仮題:「紫辺父娘と百夜巡りの唄(仮)」
“昨日と明日が交差する町”――朔日町。
地方都市にある一つの町。
この町では今日も至る所で様々な人生が水面下で交差する。
これはそんな町の中で交差した、一つの物語。
あらすじ
 ――変わらない日々なんてどこにもない。けれど自分が変わっていないと思えたのなら、それは変わらない日々だ。
 紫辺史乃、十五の年。
 平穏な暮らしをする少女の前に現れた人形のような美しさを持つ転校生。
 これからも続くはずだった史乃の平穏に、不穏な影が差し始めて――

第一章:紫辺史乃は邂逅する
第二章:紫辺伊織の愛すべき日々
閑話:少年達は叶わぬ夢を見る
第三章:煉獄の淵にて
閑話:真夜中の密談
終章:明日と昨日が交差する町
:登場人物
紫辺史乃(ゆかりべしの)
朔日中学校に通う中学三年生。父親譲りの紫色の瞳を持ち、小柄で中性的な外見。最近は空腹が多く男子よりもたくさん食べる。
マイペースに見えるが根は厭世的。心の中に誰にも言えない感情を持て余している。
長い付き合いである永束と山田のことは『人のいい奴ら』『腐れ縁』だと思っている。
百川宵子(ももかわしょうこ)
三年生の春、史乃のクラスに来た転校生。
ビスクドールのような美少女。実家は地元でも有名な名家だが、妾の子。
紫辺伊織(ゆかりべいおり)
史乃の父。浮世離れした美貌の持ち主だが、口を開くとただの親馬鹿。
自営業をしており、普段から在宅で仕事をすることが多い。
シングルファーザーとして愛する娘を見守り、亡き妻の祭壇を作るのが趣味。永遠に妻一筋。
「今もこれからもずっと一緒にいる」
孤堂(こどう)翔吉(しょうきち)
伊織の友人。一九〇を越える大柄なオジサン。
その正体は狐の妖怪の血を引く半妖で、伊織とは長い付き合い。
永束(ながつか)
史乃のクラスメイト。茶系のふわふわ頭・またの名を鳥の巣ヘアー。
小学校から毎日のように史乃につっかかっては返り討ちにされている。長い付き合いの史乃と山田を『親友』と思っている。
山田 栄
史乃のクラスメイト。坊っちゃん頭。
永束を宥めながら史乃を手懐ける和風顔。穏やかだが適度にひどい。長い付き合いの永束と史乃を『無二の友』と思っている。

++++


「この町には、名物と呼ばれるものがあったりするのでしょうか?」
「名物?」
「はい。望月市は……なんと言えばいいのでしょうか、市長さんそのものが名物だという印象はあるのですが……朔日町は市ではありませんが、規模的には市と何ら遜色ないと記憶していましたので、もしかしたらと」
「名物というか、それに近いものなら――」

 曖昧な記憶を探り、そういえばと思い出す。
 あれは確か、永束が昔、話の種にと話してくれたものだ。

「名物かは分からないけど、生きる伝説みたいなのなら、うちの卒業生カップルかな。小学校の頃から今でも交際を続けてるとかなんとかで――あと、この中学に限って言うなら『花子さん』とか」
「花子さん? よく学校の怪談に出てくる、あの?」
「違う。あの人はこの学校の設立時から存在する、生きた伝説に近い……」

史乃は首を振り否定する。


「――なんだァ? お呼びか、紫辺」
「……噂をすれば、花子さんのお出ましだ」

 ヒールが地面を叩く音が響く。その姿は平穏な学舎にはひどく浮き出でていた。
 腰まで伸びた長髪、切り揃えられた前髪から覗く赤褐色の瞳。装いは朔日中の制服とは違う黒のセーラー服で、スカートは踝まで長く、昇り龍の刺繍が入った上着を羽織っている。

「よう、久々だな」

 ニッと犬歯を見せながら笑い、片手を挙げたその人こそ史乃が先程まで話題に出していた朔日中の生きる伝説――「花子さん」だった。


「引き継ぎ制なんだよね、「花子さん(それ)」」
「まあね。私は今年で卒業だけど――「花子さん」は不滅ですもの」
「かっこいいじゃん。さすが我らが花子さん」
「ふふん、そうでしょうそうでしょう。この町の平和は花子(わたし)あってこそなのよ」
「この町が誇るスケバンだもんな」
「ちげーわ」
 軽快なやり取りを交わす。
 ニッと笑っている「花子さん」と普段よりも幾分かご機嫌な様子で喉を鳴らす史乃の組み合わせは、アンバランスなように見えるがどこかしっくりくる。
 そしてゆるりと花子さんの目線が史乃の側に居た少女へ向かう。

「で、そのお嬢さんは?」
「ああ……転校生。っていうか、アンタのことだからもう耳に入ってるでしょ。モモカワショウコさん」
「はじめまして」
 丁寧に頭を下げる百川に、花子さんは笑みを深め「ああ、君が噂の」と呟いた。
「やっぱり知ってんじゃん」
「学校中で噂になってたもの。貴重な転校生の話だからね」
「基本外部から来ないからなぁ」
「来るとしても隣の望月市だろうしねぇ。……ま、ウチの生徒になったからには歓迎しなければならないわね。短い間だけど、楽しみなよ」

「ええ、もちろん」

 花子さんの言葉に百川は美しい笑みを浮かべ、鷹揚に頷いた。

*

「よっ、ユカリ」
「……永束?」
「おう」

 探したぞ――と、卒業証書を持った永束が手を上げた。
 普段は鳥の巣の如くあちこち跳ねていたミルクティー色の髪も、今日は特別といわんばかりに丁寧にセットされている。その姿は普段とはまるで別人で、それが史乃には少しだけおかしく思えた。

「どうかした?」
「なんもねーよ」

 史乃の問いに永束は目を細める。じとりと湿気を帯びた目が史乃を射抜く。

「――今日が卒業式で、俺は朔日高校に進学して、お前はそうしねえってこと以外はな」

 半ば恨めしげな声色で付け足された言葉に、史乃は疲れた様子で溜め息を吐き出した。もうここ一ヶ月で幾度となく繰り返された言葉だ。

「お前もしつこいな」
「ったりめーよ。コレが俺のウリだからな。――マジで進学しないのかよ、ユカリ」

 永束の発言に史乃は眉を顰める。

「言い方が悪い。高校には行く、ただ朔高には行かないってだけだ」
「……別にお前、なんか問題とかあったわけじゃねえだろ。……いや、違うか。問題はあったけどそれ含めてお前だったってだけか……」
「言い方言い方。なに? 永束、今日が最後だからって私へのディスり方がいつもよりひどくない?」

「〜〜ッ! エグくもなるわ、この馬鹿っ! 春先にお前に訊いた時は同じだって言ってたから信じてたのに、蓋を開けたらこれだぞ? 知った時のこのショックはお前にはわかんねえよ! 裏切られた気分だ!」

 皮肉げに呟いた永束に、史乃は苦笑交じりで笑みを作る。。

「去年は色々あったんだよ」
「だろうな。じゃなきゃずっと怠惰を身に纏ってたお前がそんなふうになるわけねえし。……百川(あの子)となんかあったんだろ、お前」

 鋭い指摘で言葉が詰まる。永束はそんな史乃の様子など知らぬとばかりにこんこんと話し続ける。

「異様にお前に懐いてたしな、彼女。最後に会った時――冬休み前か、あの時も元気そうだった。それが年明けて新学期になった途端『体調が急変したので急遽転校していきました』なんて、納得させられんのはよっぽど純粋な奴らかその程度しか百川に興味が無かった奴らくらいだろ」
「永束は興味があったと」
「お前に懐いてたからな(・・・・・・・・・・)。じゃなきゃただの可愛い転校生だとしか思わなかったよ」
「……人に懐くかどうかを基準にするなよ」
「するっつの。お前になつくって時点で相当ヤベーって思うわ」

「失礼な奴だなあ」
「おまえがいうな」


*

「――もうしないだろうから言っておくけど」
「うん?」

 首を傾げた山田に、史乃は背を向けたまま茶化すような声で言った。

「女装する時はホクロ、ちゃんと消しといた方がいいんじゃない?」
「……気づいてたの?」
「最後の最後で詰めが甘い。あの時、私のこと「ユカリ」って呼んでたし」
「ああー……」

 山田は額に手を当てた。しかし「でもほら、」と困ったような笑みを顔に浮かばせ、

「あの時の百川さん、随分と危険な雰囲気だったから。『花子さん』(かのじょ)である時の振る舞いとしては失格だろうけど――俺は、ぽっと出の転校生より、ちいさい頃から知ってるユカリ(おまえ)の方が大切だったんだよね。永束と同じさ」
 気が急いちゃったんだ。
 堂々とそう告げた腐れ縁の同級生に、史乃は呆れた様子で肩を竦めた。

「もう後輩に偉い顔できないぞ?」
「あははっ、構わないよ。今日で俺の代(、、、)は終わりだしね。……ただ、そうだなぁ」

 少年は口元に手を当て、ニッと三日月型の笑みを浮かべた。

「後輩には言っておかないとね。『お役目』をやる時は、メイクの仕上げでホクロ一つも見逃さないようにコンシーラーでちゃんと消しておけ、って」
「先輩のありがたい教えだね」
「だろ?」

 ひとしきり笑って、二人は改めて顔を見合わせる。
 山田はいつもと変わらない穏やかな表情を浮かべていて、複雑に淀んでいた史乃の心が少し軽くなる。

「今までありがとう。私はこんなん(、、、、)だから、最後まで山田や永束の望むようにはしてあげられなかったけど――でも、二人のおかげでそこそこ楽しい毎日だったよ」
「そう。それなら良かった。ただ、一つ言っておくけど」
「ん?」
「史乃は史乃でいいんだよ(、、、、、、、、、、、)。自分の気持ちに従って動くお前が、俺や永束が「友達」だって好きでいたお前なんだから」

「……っはは、顔真っ赤」
「よせよ。せっかく俺がいいセリフ言ってる時に」
「最後までかっこつかないね、お前らも、私も」

 ――お陰で、胸のつかえがおりたよ。
 そう呟いた史乃は、穏やかな笑みを浮かべていた。


++++

 紫辺父娘の自宅であるマンション――『清火(きよび)マンション』に住む住人はとても少ない。
 高さは十階建て、地下には専用の駐車場が完備されており、敷地内にある中庭には憩いの場として利用してもらえるようにと小ぢんまりとした広場が設置されている、一見普通のマンションだ。
 マンションの内外は清掃が行き届いており、いつも清潔感のあるエントランス、景観に彩りを与える季節の花が植えられた花壇『幅広い年代・立場の人に住んでもらえるように』という管理人(オーナー)の意向により、各階で間取りから部屋数・家賃まで違うという手の込んだ造り。
 マンションを出てすぐの所に最寄り駅へ向かうバス停もあり、自転車でも最寄り駅まで簡単に行ける距離にある。立地的にも設備的にも申し分無いのだが、しかしこのマンションには、致命的な欠点が一つあった。
 マンションのある土地が、よろしくなかった(・・・・・・・・)のである。

 この問題が発覚したのはマンションが建てられた後だった。
 詳しくは当事者達にしか分からないことだが、仮に入居者がこのマンションに入ったとしても大半は長く住むことなく、最終的に他所へ移っていってしまう。
 そのためこのマンションは瑕疵物件でもないのに全室破格の家賃となっており、それも相俟ってそこそこ人の入れ替わりが激しいという悲しい事態を引き起こしていた。
 特に新年度前の春休みの時期は、引越し業者がよく出入りする姿を見かけるのも長く住む住人達にとっての風物詩の一つになっている。
 そんなマンションであるので、長く住んでいる住人は一癖も二癖もある面々が揃っている。不幸中の幸いは一般的な「ヤバい住人」が居ないことだろう。


「ただいま」

 室内に居るであろう唯一の家族に向けて、史乃は声をかけた。

 現在、四階に住んでいるのは紫辺家のみとなっている。
 この家は史乃が生まれて間もない頃に購入した部屋で、部屋階は父親と今は亡き母親が決めた。
 ファミリー層向けは四階からとはいえ、常日頃「四は危ない」「四は避けようね四は」と父親に力説される身としては定期的に首を傾げてしまうのだが。
 以前、思い切って父親に訊ねたことがある。

「なんで家を四階にしたの?」
「だって、不吉なマンションに不吉な数字の階数なら、相乗効果で厄も打ち消しになるからね」
 マイナスとマイナスを掛けたらプラスになるでしょう?
 父がそう言ってウインクを飛ばす。以来、史乃は深く考えるのをやめた。

 一階から三階は一人暮らし向けで、判子があれば身分を問わず即日入居ができる。
 四階は一般的なファミリー層向けで、五階から九階はファミリー層の他におひとりさま向けの部屋もあり、各部屋趣向を凝らした造りになっている。
 最上階はワンフロアが一つの家となっていて、広すぎるその家には年齢不詳の家主が一人で住んでいた。紫辺家とは数少ない入居者として昔から度々交流しており、つい先日家主の青年が結婚の報告に来て祝ったのも記憶に新しい。閑話休題。

 設計した人や管理人には先見の明があったらしい。
 現実は土地の影響か入居者が少ない上、入れ替わりが多いせいで居着く住人がほぼ居ないのが悲しい。
 記憶にある限り、見知った顔は二十人程だったろうか。閑古鳥も啼きすぎて喉が枯れてしまうレベルである。

++++

「お前、本当に面倒くさがりだよなぁ」
「うるさい」
「拗ねるな拗ねるな」
「拗ねてない」
 史乃はだらりと椅子に背を預ける。
 その姿は道半ばで力尽きた動物のような哀愁を滲み出し、遠くを見ているような真顔に近い無表情が虚無を色濃く匂わせる。
 そんな友人の姿を見る男子二人の目は生温かった。
 傍から見ればそこそこ異様な光景だったが、しかし十年来の付き合いとなれば皆慣れたもので、「またやってる」とスルーするのが通常運転となっている。


++++

第一話:紫辺史乃の徒然なる日々

「――史乃さんは、とても優しいです」
 闇に沈みながら女が微笑んだ。
 白磁の肌が深い闇に蝕まれていく様を呆然と見つめながら、史乃は言葉を聞くことしかできなかった――。

  一

 四月初旬、新学期が始まった一週目のこと。
 新しい朝を迎え、けれど太陽が完全に頂点へと昇りきる数時間前――もうじき始まる授業を前に、窓際には三人の少年少女が集まっていた。

 一人はぼんやりと窓から澄み渡る青空を見上げ、一人は椅子に座りながら慌ただしいクラスメイト達を眺め、一人は壁に背を預けて片手に持った本を読んでいる。
 必要以上の会話などない苦痛にならない沈黙。穏やかなひと時を壊す口火を切ったのは、慌ただしい級友達を眺める少年であった。

