ、何かあったのか?」
 心配するような永束の問いかけに、史乃は薄く笑みを浮かべる。
「大人の階段、登っちゃった、ってとこかな……」
 どこかアンニュイな雰囲気を漂わせながら答えた|史乃《ゆうじん》に、二人はあんぐりと呆けた顔で固まった。

「――お、お、俺はッ! 俺は、まだっ、そんなの、許さんぞぉぉ……!」
「永束ーー!」
 まるで地の底から涌き出たような声を絞り出して失神した永束は、比較的冷静だった山田が責任をもって保健室へと運んでくれたので問題ないだろう。頼りになるのは冷静さを失わない友人だ。


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