「そういやさぁ、今度転校生が来るんだって」
「転校生?」

 おもむろに話を切り出した少年――永束に、本を読んでいた少年と、空を見ていた少女――紫辺史乃(ゆかりべ しの)は顔を向ける。

「いつ?」
「来週にでも来るんじゃね? 昨日、父親っぽいスーツの男と、転校してくるっぽい奴……性別はわかんなかったけど、そいつが一緒に応接室に入って行ったらしい。みーんな朝からその噂してる」
「ふぅん……」
「永束、何処でそんなネタ仕入れてきたんだよ」

 気の抜けた相槌を打つ史乃に対し、本を閉じた少年――山田は少しばかり呆れた様子で親友に問いを投げかける。
 永束はへへと鼻の下をこすり、「いやぁ」と声のトーンを上げた。

「何もしなくても入ってくるんだよ、人徳ってやつだな」
「盗聴なんてサイテーだな」
「してねーよ!?」
「本当にぃ?」
 疑るような山田の言葉に、「してねえって!」と噛みつく永束。
 その姿はさながら飼い主にじゃれつく子犬である。永束のふわふわとした髪質が更にその姿を彷彿とさせている。
「……それで、どんなのが来るって聞いたの」
「聞いてくれるか史乃ォ!」
「うわ、ユカリやさしい」

 とりあえず軌道修正しておこうといわんばかりの問いに、勢いよく永束が振り返った。「えぇ? 訊いちゃうの?」と茶々を入れる山田を目で一蹴し、史乃は早く続けろと顎で促す。

「流石ユカリ! 山田とは格が違うぜ、格が!」
「はいはい」

 嬉しそうにごまをする永束を気怠げに受け流す。
 これでも小学校一年からの付き合いである。ここで下手に適当に扱って、後でネチネチとした恨み節を聞くのは御免だった。

「その転校生なんだけどさ――」

 ワクワクとした顔で喋る永束は目を輝かせ、まるで子供が親に今日あったことを話すかのように喋る。
 今年で十五になる男がそれでいいのか気になるところではあったが――史乃はそんな姿を眺めるのが存外嫌いではなかった。


 二


 朔日中学校《さくじつちゅうがっこう》は、通っている生徒の大半が朔日町の子供達である。
 朔日町には小学校から高校までが一校ずつ存在しており、そのうち小・中学校は同じ敷地に並び立つような形に建っている。そんな立地の関係もあり、朔日町に住む子供は小学校入学から中学校卒業までの九年間をほぼ同じメンバーで過ごす。
 この体制は思いがけず『義務教育学校』に近い形となっており、そしてそのお陰か、町内の小・中学校における人間関係のトラブルは限りなく少ないという統計結果も出ていた。
 そんな環境による恩恵もあり、中学三年生になった今も心情の変化で多少の距離はあれど、史乃のクラスの男女間の仲は良好な傾向を保ったままだ。

「俺今日サンドイッチなんだー」「美味そう! くれ!」「絶対嫌だ」
 昼食の時間に入った教室の中は騒がしい。
 大半の生徒は友人とグループになって食べているが、一人マイペースにのんびりと食べる生徒も少なくない。窓際の席に座る史乃もその一人だ。
 不要なものを仕舞った机の上は存在感のある二段重ねの弁当箱が置かれる。

「いただきます」
 食事の挨拶と共に合掌して弁当箱を開ける。
 史乃の弁当は、一段目が主食である米、二段目がおかずという構成になっている。
 ぎっしり詰め込まれた米は赤みがかった雑穀米。おかずはレタスなどの葉物野菜から人参・ブロッコリー・アスパラなどの温野菜に、メインの肉と魚が豪勢に両方入れられている。その量は女子の一人分というより、体育会系の男子に近い。

 しかし史乃は顔色一つ変えず箸を持ち、そのまま一口目を頬張った。
 大きめにとった米を咀嚼して数秒。それまでの無表情から、にんまりと満足そうな笑みが口元に浮かび上がる。

「んまい……」

 史乃は幸せを噛み締めるような声で言った。

「美味しそうに食べるなぁ、お前は」

 ハムスターのように頬を膨らませ、幸せそうな顔で黙々食べ続ける姿を見ながら永束が呟く。
 史乃は同年代の少女達よりも小柄な体格ながら、食べる量は同年代男子よりも多い。そして普段から感情の起伏が少ない史乃が唯一感情を露わにしてくれるのが食事だった。
 幸せそうに食べる姿は見ている側の食欲を唆る程に気持ちいい。

「だって本当に美味しいし……」

 美味しいものを美味しいと言って何が悪いというのか。史乃の弁当は、父親が毎日趣向を凝らしながら作ってくれているお手製だ。不味いはずがない。


「んまい」
「美味そうに食べるなあ、お前は」
 頬をリスのように膨らませる史乃を見ながら呟く永束。
 そんな言葉もどこ吹く風と言わんばかりに、史乃は黙々と食事を続ける。
「転校生ね……」優雅に食事をしていた山田は、どこか思案げに呟いた。
 朝から広がっている転校生の話は、昼食の時間でも恰好の話のタネになっていた。
「進級したばっかとはいえ、不運な子だよな。中学最後の年で学校が変わるなんてさ」
 永束は顔も知らない転校生に同情するように言う。しかし史乃は「それはどうかな」と呟き、

「案外そうでも無いかもしれないだろ。前の学校で問題を起こしてきたのかもしれない。あるいは何か仕出かしたとか」
「なにかって?」

 近くで昼食を取っていたクラスメイトの問いに、口元に笑みを浮かべた史乃は「こういうこと」と手元にあったシャーペンで喉を掻き切るような仕草を見せた。

「わぁ、バイオレンス!」
「うげえっ」
「メシ時にやることじゃねーだろそれ!」

 目を輝かせた少女、呻く永束、外野席から様子を伺っていた他のクラスメイトからの野次と声が重なり合う。

「おっまえ、発言が物騒なんだよ!」
「こんなヘヴィーな世の中ならおかしくないじゃん?」
「もうちょっとこう、平和な想像をしようぜ!?」
「バカだなぁ、私の想像はいつだって愛と平和に満ちてるというのに」
「お前の発言はいつだってバイオレンスの香りがプンプンしてるだろ!」
「遺憾の意だな」
 これだから素人は。そう言わんばかりに首を振り、やれやれと溜息をつく史乃はどこまでも余裕だ。対する永束はぐったりと疲れた様子で机に倒れ込んだ。
 その様子にクラスメイト達が「またやってるよ」と笑って、教室に和やかな雰囲気が満ちていく。
 それが、このクラスにおける日常の変わらない一部分だった。
 朔日町の子供達は今日も穏やかな日々を過ごし、平和を享受し続けている。
 紫辺史乃は、その微睡みのような箱庭(せかい)で今日も生きている。


「ユカリ、てめぇ……まぁた美味そうに早弁しやがってぇ……」

 史乃は声の主をちらりと見て、鼻で嗤う。

「永束と違って成長期なんだよね。食べても食べても消化しちゃうんだぁ、大変だわぁ」
「クッソなんて女だ! お前の血は何色だ!?」
「赤」
「マジレスすんじゃねー!」
 地団駄を踏む永束を横目に、史乃はいつの間にか三つ目のおにぎりもぺろりと平らげた。「これでなんとか昼まで保ちそう」と少し膨らんだお腹を擦りながら一息ついて、呆れ混じりの目で永束に訊ねる。

「毎日毎日おんなじこと言って飽きない?」
 永束は、史乃の問い掛けに不思議そうに首を傾げた。
「飽きる要素無くね?」
「冗談キツいわあ」
 史乃はやや引き気味に首を振った。
「なんだとお前! 俺らの仲じゃんよ!」
「いや、ないわー……」
「ひでえ!」
 慣れた様子で紡がれる会話は、これが日常なのだと体現しているようだった。
 そんな二人を見ながら、「またやってるー」「暇人かよ」「変わんないなあ、あの二人」とクラスメイト達が楽しそうに笑い合う。
 史乃と永束は顔を合わせ、「あはー」と曖昧な笑みを同時に浮かべた。




「――史乃さんの瞳は、きれいな紫色ですね」
 おもむろに呟かれた言葉に、史乃は首を傾げた。
「父親の遺伝らしい。ママは普通の色だったらしいから、私とパパだけがこの色」
「とても素敵な色ですね。澄み渡った紫水晶のようで」
「紫水晶?」
「アメジストといえば伝わりますか?」
「宝石の?」
「ええ。それです」
 なるほどと頷いた史乃は、「だから昔からなにかと面倒だった」と皮肉げに呟いた。
 人間という生き物は何故自分と違うものがあるだけで注目するのか、理解できない。十人ヒトが居れば、それぞれ異なる個性を持つのは当たり前のことなのにたかが目の色一つでいつだってやたらと視線を向けられた。
 目の色の違う人間なんて探せば腐るほど居るだろうに。幼い頃から向けられてきた好奇の目は、史乃にとってフラストレーションが溜まるだけの頭痛の種だった。
 向けられた時の居心地の悪さを知っていれば、自ずと他人へそういう目を向けることもなくなる。そして嫌がる姿を見ていれば、近くに居た人間は自然とそういう目で見ることは無くなっていく――慣れたとも言うのだろう。

「人間の視線って、意外と感じ取ってしまうものですから」
「まあ、そうだね。……けど、私より百川さんの方がそういう機会多かったんじゃないの」

 百川は一目見て綺麗だと思う程整った容姿だ。人は綺麗なものに引き寄せられやすい。宵子は笑みを浮かべ、

「そう言われると、そうだったような気もしますね。他人の目なんて気にしてたら気をやってしまいそうな環境に居たもので、あまり気にしていませんでした」

 と、さらりと嘯いた。

「しれっと重い発言するのどうかと思う」
「史乃さんだから言えるのです」

 口元に手を当てて上品に笑う宵子に、史乃は口角を引き攣らせる。

(――この女、なかなかヘビーな話題をアッパーで喰らわせてきやがる……)

 話を振ったのは自分なのでただの自滅なのだが。
 心の中で呟きながら、「そりゃどうも」と史乃は肩を竦めた。


 宵子との会話は、史乃にとって普段クラスメイトと交わす会話より気が楽だった。
 いちいち喋る度に言葉を吟味する必要が無くて、思ったことをするりと口に出しても会話が滞りなく進むからだ。
 昔から、史乃自身は普通に話しているつもりなのに相手にはきちんと伝わらないということがよくあった。そのせいで喧嘩に発展したこともある。だから史乃は、いつも他人と言葉を交わす時は頭の中で考えをまとめ、できるだけ不快にさせないよう気をつけながら話している。
 それでも周りから何かと「物言いが物騒」「ちょっと慎んで」と言われているのが現状なのだが――これが史乃にとっての周囲への配慮を最大限した状態での発言だった。どうにかしろと言われても、これ以上はどうしようもないのに、というのが本音だ。
 他人との会話は史乃にとって四六時中付きまとってくる負担だった。
 だけど、宵子と話している時はそういう負担が殆ど無い。初めての経験だった。

「……変な人だね、百川さん」
「まあ。そうですか? ありがとうございます」
 ふわり。甘い香りを撒き散らしながら、宵子は花のような笑みを浮かべた。

++++

 史乃の容姿は、際立って目立つと言うわけではない。
 平均より低めの背丈に、肩に触れるか触れないか程度の黒髪。長めの前髪から覗く紫色の瞳が唯一にして最大の特徴と言っていいだろう。
 顔立ちは「父親似」と言われるほど中性的なもので、女子制服を着ていなければ男子に間違われることもあった。
 性格はマイペースで一匹狼気質。特定の友達は居ないが、知り合いはそれなりに居る――と言うと何人かとても傷ついた顔をするので、「ぼちぼち居る」の一言にとどめておく。
 最低限のルールは守るが、彼女が過剰に縛られることを嫌うと知っているクラスメイト達は付かず離れずの距離を保ってくれている。
 しかしそれは、ただ一人の例外によってあっけなく崩れ落ちた。

『紫辺さん、あの、お昼、ご一緒してもよろしいでしょうか?』
『紫辺さんは何がお好きですか? 是非教えて頂きたいです』
『ああ、紫辺さん、今日も血色の良いお顔ですね』
『紫辺さん――あの、史乃さんとお呼びしてもいいかしら……?』
『史乃さん、今日もたくさんおにぎりを食べてらっしゃるのね』
『ふふ、史乃さん、かわいらしい……』

 以上が一部抜粋した百川宵子の発言である。
 史乃は胃を抑えながら、如何ともし難い――確かな苦痛を感じていると思われる表情を浮かべ、小さな声で語った。
 面白半分に聞いていた永束も興味本位で会話に参加した山田も、彼女が喋り終わる頃には、揃って引き攣った表情へと変わっていた。

「えっ……えっ? 百川さんってそういう性格してた?」
「温度差が酷い……いや、随分お前に懐いてるとは思って見守ってたけど、まさかそこまでとは」

 流石に思わなかった。二人の顔には大きくそう書かれている。
 顔を見合わせ、史乃を見つめ、また顔を合わせ――と動揺を隠せない様子の二人に、机に頭を預けた史乃は疲れ切った声で囁く。

「私に何を見出したかはわからんが、このままじゃ……流石につらいな」

 具体的に言うと、おにぎりを食べる食欲も失せてきてる。そう語る史乃に、永束から小さな悲鳴が上がった。

「お、お前から食欲を奪うなんて……百川宵子は何者だ!?」
「人間じゃないよ! ユカリからおにぎりを食べる気力すら奪うなんて!」
「そのうち昼も食べられなくなるかもしれない……」

 まさか中学最後の年でここまで悩まされるとは、と心のなかで独りごちる。
 口に出して気を軽くしようとしたつもりが、逆に現実味を帯びてきてしまったのが恐ろしい。万が一、もし自分が食事が喉を通らないような事態が起きてしまったら、そこからはもう父親の独壇場になるだろう。
 それだけは避けなければ。
 詳しくは分からずとも、史乃は本能的に理解していた。

 ――百川宵子(かのじょ)は、自分の父親(いおり)と何か関係があるのだと。
 そう仮定してしまえば、以前彼女と対峙した時に感じた父親への違和感が、正しいものだったと認められる。父自身も気付かれたと思ってはいないだろう娘だからこそ気付けた僅かな違和感。
 その原因が、百川宵子なのだろうと。



++++
 五月

 月曜日。先週から休んでいる転校生は今日も休みらしい。
 がらんと空いた席を一瞥し、いつもと同じように自分の席に座る。

「百川さん、今日もお休みだって」
「大丈夫かな?」
「心配だね……ね、史乃ちゃん」
「そうだね」

 クラスメイトの不安げな呟きに、史乃は心にもない相槌を打った。


 ――今日も百川宵子は学校を休んでいた。
 記憶する限り、宵子が休み始めたのは先週の金曜日、そして今日は週を跨いだ水曜日。休日を含めると大体一週間弱休んでいるということになる。
 最近は不安定な気候が続いていたし、それで体調を崩している生徒をちらほら見かけていた。宵子(かのじょ)が休んでいるのもそんな理由だろう。そう考えているものの、その考えを話すつもりは一切ない。
 クラスメイト達の心配する声を聞き流し、史乃は普段通り過ごすつもり――だったのだが。

「紫辺さ、百川さんのお見舞い行ってくれない?」
「嫌です」

 まるで世間話でもするかのようなトーンで切り出した担任の言葉を、史乃はあっさりと切り捨てた。
 数秒程の沈黙が史乃と担任を包み込む。
 コホン。
 担任がわざとらしい咳払いをして、「百川さんのお見舞い、行ってくれない?」さっきと同じ言葉をもう一度繰り返し、そして史乃を見つめた。
 史乃は無言で、心底嫌そうな表情で首を振る。

「私にメリットが一切無いので嫌です」
「お前ね、友達が心配じゃないの?」
「友達ではないです。クラスメイトです」

 淡々とした発言に担任は片手で目元を覆い、

「紫辺、ちょっと薄情すぎない……?」

 史乃は慣れた様子で頷いた。

「よく言われます。……大体、百川さんのお見舞いならクラスの誰に頼んでも喜んで行くでしょう」
「うん、まあそうなんだけど。それはちょーっとまずいんだよなぁ。先生としてはね、紫辺が適任だと思うわけよ」
「ええ……じゃあ先生が行けばいいじゃないですか」

 史乃の言葉は正論だ。だが担任は、その言葉に困った表情を浮かべるに留まっている。

「それができたらどれだけ良かったか……」
「……なにか、ワケありなんすか?」
「実は、結構ワケありなんだわ」

 担任が頷いた。そして史乃に顔を近づけ、口元に手を添え、内緒話するような姿勢になる。

「百川さん、一人暮らししてるらしいんだよ」
「……それの何がワケあり?」

 百川宵子は、年齢にそぐわないほど随分と大人びた少女だ。
 たとえ彼女の両親が都合によって一緒に住めていないのだとしても、彼女なら平然とした顔で、悠々自適に一人暮らしを謳歌しそうなイメージがあった。
 史乃の問いに、担任は首を横に振った。

「百川さんの実家は、結構大きな家でね」
「へー。名家ってやつですか」
「まあ、そんな感じだ。で、本人曰く、彼女は自分の意志で家を出て一人暮らししてるらしい……んだけど、転入の手続きに保護者で来てた『お目付け役』のお兄さん曰く、放逐(ほうちく)に近いらしいんだわ」
「放逐……?」
「ああ、追い出すって意味ね。……つまり、後は分かるな?」

 真剣な眼差しが史乃を射抜いた。
 担任が言いたいのはつまりこういうことだろう。
『百川宵子の実家は、ものすごく厄介な香りがプンプンしている』
 ――それも、超ド級の地雷の香りを纏わせている、と。
 なんだかとんでもない裏話を聞かされた気がする。
 げんなりとした表情の史乃に「適応力の塊の紫辺なら何とかなるだろ?」と、担任はちゃっかり手元に置いてあった封筒を史乃の手に持たせた。

「ちょっと、先生」

 まだ行くとは言っていない。じとりと睨む史乃に、担任は「頼むよ、紫辺ぇ」と何時も通りの胡散臭い笑みを浮かべる。

「紫辺はそういう厄介な事情とか興味無いだろ? 他の生徒や俺含めて、無意識にヤブで蛇をつついちゃいそうなんだよ。彼女、感情の起伏が穏やか過ぎて逆に掴めないんだ」

 ――まあ、内申点の為と思って、な?
 悪魔の囁きが受験生を襲った。
  
五月 02

「あのクソ教師……」

 結論として。
 放課後、史乃は担任の代わりに百川の住んでいるというマンションに向かって歩いていた。
 片手には担任から渡された地図を持ち、宵子へ届ける封筒は自分の鞄の中に仕舞ってある。心の中であらん限りの罵声を浴びせながら、グツグツ煮立って吹きこぼれてしまった怒りを撒き散らしていく。

 ――くそっ、くそっ! アレが教師なんて、世の中どうかしてる! 
 衝動のまま地団駄を踏みたい気持ちを押し殺しながらも足は止まることはない。
 一度受け取ってしまった以上、届けるしか史乃に選択肢は残されていないのだ。しかもあの担任、しれっと内申点をチラつかせてきやがった。身分が身分ゆえに逆らえない悔しさにグッと奥歯を噛み締める。

 まだ五月とはいえ、中学三年生は世間一般でいう受験生だ。
 全てに無関心な史乃も、父親に言われたのもあって最低限内申を気にするようにしていた。担任はその点を突いて、見事厄介事を押し付けてみせたのである。
 鮮やかで尚且えげつない、大人の――それも、教師にしか成し得ない犯行であった。

「いつか絶対に復讐してやる……」
 そう心に強く誓い、史乃は目の前に聳え立つ建物を見上げる。
 史乃の住んでいるマンションより小さいものの、清潔感のあるエントランスは見ていて気持ちいいし、花壇で咲く花を見ると、丁寧に手入れされているのだと一目で分かる。
 ――いいとこに住んでるなあ。
 さっさと用事を済ませなければ。入り口にあった事務室らしき所で要件を伝えると、このマンションの管理人だというふっくらとした出で立ちの婦人が嬉しそうに微笑んだ。

「宵子ちゃんのお友達? 良く来てくれたわねえ」
「……はい。あの、おねえさんは百川さんの体調がどんな感じか知ってますか?」
「まあ」驚いた声を上げながら、婦人は上品に口元に手を添える。「お世辞の上手な子ねえ、あなた」と、婦人は上品に笑った。

 知らない人はとりあえず褒めておく――史乃の処世術の一つだ。
 そんな史乃の言葉に嬉しそうな表情を浮かべていた婦人だったが、しゅんと少し悲しげな表情を浮かべると「宵子ちゃん、ずっと微熱が続いていてなかなか治りきらないみたいなの」と言った。
 でも、と明るい声色で、「きっと、あなたがお見舞いに来てくれたから元気になるわ」と嬉しそうに微笑んだ。
「これ、宵子ちゃんの部屋のスペアキー。さっき宵子ちゃんから連絡貰ったから、渡しておくわね。帰りにまた返却しに来て頂ける?」
「はい。ありがとうございます」
「どういたしまして」
 そう言う婦人は慈愛に満ちた表情で、百川宵子を気にかけているのだろうと容易に推測できる。
 普通の人には多分それは当たり前の感情なのかもしれない。婦人程の年頃の女性なら(左手の薬指に嵌められた指輪も確認したので)中学生の子供がマンションで一人暮らしなんて、きっと心配するだろう。仮に婦人に子供が居るなら、尚更。
 無意味な推測を繰り広げながら、婦人にお礼を言って頭を下げる。
 そして史乃は、マンションの中へと入って行った。

  *  

「随分ひどい顔をしてるね」
「――そんなにひどいですか?」
 開口一番、遠慮もなくそう言い放った史乃に、掠れ気味の声の宵子が目を細めた。
 本当は玄関先で預かった封筒を渡して帰るつもりだったのだが、宵子の「どうぞ中へ」という一言でその願望は儚く消える。
「……少しだけなら」
 そう答えて、史乃は宵子の住む家へと足を踏み入れた。

「ここはリビングです。あまり使いませんけど」
 足を踏み入れた室内は、随分と寂しい装いをしていた。
 部屋の隅に積まれた二箱のダンボールに、ベランダに繋がる窓際の床に小さな観葉植物が一つ。ソファやテーブルも無ければ、カーテンもテレビも無い。ちらりと見えた流し台には流石に使用した食器がちょこんと置かれていて、それが辛うじて生活感を伺わせた。
 きょろきょろと中を見渡す史乃に、「何も無いでしょう?」と宵子が微笑む。

「これ、先生から。プリントとか、学校からのお便りとか」
「ありがとうございます。先程先生からお電話を頂いてお伺いしました。先生、史乃さんが来ると仰っていて、まさかと思ったのですが――」
「来ちゃったんだよね」
 内申点を盾に押し付けられた――とは流石に言えなかった。
 病人にそこまで言い放つほど鬼ではない。現に何も知らない宵子は嬉しそうな表情を浮かべているのだし、知らぬが仏というやつだろう。

「ええ、ええ。とても驚きました。でも……とても嬉しいです。ありがとう、史乃さん」
「どういたしまして。でもそれは先生に言ったほうがいいんじゃない」
「それでも、来てくださったのは史乃さんですから」
「……そう」
 穏やかな口調で、けれど強い響きを持った言葉に、史乃は頷いて受け入れることしかできない。本音を言うと、特に反論する理由も見当たらなかったので彼女がそう思うのならそうなのだろう――と考えただけなのだが。
 さて、帰ろう。口を開きかけた史乃に、「あの」と声が掛けられる。
「少しお話をして行きませんか?」
 宵子が扉が開いたままの部屋を指差しながら、史乃に微笑みかけた。
「ずっと立っているのはまだ少し辛いので、私は床に入らせていただきながらという形になりますが」
「……構わないよ」
「ありがとうございます」
 では此方へ。
 その言葉と共に部屋に入っていく宵子に続いて史乃も部屋に入るしか道は残されていなかった。


 宵子の寝室は、リビングよりも生活感に溢れていた。それでも物が少ないことには変わりないのだが――少なくとも、あの何もないリビングよりは、ちゃんと人が生活している部屋なのだと分かる。起き出してそのままの形になっている布団や、口の開いた通学用の鞄、机の上に置かれている教科書達を見ていると、彼女も生きている人間なのだと、史乃の中に不思議な実感を植え付けるのだ。
 いそいそと布団に入った宵子を見下ろすような形で、史乃は口を開いた。
「それで、何の話をするの?」
「ふふ、何の話をしましょうか?」
 質問を質問で返されてしまった。困ったように眉を顰めた史乃に、宵子は「冗談ですよ」と軽やかな口調で言う。
「そうですね……ああ、そうです、教室の皆さんの様子は如何ですか?」
「……皆、君を心配してるよ。何日も顔見てないから、どうしたんだろうってそわそわしてる」
「皆さん、優しい方達ですものね」
「ああ、優しいよ。あいつらは(・・・・・)」
「私は史乃さんも含めて(・・・・・・・)優しいと言ったのですが」
「私は優しくないよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
 当然のように史乃は頷いた。
 少なくとも、史乃は自分自身のことを「優しい人間」だと思ったことは無い。
 共感能力が欠けている――という訳では無い、筈だ。人並みに感情もあるし、人並みに同情することもある。けれどどうにも、『自分は他人を思い遣る気持ちが少し欠けているのだろう』と、史乃は冷静に自己分析をしていた。
 永束がよく史乃に「物騒だ」「人でなし」「血も涙もない」と言う気持ちも、分からないでは無い。自分はきっと人でなしなのだろうと、史乃自身が自分のことをそう思う時がある程なのだから。
 だから宵子が言う「優しい」という言葉は、どうにもむず痒くなって仕方ない。
 流れるような問答の末、部屋に静寂が訪れる。
 史乃は宵子から目を離して、カーテン越しに晴れ渡る空を見つめた。

「――何も、訊かないのですか?」
 ふと、そんな言葉が耳に入った。
 史乃は視線を窓から直ぐ側の宵子へと戻した。声の主である宵子は、いつの間にか横になっていたはずの布団から上半身を起こし、史乃を真っ直ぐ見上げていた。
「なにを?」
 心底不思議そうな表情(かお)をした史乃が、首を傾げた。
「普通の方なら、多分、訊きますよ。『どうして中学生が一人で暮らしているの?』って」
「へえ、じゃあ百川さんは、私にそうして欲しかった?」
 史乃の問いに、宵子は「いいえ」と静かに首を振る。
「訊かれても、正直困っていたと思います。最終的に家庭の事情まで話さなければならなくなりそうで」
「じゃあいいじゃん。私は興味無いから訊かないよ。良かったね」

 あっさりと、史乃は言い放つ。
 あっけらかんとした表情で、心の底から『お前に興味は無い』と、オブラートに包むこともなく、勢いそのままに宵子へ言葉の弾丸を射出する。仮にも床に臥せっている病人に対して気遣いの欠片も無い発言だった。

 この良く言えばはっきりとした、悪く言えば相手を慮れないように思われる発言が、史乃が周囲から「物騒だ」とよく窘められる原因であった。肝心の史乃が一切悪びれる様子が無いのも、それに拍車をかけている。

 宵子は史乃の言葉に面食らったような表情を浮かべて――そして、心底おかしいと言わんばかりに、ブルブルと体を震わせて笑いだした。

「ふ、ははっ、あははっ……! ああ、史乃さんったら……ふふっ、ああ、もう、本当に、っふふ、史乃さん、あなたは、とても素敵な方ね……!」
 お腹を抱え、長い髪を揺らしながら、宵子の口からは抑えきれない笑い声が溢れ出す。
 おかしそうに笑うその姿は、あの人形のような美しさを備える、淑やかさと穏やかな表情で形成された少女と同一人物だとは思えない程に普通で(・・・)、無邪気であどけないものだった。
 史乃は驚いたように目を見開いたが、それもほんの数秒のことだった。普段通りの表情に戻ると、笑い続ける宵子をぼんやりと眺める。
「どうもありがとう? って言えばいい? それとも今、皮肉られてる感じ?」
「いいえ、いいえ! ふふ……こんなに笑ったの、初めてかもしれないです。……ああ、史乃さん、あなた、本当に、見ていて気持ちがいい方ですね」
 目尻に浮かんだ涙を拭いながら、宵子は手放しで史乃を称賛する。
「そうかな。照れるね」
 史乃はにこりと口角を上げて、形ばかりの笑みを浮かべた。


「――それじゃあ、これで」
「ええ、ありがとうございました。気をつけてお帰りくださいね」
「うん」

 玄関前まで見送ってくれた宵子を背に、史乃は百川家を後にした。
 史乃が帰る頃には、一頻り笑ってすっきりしたのか、宵子の顔は史乃が来た時よりも随分と血色が良くなっていた。「明日は行けそうです」と言った言葉は、多分本当だろう。
 元々史乃は、担任に頼まれて休んでいた宵子に届け物をしに来ただけで、特に長居をする予定は無かった――のだが、ずるずると引き込まれて、気付けば彼女の家へ入って一時間程時間が経過していた。
 その間に空は夕暮れへと染まりはじめていて、そうしてやっと、帰る流れになったのだ。
 借りていた鍵を返却し、宵子の住むマンションを後にした史乃は家路へと向かう。
(今日のおやつ、なんだろうなあ)
 いつものように、今日も家で待っているであろう父のお手製おやつに心をときめかせながら、史乃は歩いていく。

 ――そんな史乃の姿を、マンションの窓から、宵子が見ているとも知らずに。

++++

四月

「ふぇんふぉうふぇい?」
「そう、転校生! あとお米付いてるよ?」
 失礼。そう言って、ぺろりと口元についた米粒を舐め取る。
 紫辺史乃(ゆかりべしの)がその話を耳にしたのは、新学期が始まってまだ間もない頃だった。

「……ねえねえ、史乃ちゃん知ってる?」
 授業と授業の合間のちょっとした休憩時間。前の席に座っているクラスメイトの少女が史乃の方を向き、そわそわと興奮を抑えきれない様子で唐突に話しかけてきた。
 おにぎりを食べている最中の突然のそれに首を傾げ、史乃は「何が?」と返す。
「あのね、転校生が来るんだって、しかも私達の学年に!」
 クラスメイトが、まるで衝撃的なスクープを掴んだかのような口調で言った。
 史乃はぱちぱちと瞬きをして、驚いたような表情を浮かべると、
「それはまた珍しい」
 と呟いた。
「でしょう!」
 思った通りの反応がきたと嬉しそうに笑みを浮かべたクラスメイトに、「それは」と史乃は次いで問いかける。
「先生に聞いたの?」
「ううん。確か、同級生の誰かだったはず。なんか、若いお兄さんと手続きしに来てた、見覚えのない子が居たらしくてね? こっそり盗み聞きしたんだって」
「あらら、盗み聞きするなんて、そいつは悪い子だなぁ」
「しょうがないって、珍しいもん」
「それは否定しないけどさあ」
 少女と会話を続けながら、史乃は机の上に置いた保冷バッグの中から通算三つ目のおにぎりを取り出した。そして「いただきます」と手を合わせて、おにぎりに齧りつく。
 もきゅもきゅと口いっぱいに詰め込んだ白米を、ゆっくりと咀嚼する。親からの教えもあって、史乃は食べ物を口に入れている時は基本的に喋らない。無言の時間が数秒ほど経つと、憮然とした表情を浮かべていた顔に、にんまりと満足そうな笑みが浮かびあがった。
 史乃は同年代の少女達よりやや小柄な体格ながら、食べる量は平均的な中学生男子にも負けない時がある程の健啖家だ。その食べっぷりは、育ち盛りの同級生たちの食欲を時に容赦無く煽り、時に食欲を減退させることもある程である。
 話しかけてきた少女も「美味しそうに食べるね」と、微笑ましげな笑みを浮かべた。
「だって、本当に美味しいし」
 何せ、毎朝父親が味をちょっとずつ変えて作ってくれているお手製おにぎりである。不味いはずがない。迷いなく頷く史乃の耳に、「ちくしょう……」と、何処からともなく恨めしげなトーンの少年の声が聞こえてきた。
 声の主を見た史乃は、フン、と鼻で笑う。
「ユカリ、てめぇ……まぁた美味そうに早弁しやがってぇ……」
「永束(ながつか)と違って成長期なんだよねぇ。食べても食べても消化しちゃって大変なんだぁー」
「くっそぉ! なんて女だっ! お前の血は何色だ!?」
「赤」
「マジレスすんじゃねー!」
 キイッ! と奇声を上げながら心底悔しそうに地団駄を踏む少年――永束を横目に、史乃は三つ目のおにぎりもぺろりと平らげる。これでなんとか昼までは保ちそうと腹を擦りながら一息ついた。

「毎日おんなじこと言って飽きない?」
 永束は、史乃の問いに不思議そうに首を傾げた。
「飽きる要素無くね?」
「……冗談キツいわあ」
 史乃はやや引き気味に首を振る。
「なんだとお前! 俺らの仲じゃんよ!」
「いや、ないわー……」
「ひでえ!」
 慣れた様子でテンポよく交わされる会話は、史乃にとって日常茶飯事であった。永束とはかれこれほぼ九年の付き合いだが、未だこの会話がなくなる日はこない。最近では、ちょっとしたルーチンワークなのではと思う部分もあった。
 そんな二人を見ながら「またやってるよー」「暇人かよアイツら」「変わんないなあ、あの二人」とクラスメイト達が楽しそうに笑い合う。
 史乃と永束は顔を合わせて、曖昧な笑みを同時に浮かべた。


 史乃の通う朔日中学校(さくじつちゅうがっこう)は、生徒のほぼ全てが朔日町の子供達だ。
 市にするにはやや足りず、町にしては大きい方である朔日町には、町内に小学校から高校まで一校ずつ存在している。そのうち、小学校と中学校は同じ敷地に並び立つような形で建てられていた。
 そんな立地の関係もあり、朔日町に住む子供は、大抵が小学校入学から中学校卒業までの九年間を、ほぼ同じメンバーで過ごす。なのでクラスメイトの大半は、小学校で一緒のクラスで過ごしたことのある、見知った顔馴染みだった。地区によっては、幼馴染と呼べる人も多い。
 これは中学進学における生活環境の急激な変化による子供のストレス軽減などの意味合いもある、いわば義務教育学校に近い形になっている。そしてその成果か、朔日町内の小・中学校における人間関係のトラブルは限りなく少なく――
 閑話休題。
 そんなちょっとした立地による恩恵もあって、三年生になった今も、史乃のクラスの男女間の仲は良好な傾向を保ったままだった。

「……しかしまあ、転校生ねえ」
「進級したばっかとはいえ、不運な子だよなあ。中学最後の年で学校が変わるなんてさ」
「それはどうかな」
 永束が顔も知らない転校生に、少しだけ同情するような表情(かお)で言うのに対し、史乃は真顔で返す。
「案外そうでも無いかもよ? 前の学校でトラブル起こして転校してきたのかもしれないじゃん。もしくはヤバいことをしでかしたとか」
「ヤバいことって?」
 クラスメイトの問い掛けに、笑みを浮かべて「こういうことだよ」と、手元にあったシャーペンを使って何かを刺すようなジェスチャーをした史乃に、「うげえっ」と永束が小さく呻き声をあげる。

「おっまえ、発言が物騒!」
「こんな世の中ならそんな子が居たっておかしくないでしょ」
「もうちょっと平和な想像しようぜ!? ラブアンドピース!」
「いやだなぁ、私の想像はいつだって愛と平和に満ちてるでしょう」
「どこが!? お前の発言はいつだってバイオレンスの香りがプンプンですけど!?」
「甚だ遺憾の意だね」そう言わんばかりに首を振り、やれやれと溜息をつく史乃はどこまでも余裕綽々のようで、対する永束は、ぐったりと机に倒れ込んだ。

「おのれユカリぃ……次は負けねえぜ……」
「いつから私と永束は勝負してたの?」
 心底不思議そうな表情を浮かべる史乃に、永束は「嘘だろ……」と衝撃を受ける。
その様子を見たクラスメイト達がまた楽しそうに笑って、教室に和やかな雰囲気が満ちていく。それが、このクラスにおける日常の変わらない一部分だった。
 今日も朔日町の子供達は穏やかな日々を過ごしながら、変わらない平和を享受し続ける。
 紫辺史乃は、その微睡みのような微温湯(ぬるまゆ)の中で今日も生きている。

 
 02

 ――その日、史乃のクラスは朝から異様な空気に包まれていた。
「はい、皆注目ー」
 つい先日話題にしたばかりの転校生が、話をして三日も経たないうちにやって来たからである。――それも、三年でも数あるクラスの中から史乃の在籍するクラスに、だ。
 そんなちょっとした(、、、、、、)奇跡(ミラクル)が起きてしまったせいで、史乃を除くクラスメイト達は皆朝から普段より落ち着きがなく、その姿は普段生徒に『ダメ人間』と影で囁かれているらしい担任が苦笑して「落ち着けよ」と言ってしまうしまう程であった。
 普通の転校生なら、おそらくもっと和やかで落ち着いた雰囲気だったのだろう。ただ、今回は普通の転校生では無かった(、、、、、、、、、、、、)ので、まるで沸騰寸前でグツグツ煮立ったような空気の中、クラスメイト達の熱い視線が一点に注がれる。
 彼女は、教壇に立つ担任の隣に姿勢良く立っていた。
「――百川宵子(ももかわしょうこ)、と申します。一年の間だけではありますが、どうぞよろしくお願いいたします」
 そう言って少女は、深々と頭を下げる。
 丁寧に切りそろえられた綺麗な黒髪に、控えめに浮かべている微笑みが可愛らしい、整った顔立ちをした、まるで人形のお姫さまような女の子だった。可憐で、物語の中から飛び出してきたかのような美しいという言葉がぴったりな少女。
 彼女が声を発したその瞬間、生徒の誰もが百川宵子に釘付けになった。
 ――ただ一人、興味なさげな顔をしている紫辺史乃を除いて。

「と、いうわけで。一年間一緒に過ごす百川さんです。皆、仲良くやってくれるよな?」
 だからさっさと現実に帰ってこーい――と告げた担任の言葉で、異様な状態で静まり返った教室の中が、一気に沸き立った。
「いよっしゃあ女子きたあ!」
「超絶かわいこちゃんだあー! サンキューせんせえ〜!!」
 転校生を迎え入れる拍手の音と、興奮しきった様子で会話をする男子生徒の声。
「かわいいね」「どこから来たのかなぁ」とささやきあう女子生徒の声。色々なものが混ざり合って、まさに教室の中はお湯が吹きこぼれてしまったかのような状態へと変貌していた。
 そんな混沌とした教室を全て無視して、史乃は退屈そうに窓越しの空を見る。
「いい天気だなぁ……」
 ほう、と息を吐きながら、思わず呟いてしまう。まだまだ寒い日が続くものの、今日も天気は良好で、見上げた空はどこまでも青く澄み渡っていた。穏やかな太陽の光が心地よくて、眠気が誘われるようだ。
 くあ、と小さく欠伸をしながら、机に肘をついて担任の話が終わるのを待つ。
(――たかが転校生でここまで騒ぐもんでも無いだろうに)
 正直な話、史乃は「転校生」という存在に興味が持てていなかった。
 どちらかと言うと「面倒そうだから関わり合いになりたくないなー」と非情なことを考えていた程だ。そんなことを口に出せば周囲の顰蹙を買いそうなので心に留めておくだけにしておいたものの、心の中では転校生に沸き立っているクラスメイト達に少しだけ呆れてしまって、傍観に徹していた。
「じゃあ、百川さんはそこの席に座ってな」
「はい」
 転校生は用意されていた席に、姿勢良く座って前を向いていた。
 興味津々といった様子で周りに座るクラスメイトがこっそり話かけては、それに丁寧に対応している。
 『そんなことはありませんよ』『恐縮です』『ありがとうございます』『有り難い限りです』――断片的ではあるものの、聞こえてきた言葉遣いからしてどこかのお嬢様なのだろう、と史乃は当たりをつけた。それを知って、だからどうしたという話なのだが、この手の想像は暇潰しには丁度いい。

「はーい、皆静かにするー。質問なら後でたんまりとやってくれ。とりあえず今日の予定について話すから耳だけでもこっちに向けてくれー」
 と、担任が話し始めると、教室中を飛び交っていた興奮に満ちた声は徐々に小さくなっていった。転校生は椅子に座ってからずっと、姿勢を崩さないまま真っ直ぐ担任を見つめている。
 史乃はそれをチラリと見て、そのまま視線を前へ戻した。

 *

「ったく……話が長いんだよ、先生」

 放課後。担任への恨み言をぼやきながら、史乃は玄関に向かって歩いていた。
「やっほー。紫辺ぇ、ちょっと時間あるかぁ?」
 と、最後の授業が終わり、さあ帰ろうと意気込んでいた史乃の前に、そんなセリフと共にぬるりと何処からともなく担任が現れ、風のような速さの帰宅を阻まれたのだ。
 初めは断ろうとしたものの、話の内容が内容だったので断ることもできずずるずると話し込んでいたら、いつの間にか同級生達は皆姿を消しているような時間帯になっていた。
 帰宅部の史乃にとって、こんな時間まで学校に居るのは珍しいことだった。
(まあ、私は別に学校好きじゃないし)
 ぼんやりと、史乃は思う。
 そもそも史乃は、学校というものへ何かしらの情を持っている訳ではない。学校というシステム、通わなければいけないから通っているだけ――「小学校」の延長線上の生活。何かに打ち込んで日々を熱く生きる姿は微笑ましいが、自分もそうしたいとは思わない。
 原則、部活や委員会も希望制――というのは心底ありがたかった。それを決めた偉い人に賞を送りたいと常々思っている程に、史乃はその規則に助けられた。

(家でおやつが私を待ってるぞ)
 さあ帰ろうとっとと帰ろう、と気落ちした心を鼓舞させながら機敏に歩く。史乃の頭の中は今、憂鬱な出来事を払い除けて「今日のおやつは何だろうか」という素敵な話題でいっぱいになっていた。
「ケーキかな? アイスは昨日だったし無いかもなぁ……あとはクッキー? ワッフルとか、バウムクーヘンもいいなあ……でも中身ぎっしりのパイも捨てがたいなあ……」
 小さな声で口に出す度、脳内を飛び交う甘いおやつ候補。心がふわふわと浮足立って、やはり甘いものは圧倒的正義なのだと確信する。
 スイーツを世界で初めて発明した人は、きっと神様だ――。そんなことを思いながら、下駄箱から素早く靴を履き替え、出口へ足を向けたその時、
「あの、紫辺さん、で、合ってるかしら?」
 耳に入った甘い声に、史乃は足を止める。そしてぎこちない動きで後ろを振り返った。
 そこには、美少女が立っていた。

「百川さん……だったよね」
「はい。百川宵子です」
 さらりと髪を靡かせながら、百川宵子は微笑を浮かべた。そして自身も下駄箱から靴を取り出し、手早く履き替える。
(サマになってるなぁ……)
 と、ぼんやり思う。両手で鞄を持ちながら史乃の傍に近寄ってきた美少女は、「お話するのは初めてですね」とどこか嬉しそうに言う。
 史乃は頷いて、適当に当たり障りのない話題を、と口を開いた。
「……百川さんは、部活見学とかしないの?」
「はい。委員会にも入る予定はありません。時期が時期なもので、入ったとしても早々に辞めることになるでしょうから」
「ああ、確かに……」
 そりゃそうだ。自分達はもう三年生だった。訊くべき話題を間違えたかもしれない――と、自分の思慮の浅さを少し悔やむ。
 そんな史乃を見つめ、宵子は笑みを浮かべた。
「紫辺さん、訊く話題を間違えたかも――って思いましたか?」
「えっ」
 素で驚いた。思わず目を見開いた史乃に、やっぱりと宵子は笑みを深める。
「確証は無かったのですが、何となく、目がそう言っている気がして」
「ああー……うん、そうだね。思った。ごめん」
「何故謝られるのです? 紫辺さんに非はありませんよ」
「普通は察させないようにするもんだから」
「そういうものなのでしょうか?」
「そういう、もんだよ」
 史乃は気まずげに目を逸らす。
 彼女の声は、空気に溶け込むような滑らかさがあった。
 呼吸をする度、言葉を交わす度、じわじわと侵食されていくような感覚を覚える。むず痒い、覚えのない奇妙な感触。少しだけ不快感に似たものを覚えるが、口にだす訳にもいかない。
「……とりあえず、外出ない?」
 いつまでも玄関で屯するのもどうかと思い、史乃は外を指差す。
「あっ……やだ、私ったら、お話できたから浮足立ってしまって……!」
 失礼しましたと恥じ入る宵子に史乃は首を振り、
「いいよ。別に、ちょっとだけなら」
 と、頷いてみせた。
 大丈夫だ。……大丈夫、な筈だ。ちらりと玄関に設置されている時計で時刻を確認すると、夕方にはまだほんの少し時間があると分かる。彼女とちょっとだけ話をして、そのまま直行で家に帰る。そしておやつを食べる。
(パパに言って、夕飯の時間をちょっとだけズラしてもらおう)
 それならお腹の調子も悪くなることはないだろう。万事解決である。
 心の中で深く頷きながら、史乃は宵子に声をかけた。
「じゃあ、行こう――」

「おーい、ユカリー!」
「……うん?」

玄関に目を向ける。そこには大きく手をふって近づいてくる永束の姿があった。
「どうした?」「入り口んとこ、お前んトコの親父さん来てっぞ! 迎えに来たって」
「え、マジ?」「マジマジ。はよ行ったれ」「いや、でも――」
困った。と頭を掻く史乃に、早く早くと永束がジェスチャーをする。
「いや、今……」「おう?」「彼女とちょっと、話すことになってたから」
「はっ? 百川さんとユカリが?」「うん」「お前……珍しく人道的な行いしたから親父さん迎えに来ちゃったんじゃ――い゛っでえ゛!!」
「やかましいわ」
小さく唸りながらねめつけると、永束は何故か嬉しそうに歯を見せて笑う。そしてひょっこりと肩越しに百川を見た。
「あー、百川さん。一応自己紹介しとくな、俺は永束。話してなかったし分かんねえかもしれないけどクラスメイト」
「紫辺さんと、休み時間に楽しそうにお話されてた方ですよね?」
「そうそう。コイツ――ユカリとは長い付き合いでな。マブダチ的な? そういうカンケイなんだけど」
「まあ! 紫辺さんのマブダチさん? じゃあ、私にとってはセンパイですね」
「おっ、そういう反応しちゃう? まあいいや。悪いんだけど、ユカリ行かせてやってくんねえ? 話、聞こえてたよな?」
「永束おい」
「ええ。それは勿論。――紫辺さん、私のことはどうかお気になさらず、お父様の下へ行って差し上げてください」
「いや、でも」
「こうして会話できただけで、私にとって充分な収穫でした。明日からもまたお話する機会はあるでしょうから、どうかお父様の所へ。ね?」
 穏やかに微笑みを浮かべた宵子の言葉に、史乃は「ごめん、ありがとう」と一言断って、永束を見た。
「永束」
「おん?」
「転校生相手にがっつくなよ」
「言うに事欠いてそれなのかお前!?」
「冗談だ。教えてくれてありがと。――それじゃ」
 永束の肩に軽く手を置き、宵子を一瞥した史乃は、そのまま早足で玄関を出た。そして一度も振り返ること無く迎えが来ているであろう校門へと向かって歩いていく。
 その姿を、永束と宵子の二人はじっと見つめていた。
「じゃなー」「また明日」

「……永束くん、でしたよね」
「おう」
「まるで、王子様みたいでしたよ?」
「そらどーも。なんせ俺とアイツ、結構親密(、、、、)な間柄でね。まあ、以心伝心ってヤツ?」
 どこか冷ややかな口調で語る永束に、宵子は小さく笑う。そして、
「――怖がらなくても、とってくいやしませんよ」
 と呟いた。

++

「はいっ」
 嬉しそうに頷く宵子を連れ、そして二人は並んで玄関を出た。
 関わりたく無いと思う相手ではあるが、かといって無碍に扱うのは「人としてよくないこと」だろうと判断したからである。
 彼女からしてみれば、自分は数あるクラスメイトの中の一人に過ぎないはずだ。
(所詮、今回限りの話し相手だ)
 なら、今適当に話してやっておけば、この後どう距離を置こうが周囲からも怒られることは無いはず――そう高を括った史乃は、己の社会的地位を守るために百川宵子を受け入れた。
 ――隣を歩く彼女からは、甘い花の香りがした。

+++
 03

 ――空が青い。
 今日も今日とて窓際にある自分の席から空を見上げながら、史乃はおにぎりを食べていた。水筒からお茶を注いで、それを一気に飲み干す。
「うーん、うまい」
 けぷっと小さく息を吐くその姿は、さながら幼児のごとく――と言ったが最後、その小柄な身体の何処に潜んでいるのか分からない程強い力で締め上げられるのが目に見えているので、何も言わないのが長い付き合いのクラスメイト達による暗黙の了解だった。
 だが、それを

「史乃さん、まるで小さな子みたいでかわいい」
 宵子が史乃を見つめながら、そう言った。
 慈しむようなその表情はさながら一枚の絵画のようで、状況が状況で無ければ見惚れていたのだろう。しかし現実とは非情なもので、クラスメイト達の間を稲妻のように緊張感が駆け巡った。
 史乃は例え相手が同性だとしても容赦なく叩き潰す。そのことは長い付き合いで既に把握済みなのだ。本人は認めないが、史乃が居ることでクラス内のパワーバランスが保たれていると言っても過言ではないのである。
「……そうかい」
 一拍置いて、史乃は何とも言えない表情で相槌を打った。
「う、そだろ……」
 呆然とした様子の永束の声が、生々しく教室内に響き渡る。
「ユカリ、お前どうしたんだよ……あのパワーは? 相手が同性でも容赦なく泣かせるあのスタイルは何処行った!?」
 史乃は眉を顰め、永束を睨んだ。「人が毎回誰か泣かせてるみたいなこと言うんじゃないよ。私だって、多少理性的なこともある。もう三年生なんだから」
「嘘だよ!? お前さんそんなこと言って毎回相手叩きのめしてたじゃないのよ!」
「そういう、非生産的な行為はもうしないから」
 スッと片手を上げた史乃は、静かに首を横に振る。
「うっそだぁ……」
「いや、なんでちょっと悲しげな顔してんの」
「うそだよぉ……そんなバカな……」
 両手で顔を覆った永束が、切なげな声色で言う。史乃は少し口元を引き攣らせる。
「まさか永束、私が転校生にも問答無用で締め上げるとでも?」
「お前ならやるかなって思ったんだよぉ!」
「なんてやつだ。永束、なんてやつなんだ、お前は」
「二度も繰り返すなよ! 悲しいじゃん!!」


+++
「三者面談、やりたくねえなあ……」
 うへえと椅子の背もたれに体を預けた永束が、嫌そうに呟いた。
「避けては通れない道だろ」
「そうなんだけどさあー」
 でもやりたくねえ! 悲痛な嘆きが教室の中に響いた。
 その言葉に同調するように、永束の周りに人の輪が出来始める。ということは、永束の隣の席である史乃は、問答無用で話の中に巻き込まれることになるのだ。
「そもそも時間が足りねーんだよぉ。部活やってー、勉強してー、志望校探してー。やってられっかっての」
「……でも部活はもう引退なんでしょ?」
 何時も通りのポーカーフェイスを浮かべた史乃が問いかける。「それがいちばんつれぇのよ」と永束が深い溜息をついた。
「部活が唯一の憩いの場っつーかさあ。ぶっちゃけ、うちの学校部活とかゆるゆるじゃん? 大会目指すガチ勢と息抜きに運動しに来る俺らみたいなのでごっちゃになってて」
「それ、この前いとこに言ったらびっくりされたわ。なんか、他所の学校じゃ部活に絶対入んなきゃならないらしいぜ」
 友人からの情報に、永束がギョッと目を剥く。
「そんなんぜってー嫌だな!? まあ、そんな感じでゆるーくやってるとさ、心にゆとりがな? 生まれるわけよ」
「ふうん」
 そういうものなのだろうか。部活にも委員会にも入ったことのない史乃にはわからない感覚だ。そう思いながらも、適度に相槌を打って話を促す。

「だからさあ、三年生になって、引退引退って迫られてさー、あー、俺って部活に結構救われてたんだな、って思ったわけ」
「成程、それで?」
「引退するだろ? 面談だろ? 勉強漬けだろ? あ゛あっ!! って感じなんだわ」
「ナーバスになってるってこと?」
「そう、それだ!」
 史乃の指摘に、永束は大きく頷いた。
 ゆるゆるな会話から辿り着いた答えに、会話を聞いていた同級生たちは「なるほどなあ」と理解したような素振りを見せる。それは部活に入らず委員会にのみ入ってる同級生にも当てはまるところがあったようで、「気持ちはわからんでもない」と、穏やかな笑みを浮かべていた。
 部活であれ委員会であれ、基本的に規制が緩く、いつものんびりとしている場所で過ごした時間は、当人達にとって何かしら救いであったり、休まる場所であったのだろう。

(そういうものなのかねえ)
 その感覚は、それを選んだ人にしか分からない。どちらも経験のない史乃にはただ推測することしか出来ないものだ。
「ユカリはどっちも入ってなかったよな?」
「そうだよ。興味無かったし、家に居る方が私には合ってたから」
 確かに分からないけれど、史乃はそれを分かりたいと思ったことはない。
 家に帰って、大抵家に居る父とおやつを食べながらのんびり過ごして、時々父の友人が来て。可愛がってもらって、帰り際にお小遣いをたまに貰う。学校で過ごす時間より、そんな当たり前の日々を史乃は好いている。

「まあ、そこは人それぞれだよな」
「っつーか、俺は親が来るのが嫌……」
「勘弁してほしい……ほんと勘弁してくれぇ……塾は嫌だぁ……」
「つか俺らの大半はどうせ朔日高校じゃんかよ……」
「でも何人か望月市の方の高校行くって聞いたけど」
「マジで!? うちの学年、そんな頭いいやついたの……?」
「そりゃ居るだろうが」
 愚痴と雑談が混じり合って、教室内は進路や家族の話が飛び交い始めた。お互いに腹に抱えていることをこれ幸いとぶちまけ始めているのも一定数居て、そんな同級生たちを眺めながら、史乃は目元を手の甲で軽く擦った。
(ねむい……)
 ふああ、ともれ出したあくびが、更に史乃の眠気を助長させていく。幸い、次の時間は自習になっているので、ちょっと眠っても怒られることはないだろう。
 本格的に眠りへ移行し始めた身体に、何か枕代わりを――と、もぞもぞ動いていると、「そういえば」とここ数ヶ月ですっかり教室内に馴染んた澄んだ声が響いた。

「紫辺さんのお父様は、どんな方なんですか?」
「んえ?」
 半目の状態になりながら、史乃は声にならない声で反応する。
 途端、あれほどざわついていた教室の中が、しぃんと静まり返った。
 隣の席に座る永束が少しだけ驚いた表情で宵子を見て、それから史乃に顔を近づけた。
「教えたのか?」
「いろいろあって」
 頷いた史乃に、「了解」と永束が小声で呟く。
 永束という男は、結構配慮の出来る男だ。
 詰まった空気を換えるかのように、永束は朗らかな声色で答えた。
「そうだなあ、ユカリんとこの親父さんはアレだな」
「アレってなによ」
「なんつーか、すっげえ綺麗な人だよ。……ぶっちゃけ、うちのとーちゃんよりカッコいいしかーちゃんより綺麗だ!! マジやべえあの美貌。比べ物にならねえレベルだぜ」
「……おいおい、ご両親にシバかれるぞお前」

 そんな笑い混じりの同級生のツッコミで、静まり返っていた教室に音が戻る。
「だよな!? オフレコで頼むわ」
 冷や汗を流しながら言う永束に、史乃は少し唇を尖らせる。
「普通じゃない?」
「いや、普通じゃない普通じゃない。まあ確かに口を開いたら普通の人って感じだけども」
「口を開いたら?」
 きょとんとした顔の宵子に、クラスメイト達は史乃を横目で見つつ、なんとも言えない微妙な笑みを浮かべた。
「端的に言うと、すっげー娘溺愛してんだよ。ユカリのとーちゃん」
「黙ってればただの美形なんだけどね。口開いたらただの親バカパパさんって感じ」
「見た目もめっちゃ若いよ。ユカリと並んでても兄妹に見えるくらいには」
「あとね、口元のさり気ない薄いホクロがベリーグッド! あの色気はそんじゃそこらの俳優じゃ出せないね」
「そしてとても一児の父親とは思えない圧倒的オーラ!」
「文芸部は落ち着いてほしい」口々に伝えられる情報を聞き流しながら、若干興奮し始めた一部のクラスメイトを苦笑を浮かべながら窘める。興味深げに聞いていた宵子は成程と頷いて、
「紫辺さんのお父様は凄い方なんですね」
 と微笑んだ。

「いや、普通の人だと思う……たぶん……おそらく……きっと……」
「言葉に力が無くなってきてんぞ」
「皆がそんなふうに言うからちょっと自信が無くなってきた……」
 周囲からの指摘に、内心思うところがあるのかなんとも言えない表情をしている史乃の背を、「まあまあ!」と永束が力強く叩く。
「ンなの気にすんなって! いいじゃんイケメンなとーちゃん! 自慢できんじゃん?」
「いや自慢したいわけじゃないし、ってか痛い!」
「いでッ!?」
 史乃は若干キレつつ、永束の頭に躊躇なく手刀を落とした。叩かれた痛みで眠気も冷めてしまったので、その腹いせも含めてだ。

++++

 ――薄暗い室内に、二つの影が揺らめいていた。
 一つは椅子に座っているようで、もう一つは、その影に寄り添うように佇んでいる。
「やあ、お待たせして申し訳ない」
 静まり返った空気を解くかのような、涼やかな声が室内に響いた。
「遅いぞ、「便利屋」」
「ですから謝ってるではありませんか。少し道が渋滞しておりまして」
「貴様ッ……!」
 飄々とした態度の男に激昂しかけた側近の男に、「止せ」とそれまで黙っていた男が口を開いた。
「ですが……!」
「止せと言っているだろう。すまない、私の部下が世話をかけた」
「いいえ。お気になさらず。非は此方にありますので」
「……さっさと本題に移ろう。佐藤」
「はっ」側に立っていた男が、「便利屋」に茶封筒を手渡した。

「中を見ろ、「便利屋」それが今回の貴様の標的(ターゲット)だ」
「……これは」
 資料に目を通した男は、皮肉げな笑みを浮かべる。
「あの(・・)百川の当主がどんなものかと思えば――標的が己の子とは」
「お前への依頼は唯一つ。――その娘を始末することだ」
「随分と酷なことをなさる。そもそもは貴方が誰彼構わず種を蒔いた結果でしょうに」
「口が過ぎるぞ「便利屋」! 貴様には既に相応の対価を払ってある。文句を言わず黙って遂行すればいいのだ!」
「確かに報酬は頂いているが、それは貴方ではなく此方の御当主にだ。貴方にどうこう指図される謂れは何処にも無いね」
「――ッ」
 悔しげに顔を歪めて睨み付けてくる男を、便利屋は「怖い怖い」と軽く肩を竦める。

「もう一度訊くぞ、百川の当主。我が子を殺す理由は何だ」
「……ただ無知であれば政略結婚にでも使えたものを。あの娘は出来が良すぎた(・・・・・・・・)。あれでは人形にも仕立てることもできん」
「何だ。自分の愚かさを見抜かれるのを恐れているだけか」
「道具にもならないモノに長く維持費をかけるなど愚の骨頂。此処で始末してしまえば、百川の家を脅かすものは何もなくなる」
「そうかな? 彼女が消えたら砂上の楼閣が崩れ落ちる可能性もあるだろう?」
「――百川には、正式な跡取りが居る。スペアは不要だ」
「……ハッ」

*

「困ったなあ」
 つい先程まで「便利屋」と呼ばれていた青年は、溜息混じりに頭を掻いた。
 依頼内容を聞くと決めた時点で自身の指定している仕事用の口座に異常なほどの金額が「前払い分(・・・・)」として振り込まれていた時点で懸念してはいたものの、想定より仕事内容がえげつなかった。
 あの前払い金は「口止め料」も含まれているのだろう――と容易に想像できてしまう。

「しかしまあ、哀れな娘だ」
 書類を取り出し、改めてそれを眺める。
 数百年続く名家の今代当主の実子と言えば聞こえは良いが、実際は当主が手当たり次第に種を蒔いた結果生まれた子供。産みの親が死に、頼る親類も無く途方に暮れていた所をそのまま引き取られた――つまりは妾の子だ。
 しかも当主には本妻である妻と跡取りである息子が居るのだが――幸い、その二人は当主と違いまっとうな感覚を持っていたのと、連れて来られた娘が聡明で必要以上に接触を望むことも無かったので、憐憫に近い情を持たれているらしく、よく聞く虐待などは一切無く育ったようだった。
 写真に写る件の少女はまるで人形のように見目麗しく、一瞬人間なのか疑いかけた程に整った顔立ちをしていた。
 しかも年齢が十五歳、まだ親の庇護下に居るべき子供である。

(十五歳、か――)
 男の脳裏に過るのは、世界でたった一人しか居ない大切な子の姿だ。
 長く生きてきて、たった一つ両掌からこぼれ落ちること無く留まってくれた、唯一の存在だ。その存在と、少女の年齢が同じというのが、妙に縁のようなものを感じて気分が悪い。
 まさかあの子の事を知っていて依頼したんじゃ無いだろうな――と思いかけて、それは無いかと疑念を振り払う。
 仕事をする際、個人情報は厳重に管理しているし、家族構成を教えた事など一度もない。
 「便利屋」と言ってしまえばなんだか平凡な聞こえだが、その実引き受ける仕事内容はほぼ全てがグレーゾーンからほぼアウトのブラックなものばかりだ。大切に守っているあの子には口が裂けても言えない仕事内容がほぼである。
 まして今回のような仕事内容――対象の暗殺など、特にだ。

「はい、もしもし?」
《もしもし、私だけど、パパ?》
「どうかしたの?」
《ううん、どうもしてないんだけど……》
 ごにょごにょと端末越しでは聞き取れない程度の音量で何か呟いた後、声の主は「便利屋」に言った。
《そっちの方で、車の事故が起きたらしくて。パパも今日望月市行くって言ってたから、何か巻き込まれてないかと思って。まあその、確認を》
「ふふっ、心配してくれたんだ」
《べっつに。違うし。夕ごはんの確認だし。――仕事は終わったの?》
「うん。打ち合わせは終わったからすぐに帰るね。帰ったらご飯の用意するから、楽しみにしていて」
《……気をつけて帰ってきてね》
「もちろん。いい子でお留守番しているんだよ、史乃」
 その言葉に肯定の返事が帰ってくるのを聞き取ると、「じゃあ後で」と通話を切って端末を胸ポケットに仕舞った。
 少しだけ気落ちしていた気分が、今は天にも昇るようにふわふわとしている。

 ――気持ちを切り替えなければ。
 そう自分に言い聞かせて、深く深呼吸をする。静かに閉じた目蓋を開けば、そこに居るのはただの一人の男だ。裏社会で暗躍する「便利屋」ではない、世界でたった一人の家族を愛する、一人の父親。

「待っててね史乃、パパ、今から帰るから……!」
 青年――紫辺伊織はそう呟いた後、素早く車に乗り込み、その場を後にするのだった。

++++

「ただいまー」
 玄関のドアを開けて、史乃は帰宅のあいさつをしながら中に入った。
「おかえり、史乃」
 ひょっこりとリビングから顔を覗かせた父親が史乃に微笑みかけながら、「着替えておいで」と優しく促した。それに頷いて返し、いそいそと靴を脱いで家に上がる。
「よっこらせ」
 鞄を廊下の隅に置いてから脱衣所の扉を開けると、史乃は入り口付近に立ったまま、慣れた様子で着ていた制服を脱ぎ出した。
「今日もお疲れ様。暑かったでしょ」
「じっとりしてなんか嫌な日だったー」
 父親の言葉に、史乃はげんなりとした表情を浮かべながら言った。
 まだ春先なのに今日はまるで梅雨のようなやけにじっとりとした天気で、体育も無いのにじわじわと汗をかいてしまった。汗の不快感が強くて、制服の下に着ていたシャツやパンツまで脱ぎ、全裸となった史乃は、脱いだ服をまとめて洗濯カゴに勢いよく放り込んだ。
「仕事は?」
「今日は終わったよ。夜は孤堂が来るから三人で食べようね」
「孤堂のおじさんが? 珍しいね」
 軽く身体を拭いて、父親が用意しておいてくれた下着と衣服を身に着ける。会話の中で珍しい人物の名前が上がったことに、史乃は思わず驚きの声を上げた。

 史乃が着替えを済ませリビングに行くと、イーッと嫌そうな顔をした父親が野菜を細かくみじん切りにしながら「信じられないよね」と史乃に言った。
「アイツ、ついさっき突然電話してきたんだよ? 確定事項みたいにさ。あり得なくない? 普通アポ取るなら一週間前でしょ! 常識的に!」
「大方、『伊織の飯が食いたくなった』ってとこでしょ」
 その言葉に、父親・伊織はくるりと史乃の方を向き「大正解」と頷いた。
「しかもわざわざハンバーグが食べたいとか言いやがって! ああムカつく!」
「でも用意してあげるんだね」
「用意しなかったら僕のご飯が奪われちゃうからね……アイツは食に関して猛獣なんだ、よく知ってるだろう?」
 件の人物を思い出しているのか、伊織は忌々しげに虚空を睨みながら呟き、深い溜息を吐き出した。
「でも」
「でも?」
 ふ、と目元を緩ませて、最愛の娘を優しい眼差しで見つめる。
「うちの史乃の可愛さをアイツはちゃんと理解してるからね。そこだけは評価してやらないと」
「……そういうの、親ばかっていうんだよ」
「そりゃあ、僕は親だからね。可愛い我が娘の為なら、いくらだって馬鹿になってみせますとも」
 史乃の呆れ混じりの言葉に、伊織は朗らかな笑い声を上げた。そんな父親の姿にやれやれと肩をすくめて、史乃は「何か手伝おうか?」と問い掛ける。
「本当? 助かるなあ」
 満面の笑みを浮かべた伊織は、しなやかな指先でリビングに置かれたテーブルを指し示した。
「今日のおやつ、そこに作ってあるから食べてね」
「……そういうこと訊いたんじゃないんだけど」
「おや、そうなの?」
 にんまりと笑った父親は、明らかに史乃の言葉の意味を分かっていてやっている。
(パパめ……)
 父親の悪気のない意地悪は、心をチクチクと刺してきてどうも好きになれない。正直、イライラしてしまうのが本音だった。
 それが父なりの愛情を込めたコミュニケーションの一つだと分かってはいるものの、日に日に過敏になっていく史乃の心が、それを受け入れる寛容さを失っていっているのだからままならないものである。
 だが、こんな些細なことで怒って喧嘩なんてばかばかしい。
 史乃は深呼吸をしながら沸々と心の中に沸き上がってきていた苛立ちを静め、そして出来る限り穏やかな声色で、父親に問いかけた。
「今日のおやつはなに?」
「パパお手製のふわふわパンケーキだよ!」
 笑顔の伊織が答える。
 史乃は「ほほーう」と目の前に鎮座するおやつを見つめ、ニヤリと笑みを浮かべた。
 父の作るお手製パンケーキは、テレビでよく見る並ばないと食べられないお店のメニューを彷彿とさせる、分厚いパンケーキだ。フォークの先で軽く突くとふるふると震え、予め掛けられているメイプルシロップと、パンケーキの熱でとろりと溶け出したバターの香りが混ざり、甘い香りが食欲をそそる。
 ぎゅるぎゅると自然と腹部から切なげな音が鳴り、口の中では洪水のように唾液が分泌され始めていた。
 これはもう、一刻も早く食べなければ。固く決意をして、史乃は席に着く。
「いただきます」
「はい、召し上がれー」
 両手を合わせ食事の挨拶を済ませると、史乃は分厚いパンケーキに豪快に齧り付いた。
 外食の時は兎も角、家でおやつを食べるのに一々ナイフやフォークを使ってお上品に食べるのは性に合わない。「そういうところ、ママに似ててパパは好きだよ」と、しれっと惚気けられながらも怒られたことは一度も無いので、今日も史乃は頬袋にパンケーキを詰め込んで、口いっぱいに大きく咀嚼する。さながら、頬袋にひまわりの種を詰め込むハムスターのように。
「おいひいよ」史乃はもきゅもきゅと噛み締めながらパンケーキを味わう。「それは良かった」と、伊織は嬉しそうに言った。

「ふえ、ふぁふぁ」
「飲み込んでから言いなさいね」
 流石に口に食べ物を入れたままの発言は駄目だったらしい。
 優しく叱られて、史乃はコクコクと頷いて返した。何とかパンケーキを飲み込んで、横に添えられていた牛乳でそれを後押ししてしまう。
「ねえ、パパ」
 史乃は真剣な目で伊織を見つめた。
「パパに会わせたい人が居るんだけど、明日、連れてきていいかな」
 伊織は目を細め、最愛の娘を見る。一寸の濁りも無い、真剣な眼差しだ。
 もしかして、と口元に手を添える。
「……彼氏?」
「んなわけねーだろ」
 一刀両断であった。
 どうやら伊織の脳裏を電光のように過った最悪の事態にはならずに済むらしい。「相手は女の子だよ」呆れた様子で続けられた言葉に胸を撫で下ろし、「それなら構わないよ」と親指を立てて笑顔で頷いた。
(史乃はまだ子供だし、彼氏なんてある訳無いのに)
 伊織は脳裏を過った自分の浅はかな考えを悔やんだ。
 今度、なにか埋め合わせをしてあげなきゃなあ、そんなことを考えていた伊織に、「それで」と少し戸惑いがちな表情で史乃は続けた。
「私じゃなくて、パパに用があるんだって。その子、百川宵子って言うんだけど――」
「……えっ?」
 その言葉で、伊織の心は一気に凍りついた。


  2  


「……パパ、大丈夫? 無理なら無理だって言うよ?」
「大丈夫だよ、ごめんね史乃。心配させちゃって」
「いや、それは構わないんだけど」
 何か言いたげな表情を浮かべる娘に、伊織は「本当に大丈夫だから」と笑みを浮かべる。そして小さな頭を撫でて、ありがとうと言った。
「パパが気にしないっていうなら、私ももう何も言わないよ。安心して」
「ありがとう、史乃。流石パパの世界一可愛いプリティフェイスの妖精みたいな天使のような――むぐ」
「パパ、長い」小さな手で口元を抑えた、呆れ顔の娘に諭される。
 手で塞がれて声が出せないので満面の笑みを浮かべて見せると、史乃は仕方ないなあと言わんばかりの苦笑いを浮かべた。そんな折である。
 ――ピンポーン、とチャイムが鳴った。
「もしかして、おじさんかな?」
「かもしれないね。出てあげてくれる?」
「はいよー」
 パタパタと小走りで玄関に向かった娘を見送り、伊織はコーヒーを淹れる準備を始めた。 娘はコーヒーの風味が苦手らしく紅茶やほうじ茶といったものを好む根っからのお茶党だが、件の友人ーー孤堂は、見事なまでのコーヒー党だった。あれはもう、カフェイン中毒と言っても過言ではないだろう。
 顔を合わせる度伊織のペースを乱してく忌々しい男ではあるが、いつも訪問する時はやけにタイミング良く訪れる。そういう所は、率直に好ましい。正直助かった。
 だが、それは口が裂けても言えない。何せ奴は、自分の天敵と呼ぶべき男なのだから。


「はーい、どちら様ですか?」
 史乃はチェーンを外さないまま玄関の鍵を開け、そっと顔を覗かせた。
「よ、元気してたか史乃」
「やっぱり孤堂のおじさんだ!」
 急いでチェーンを外し、完全に玄関を開けきると、白スーツを着た長身の青年――孤堂が、爽やかな笑顔を浮かべながら入ってきた。パッと表情を明るくして近寄る史乃の頭を掻き混ぜるように撫でて、「久しぶりだなぁ」としみじみ呟く。
「まあた大きくなったなあ、おい! 子供の成長期は侮れねえなあ」
「あっ、わかる? 最近、毎日授業の中休みにはお腹空くんだよね。だからパパがおにぎり作ってくれるんだよ」
「弁当以外にも食ってんのか?」
「食べないと保たないんだよね、体育会系でもないのに」
 自身の腹部を撫でながら、「燃費悪すぎだよね」と史乃が笑う。
 孤堂はそうかそうかと頷きながら、「まあいいじゃねえか」と明るく笑った。

「食べれる時に食べときゃいいんだよ、成長期ってのはそういうもんだ!」
「だよねー!」
 孤堂は史乃にとって生まれた時から知っているおじさんだ。
 おじさん、と言っても外見的にまだ「お兄さん」の部類なのだが、どうやら父親である伊織と同年代らしいので、それはつまり、おじさんということなのだろう。なので史乃は彼をおじさんと呼んでいた。
 孤堂も孤堂で、呼ばれ方に特に執着などは無いらしく、史乃のおじさん呼びにも快活に笑って受け入れている。そして嵐のように現れては、伊織をからかって帰っていくのだ。そんな嵐のような人の到来を、史乃は心の中でいつも少しだけわくわくしながら待ちわびている。
 普段から気怠げな史乃が、年相応に――それよりも幼くはしゃいで、感情のままに飛びつける相手。普段から人付き合いには消極的だが、昔から知る父親の友人と遊ぶのは史乃の数少ない楽しみだった。

 *

 次の日、前日の言葉通り、史乃は件の少女を連れて家に帰ってきた。
「百川宵子と申します」
 深々と頭を下げる少女を、伊織は静かに見つめ、淡々とした声色で告げる。
「そこのソファに座るといい。内容は知らないが、君は一度落ち着いた方が良さそうだ」
「……ねえ、パパ」
 不安そうな表情で、史乃が伊織の服の裾を掴んだ。普段と雰囲気が違う父親の姿に戸惑いを隠せない様子の娘に、伊織はいつものように笑みを浮かべてみせる。
「大丈夫だよ。此処からはパパのお仕事のお話だから、史乃は自分のお部屋で待っていてくれるかな?」
「……でも」
 ちらりと史乃は宵子を見た。俯きがちに、また意識を何処かへ投げやったような瞳をしている。それが少なからず、史乃が宵子を気にする要因になっていた。
「史乃。パパを信じて。大丈夫、史乃が連れてきてくれた子だもん、酷いことはしないよ」
「本当? 約束してくれる?」
「ああ、勿論」
 笑みを浮かべて、伊織は史乃の額に優しくキスをする。「……わかった」少しだけ強張っていた史乃の身体が緩んだ。
 額にするキスは、紫辺親子の昔からの習慣のようなものだ。それは、娘に少なくとも父親の言葉を信頼する覚悟をつけさせたらしい。史乃は最後まで躊躇う様子を見せながらも、リビングを出て行った。
 その姿を見送って、自分と同じように史乃を見つめていた少女に視線を移す。

「――それじゃあ、改めて依頼について話をしようか」
「はい」
 少女が頷く。伊織を見る目は、一筋の希望に縋るような色を見せている。
 これは、と伊織は内心呟く。
(ああ、厄介なことになったかもしれないな……)
 しかし、伊織がどう思おうと、昨日娘が目の前の少女を連れてくるのを許してしまった時点で『逃げる』という選択肢は存在しない。
 賽は投げられてしまったのだ――彼に残された選択肢は、向き合うことだけだった。

++++

「史乃」
 真剣な声色で伊織は娘に話しかける。
「……なに? パパ」
 滅多にない真剣な父の声に、史乃は表情に困惑を滲ませた。
「いいかい。無理だと、気分が悪いと思ったら、すぐパパに言って。いや、服を掴むだけでもいい。無理して喋らなくていい。だから、いいね? 約束しておくれ史乃、パパをちゃんと、頼るって――」
「わかった」
 史乃は食い気味に頷いた。
 父の声が、明らかにこれから知ることが「普通ではない」のだと物語っていた。覚悟を決めろと、言外に言われた気がする。恐らく父は「やっぱり知りたくない」と、いつもの史乃の言葉を期待したのだろうが、今回ばかりはそうもいかない。
 異例なことだと自分でも理解している。普段の自分なら絶対に関わらないようなことだからだ。いつものように父に全て投げて、何も知らないまま平穏な日々を過ごせたらどれだけ良かったか――今もそう思わずにはいられない。
 けれど、ここまで来たらもう引き返せない。

「知りたい。……知らなきゃいけない、と思った」
 元はといえば『一度限りだ』と思っていた関係をズルズルと引きずり、いつの間にかその関係性に甘んじた自分の責任なのだ。今回ばかりは自分で尻拭いをしなければならないだろう、というのが史乃が出した結論だった。
 そもそも、隣に世界で一番頼りになる人が居てくれるというのに、何を足を竦ませる必要があるのか。史乃は父親に、精一杯の笑顔を作って見せた。
「大丈夫。パパが居てくれるんだから、私、何も怖くないよ」
 滅多に無い娘の力強い言葉が、伊織の心を奮い立たせた。
 青年の姿をした父親は、ニッと可愛い娘に笑い返して、
「絶対にパパが守るから、大丈夫だよ」
 そう力強く宣言する。
 頷いた娘を見やり、伊織は視線を目の前の術式へと向けた。
《――位置》《――遡航》《――確定》
 木の幹に刻まれたその術式に手を翳し、伊織は聞き取れない程の小さな声で《呪文》を組み立てていく。ボウ――と薄っすらと発光し始めたそれから視線を外さず、伊織は娘へ「これから目を離さないように」と注意事項を告げる。
「パパ、魔法使いだったの?」
 心の底から驚いたような声で問いかける娘に答えてやれないのが心底残念だ。いつもなら、思いっきり抱きしめて頬ずりしながら娘を愛でているところである。
《――作成》《――百世廻り》《――“ ”見聞》
「《確定 渡航開始》」

 その言葉と共に、紫辺父娘は光に飲み込まれた。

++++

 紫辺史乃(ゆかりべしの)は、昔からどこかズレた女の子だった。

「……ねえ」
「なんだよ」
「なんでみんな、いつも私のことばっか責めるのかなぁ」
 いつもぼんやりとした表情で、話を聞いてるのか聞いてないのか分からない、そんな雰囲気を持ったオンナノコ。
 それが俺の友人、紫辺史乃――ユカリだった。
 ユカリは一見大人しいけど、中身は割と頑固なところがある。「悪いこと」を「悪い」とはっきり言える、強いやつだ。でも、その時のユカリは口調がキツいから、ムキになった相手と喧嘩になることも多い。
 そしてその度勝って、何も知らない大人達は悪くないユカリを叱った。皆がユカリは悪くないと言っても、結局は泣かせたのだから、と大人達はユカリを叱った。
 ユカリは悪いことをしたことはなかった。
 そりゃあ、遠慮ない言葉はたまに心に刺さることもあったけど、でもユカリが言ってることはいつだって正解だった。言われて当たり前のことを面と向かって言われて、自分の間違いを否定したくなくてキレるやつが大半なのだ。
 殴り合いの喧嘩だって、彼女は平然と受けて立つ。
 体格差のある相手にだって、怖がる素振りも見せずに彼女は立ち向かう。そして勝ってしまう。ユカリは人より小さいし、相手もやっぱり躊躇してしまう所を逆手に取って、男でも女でも遠慮無く叩き潰す。殴られて顔が腫れたって、涙を流すことなんて一度もない。
 とても強くて、かっこいい。
 ――ユカリは、小さな頃から俺の憧れだった。

 そんな彼女が、一度だけ俺に弱音を吐いたことがあった。
 小学校中学年くらいのことだ。その日も喧嘩を売ってきたクラスメイトと口論になって、相手をけちょんけちょんに負かせた後のことだった。その日も先生はユカリを叱って、悔しくて泣いているクラスメイトを宥めていた。
 その姿を見るユカリの目は、いつもと違っていた。
 そして彼女は俺と二人きりになった時、そう言った。

「――なんだよ、いきなり」
「いきなりじゃない。別に、ずっと思ってたことだよ。昔から、ずーっと考えてた。でも、もう自分じゃどれだけ考えても分かんなくなって。だから永束に訊いてみようと思った」
 俺は、少し答えに迷った。どう答えるのが一番いいかわからなかった。
 でもユカリの俺を見る目はいつになくぼんやりしていて――だから、言った。
「お前、いっつもいっつも売られた喧嘩受けて立って相手泣かすけどさ、もうちょっとこう、受け流したっていいんじゃねーの? 皆ビビってんだよ、ユカリのこと。言葉キツいし、ずけずけ言うじゃん。俺や山田は平気だけどさぁ、もっとなんか、こう――」
「ふうん」
 なるほどね。
 そう呟いたユカリは、それから一度も喧嘩をしなくなった。

 二



++++
閑話

「伊織」
「何だよ、改まった様子で名前を呼んで」
 気味が悪い、と伊織は顔を顰めた。
 時刻は午前一時を過ぎ、リビングには伊織と孤堂が向かい合わせに座っている。愛娘である史乃は随分前に床に就いていて、今頃は布団の中で夢でも見ていることだろう。

「お前、いつまで史乃に黙っておくつもりなんだ」
「……そんなことを言いに来たのか、お前」
「いいや。史乃の話を聞くまではフツーに飯食いに来ただけだったけど、話を聞いたら黙っておけなくなった。……あの(・・)史乃が家に連れてくるって決めた時点で、それも『依頼』絡みと来たら、そりゃあ黙っておけねえだろ。――“転換期”が来てんだと思うぞ、俺は。お前だって、分かってねえわけじゃねえだろ」
「うるさい。史乃は優しいから、頼み込まれて断れなかっただけだよ」
「お前、親馬鹿なのは良いが、自分の都合のいいように娘を解釈するな。……史乃が(・・・)連れてきたんだぞ。「普通の人間」としてはちょっぴり欠落した部分のあるあの子が連れてきたんだ」
「史乃は欠落してなんかない。いつだってベリーキュートでたまにクールなのがいいスパイスになってる俺の可愛い可愛い天使だ」
「ノンブレスで言うな、ノンブレスで。あと話を逸らそうとすんな。分かってるだろ、史乃はもう十五歳なんだぞ」
「まだ(・・)十五歳の間違いだね」
「頑固者が。後悔しても知らねえぞ」
「誰がするか」
 残っていた酒を一気に煽り、伊織はテーブルの上に荒くグラスを置いた。

「いつまでも黙ってられる訳じゃないだろ」
 いつまで黙っておく気なんだ、と孤堂は伊織を見る。
「……まだ、その時じゃない」
「じゃあいつ「その時」が来る?」
「もう少し……あの子が、大人になったら」
「お前の言う「大人」が俺の想像と当て嵌まるなら、史乃が大人になるのは何十年も先になりそうだな」
 孤堂が冷たく言い捨てた。その言葉に、伊織は苦虫を噛み潰したかのように顔を歪める。
「……それでも、まだ……」
 酒がほぼ無くなってしまったグラスを見つめ、最愛の娘を想う。
 目に入れても痛くない、愛しい我が子。世界で一人だけの最愛の妻(ひと)が遺してくれた、世界で一人だけの可愛い娘――
「まだ、言うつもりはない」
 伊織ははっきりとした口調で言った。
「そうかよ」
 じゃあ好きにしろ、そう言って孤堂はグラスに残った酒を一気に煽る。
「悪いな、孤堂」
「うるせえ、しおらしいお前なんて、明日は槍が降っちまいそうだ」
「失礼なやつだな、あいかわらず」
「お前に言われたかねえよ。カマトトぶりやがって。このぶりっこが」
「それ史乃の前で言ったらはっ倒すぞ」
「」
「チッ」
 舌打ちした伊織に、孤堂は喉を鳴らした。

++++

「ねえ、史乃さん」
 知りたくありませんか? と百川宵子は蠱惑的な笑みを浮かべる。
「何を――」
 言っているのだと言えたらどれだけ良かったか。史乃は唇を噛み締める。彼女の言葉を否定するには、心の中に思い当たることがありすぎた。
 紫辺伊織を、世界でたった一人の父親を、史乃は心から信用している。信頼している。だからこそ疑うことなどできなかった。しなかった。一度疑ってしまったらもう駄目になってしまうだろうと本能が告げていた。
 だから史乃は目を背けた。
 この先自分がいくら周囲とズレを生じさせても、それで構わないと思ったからだ。
 これで失うというのなら、周囲の人間は史乃にとってその程度の存在(、、、、、、、)だったんだと、そう思おうと決めた。
 だけど、それでも。

 ――彼女は、何を知っている?
 目を背け続けても、知りたいと思う気持ちが無くなったわけではなかった。
 痛い所を突かれてしまったと思いながら、史乃は目の前の宵子を睨む。
 元々、掴みどころのない女だとは思っていた。姿形は人形のようで、浮かべる笑みすらどこか造り物めいたその少女を警戒して、関わり合いになりたくないと心底思っていたのは嘘偽りのない史乃の本音だった。
 けれど、するりと音もなく引いた線を飛び越えて近づいてきた彼女から伸ばされた手をはたき落とそうと思った時にはもう遅くて。そのままずるずると関係を続けてしまったのは、

「……目的はなに」
「そんなに怖い顔をなさらないで? 可愛いお顔が台無しですよ」
「御託はいい」
 史乃は宵子と向かい合った。
「私に近づいて何をさせるつもりだったの、君は」
「あら、うふふ。……気付いていたんですね、やっぱり(・・・・)」
 冷たい声色であしらう史乃に、宵子が嬉しそうに笑む。
「悪い女だよ、きみは」
 揺らぎそうになる心を律し、史乃は言葉を吐き捨てる。

 ――気付いていた。気付いていたんだ、ほんとうは。
 最初から分かっていた。うまく言葉にできなくとも本能的に悟っていた。百川宵子(かのじょ)は、自分を利用しようとしているだけだと。「友達」になりたいなんてただの建前で、紫辺史乃(わたし)を利用して何かをしようとしているんだと。
 ――……それでも、でも、そうだとしても。
「悲しいですか? 史乃さん」
「そんなわけあるか。そもそも、私達は「友達」なんかじゃない。――ただのクラスメイトだったろ。初めから、今だって」
 付き合いの長い二人も気づいてくれなかった心の弱いところを見抜かれ、表面的な冷静さを保つことが精一杯で。
 ――初めて、この子となら友達になれるかもしれないって、思えたから。

「そうですか……」
 宵子は胸元に手を当てながら、切なげに呟いた。
 その仕草すら全て造り物なのだろう。史乃は目の前に立つ、温度の読めない瞳の少女を見た。少女の言葉の持つ温度とは裏腹に、その表情はどこか悲しげに見えて――喜びを隠しきれていない。
「ああ、そうだよ。友達なんかじゃない。私は怠惰な人間だから、しつこくつきまとってくる君に引き摺られただけ」
 喉元が熱くなるのを感じながら淡々と言葉を紡ぐ。
 これは正真正銘、心からの言葉だ。初めからそうだったじゃないか。何で忘れていたんだ――そう言わんばかりに、言葉を紡ぐ度、熱を帯びていた史乃の声色から温度が消えていく。
 きっと、心が風邪を引いていたのだろう。
 百川宵子(かのじょ)のせいでここ最近ずっとざわついていた心が、本来の穏やかな静寂へと還っていく。
 これが本来の紫辺史乃だ。
 今までの自分(わたし)は、ただ熱に浮かされていただけだ。
「……やっぱり史乃さんは、優しいひとね」
 宵子は史乃に微笑みかける。
 彼女を睨む史乃の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

++++

「ずっと――ずっとずっとずっとずっと、この時を待っていたの!」
 一陣の風が、史乃と宵子の間を吹き抜ける。
 強い風と共に膨れ上がった宵子の髪は、まるで深い夜の淵のようで――。

 ――これはまずい。
 史乃の背に悪寒が走る。直視してはいけないと、そう本能が訴える。だが目を逸らすことができない。まるで無理矢理視線を合わせられてる(、、、、、、、、、、、、、、)かのような感覚。動かしたくても動かせない。目を逸らすなんて許さない――そう彼女が言外に叫んでいるような気すらする。
「も、も、かわ、さ……」
 口から出た声はひどくカラカラで、体の中の全ての水分が抜け落ちてしまったかのような感覚だった。心臓が痛くて、頭の後ろで何かが鳴り響いている。叫べるのなら叫びたかった。今史乃の胸の中で巣食っている得体の知れない感情を、その叫びが打ち消してくれるだろうから。
 でも、それはできない。――させてもらえない。
「ふふ……うふふ」
 覚束ない足取りで宵子が近づいてくる。
 一歩、また一歩と彼女が近づいてくるのを感じる度、身体に異常が起きる。心臓がはち切れそうになって、身体は金縛りにあったかのように固まり、視線は彼女へ釘付けになったまま。瞬き一つちゃんとできているのかどうか、もう自分では分からなかった。
「大丈夫ですよ、一瞬で終わりますから。ええ、ええ、もちろんです! 一瞬、一瞬です、瞬きひとつで全て終わるのです。史乃さん、紫辺史乃さん、嗚呼、私の救世主(メシア)! いいえ、女神さまかしら? あなたに心から感謝を申し上げます。ありがとう史乃さん。あなたのお陰で、私は、わたしは、やっと救われる! もうこんな悪い《夢》を見続けなくて済むの! 史乃さん、史乃さん、ああ、史乃さん!」
 恍惚に染まる瞳が凍りついた史乃を映し、白魚のような手が頬をゆっくりと撫でる。
「――!」
 ぞわぞわと鳥肌が立ち、声にならない声で反応する史乃に宵子はいびつな笑みを浮かべた。
「ありがとう、史乃さん。……さようなら」

 その言葉を最後に、史乃の視界は暗闇に飲み込まれた。


  *  

「……遅い」
 吐き出された言葉は、静かに空気に溶け込んだ。
 再び訪れた静寂を紛らわすように自身の腕時計に目をやれば、針は二時と三時の間を示していた。
「史乃……」
 伊織の愛娘が姿を消して、既に一時間が経つ。
 こんな真夜中の外出――それも会いに行く相手があの(、、)百川宵子となれば、黙っていられないのは当然のことだった。父親として、そして一人の男として伊織は宵子を警戒していたからだ。
 実の親から死を望まれる、普通なら「可哀想に」と多少哀れむものだろうが、事置いてその対象が『百川宵子』であれば、それは「当然だろう」と思えてしまう。
 彼女はそういう存在(、、、、、、)なのだ。
 百川の家が生み出した罪の証。『百世巡り』を続け、今や精神(こころ)が狂気に飲まれていびつに変貌していると思われる彼女は、最早「怪物」と呼ぶに相応しい。
 そんな「怪物」が自分の子に近づいて接触を図り、あまつさえずっと側に居た永束や山田(おさななじみたち)でさえ今も辿り着けずにいる「友達」に近い立場を掴み取った。しかも彼女の正体を娘は知らない。
 『百世巡り』の存在を知り察している部分はあるだろうが、聡明な子だ、それでも娘は百川宵子を「なぜか放っておけないクラスメイト」と思っている。そうやって、自分自身に暗示をかけている。(・・・・・・・・・・・・・)

「優しい子だから……だから、心配だったんだ……」
 娘は曲がったことを嫌う心根の優しい女の子だ。
 だから(、、、)周囲からズレていく。無垢で穢れなのない美しさ。今は毛布のようなものに包まって見せないようにしている、かつて自分も抱えていたその感覚。それはどうしようもない、娘が抱えた宿命だった。


++++

 其処は、例えるなら“地獄”と呼ぶに相応しい場所だった。

 目の前には一面の闇が広がり、足元には真っ白な“何か”が地面を埋め尽くすように広がっていた。空は真っ暗なはずなのになぜだか赤黒い色をしているようにも見え、その気味の悪さに背筋が寒くなるような感触を覚える。
 史乃は自分の立っている場所を確認するため、ぐるりと辺りを見渡した。建物らしいものは一つも無く、一面不気味な空と真っ白な地面が広がっているだけ。つい先程まで居た雪見山とは到底思えない。しゃがみ込んで、地面を埋め尽くす白い物を近くで見つめる。
「……これ」
 一見、足元がなだらかで安定していたこともあり何なのか分からなかったが、よくよく見れば、この白い地面に詰め込まれているものはまるで――
「人の、骨?」
 自分で口に出してしまった言葉に身体が固まった。
 そんなことがありえるはずがない、そう言い切れたらどれだけ良かったか。一度そう思ってしまうと、もうそれにしか見えなくなってしまった。史乃は口元を引き攣らせ、「勘弁してくれ」と呟く。
 人生において、本物の人間の骨を見る機会なんてそうそう無い。
 特に紫辺家は父方とも母方とも親戚付き合いが無かったので、史乃の記憶の中にある人の骨を見た機会といえば母親の葬式だけだった。それだって、史乃がまだ五歳の頃の話だ。薄情だと思われるかもしれないが、その記憶すらもう朧気だった。
 それくらい普段見る機会の無いものが、辺り一面の地面を埋め尽くしている。自分は今、かつて生きていた、人間だったであろう誰かの骨の上に立っている。そう考えただけで、頭が酸欠状態に陥ったかのようにくらくらしてくる。

 ――恨むぞ、百川さん
 こんな恐ろしい場所に飛ばされた原因であろう少女に心の中で悪態をつきながら、史乃は深く深呼吸をした。今この場所に自分以外の人間はたぶん一人も居ないだろう。であれば己がすべきことは一つだけ。
 史乃は地面に座り、腕を組んだ。そして頭の中で、数分前の記憶を回想し始めた。
 あの時宵子が言っていた言葉を、一字一句違えずに何度も繰り返す。
 彼女は史乃を、『鍵』だと言った。そしてその結果、史乃はこんなえげつない場所に飛ばされてきた。
 ではそもそも、彼女は史乃を『鍵』にして何をしたかったのか――?
「……“扉を開けるため”」
 確か、彼女はそう言っていた。
 だが目の前に広がる世界には扉らしいものなど何一つとして在りはしない。では、宵子の言う扉とは何の扉なのか? 彼女は一体、何の扉を開けようとしていたのか――頭の中で泉のように際限無く湧き出てくる疑問を整理して、一つずつ考察していく。
 幸いにも時間はまだある。時計を身に着けていないのでただの勘ではあるけれど、こういう時の自分の直感は頼りになると自分の中のささやかなプライドがそう告げていた。
 一番目の優先事項は此処からの脱出。
 二番目の優先事項は百川宵子の目的の確認。
 三番目の優先事項は現場に来た父に無事を知らせること。
 そこまで考えて、史乃は「あっ」と小さく呟いた。
 今あの場所に残っているのは、おそらく父と宵子の二人だけだ。行動自体は悪質だが、力のないかよわい女の子である宵子と、成人男性で(多分)鍛えているであろう父が二人きり。しかも宵子は史乃に危害を加えた現行犯。
「パパ……怒ったら怖いんだよな」
 怒りに任せて彼女に手を出したりはしないだろうか。そんな疑問が史乃の頭の中に浮かんだ。……多分、いや確実に今頃父は完全にキレているだろう。つまりそれは、史乃に危害を加えた宵子への殺意を募らせているという証明になる。
 父の手に掛かれば彼女の細い首なんていとも簡単にへし折れてしまう。史乃としては唯一の家族が自分のせいで殺人犯になるのは困る。色んな意味でとても困る。
「前言撤回」
 一番目の優先事項は、此処からの脱出。
 そして二番目の優先事項は、父親が百川宵子を手に掛けていないか確かめる。これで確定だ。
 願わくば、父がどうか彼女を殺していませんように。そう祈りながら史乃は現実へ戻るための推理を開始した。

++++

 ――彼の人と出会ったのは、霧雨が降っていたある日のことでした。
 私はその日、彼の人のお世話をするため、いつものように彼の人が住んでいる小さな社の形をした小屋にやってきました。木桶に水を汲み、布切れで床を拭き、窓を拭き、そして彼の人が座るその場所を清めるのが私の仕事です。
『なあ、きみ、名前は?』
『……』
『……ああ、そうか。きみ、名前がないのか』
 彼はすまないと言って、眉を下げて悲しそうに笑みを浮かべていました。
 わたしはいいえ、と首を横に振って『もうしわけございません』と答えたのを、今も覚えています。

 彼はその場所にずっと囚われているのだと、私に教えてくれました。けれど、私にはどうすることもできませんでした。私はただの世話係、彼が心地よく過ごせるようにするのが仕事です。けれどその仕事の中に、彼を外へ出すというものはありませんでした。
 彼は、“生き神様”と呼ばれていました。
 ずっとずっと昔から、この村に居るそうです。

『百の世を巡り、百の夜を越えて――お前は、罰を受けなきゃいけない』
『たすけて……たすけてぇ……』
『……それが終わったとき、『鍵』を見つけて約束の場所へ向かえ。扉が開かれたら、その時は――』
『あ……う、ぐ……すけて…だ…すけ…でぇ……』

 足掻く。ひたすら手を伸ばす。けれど彼は、わたしを見下ろすだけ。
 涙が出る、口から唾液が垂れ落ちて、汗も、鼻水も、全てぐちゃぐちゃに混ざり合って、わたしはただただ助けを求め続ける。
 けれど彼は助けてくれない。どうして、どうして、愛していると云ってくれたのに、わたしを抱きしめてくれたのに、遠くへ行こうと、云ってくれたのに――!
 うそだったんだ。そうだったんだ、きっとぜんぶ、うそだった。
 わたしをだまして、こうして生贄にして、自分が解き放たれる準備をしていたんだ。だから彼は、わたしを助けてくれないんだ。ああ、そうか。そうだったのか。
 全て悟ってしまったら、力が抜けるとはいとも簡単だった。

 わたしは虚空を見つめる。わたしは地獄の中にいる。
 わたしは地獄で生きる。わたしの地獄はまだ終わらない。
 
++++


++++

「ふざ、け、るな、よ――!」

 紫辺伊織は怒りを滲ませながら、異様なスピードで山中を駆け抜けていた。
 その姿は普段から愛娘へ見せる温和な姿とは程遠い、怒り狂い、理性を失った獣を彷彿とさせる。もしその姿を誰かが目にしたとすれば、恐怖で足を竦ませていたことだろう。
 ろくに舗装もされていない山道を伊織は迷いなく駆け上がる。目指す場所は一つ――世界でたった一人の我が子が居るであろう場所だ。

 ――くそっ、くそっ、ちくしょう! ああ、もう! 何が父親だ、何が、家族だ!
 もっと早くに気付くべきだった。思い返せば百川宵子が家にやって来たその時に、既に違和感の種は己の心の中に植え付けられていた筈だったのに。“百世巡り”がどういうものか知った時に行動しておくべきだった。娘(あのこ)に気付かれないように、あの少女を始末しておくべきだった――!
 それをしなかったのは、ひとえに伊織の心の中に油断があったからだ。『どんな事情があったとしても、今は娘の友達なのだから』と思ってしまったからだ。
 そんな優しさが仇になった。百川宵子は紫辺史乃と紫辺伊織のそんな『甘さ』に付け込み、見事今回の儀式を完遂した。
 これは完全に伊織の落ち度である。胸の中で暴れまわる激情を必死の思いで抑え込みながら走り続ける。
「史乃、史乃、俺の史乃……ッ!」
 頭の中は最愛の娘の安否を気にする気持ちで埋め尽くされ、それ以外のことを考える程の冷静さは残されていない。ほんの一握り残った理性が、発狂しかけている心を食い止めてくれている。
 辛うじて残された理性に感謝しながら、伊織はただただ走り続けた。

  *  




++++++

 ――物心ついた頃からずっと、心の奥底で燻っている“なにか”があった。

「ねえ、パパ」
「何だい? 史乃」
 力尽きて地面に座り込む愛娘を抱きしめながら、伊織は穏やかな声で応じる。史乃はかつての百川宵子(かのじょ)のようにどこか遠い場所を見るような瞳で、静かに前だけを見つめていた。
 二人の目の前には、中身を失ってしまったセーラー服とローファーが地面に散らばっていた。
 『百世巡り』を終え、史乃という“鍵”を用いて《扉》を開いた彼女は、彼方(あちら)から迎えに来た「彼」に連れられて、遥か遠い場所へと旅立った。
 百川宵子は――“愛”に呪われた少女は、ようやく穏やかな眠りを迎えることが出来た。
 その代償として、紫辺史乃の運命を大きく狂わせて。

 宵子は最期までそのことだけは悔いるような表情をしていたが、気が狂いそうになる程の地獄の終わりの前では、一年にも満たない時間を共に過ごした少女(ともだち)を贄にすることを躊躇わせることはできなかったらしい。そも、彼女は史乃を初めから生贄にするために近づいてきたのだろうが、
「わたし、百川さんのこと恨んでないよ」
 史乃は力強い声で言い切った。
 もし自分が百川宵子と同じような立場であったら、誰かを犠牲にすることを躊躇らわなかっただろうと確信していたからだ。その点、最後の最後に一瞬でも躊躇った彼女は、きっと自分より人間らしい、優しくて弱い女の子だった。
 何より、責めるべきその相手はもうこの世のどこにも存在しない。
 百川宵子は消滅した。たった今、紫辺父娘の目の前で青白い浄化の炎に包まれて、やっと終わらない夜を終わらせることができたのだ。
「……それが史乃の選択なら、パパは何も言わないよ」
 伊織は娘の決断を否定することは無い。いつだって、出来る限り尊重してあげたいと思っている。だから、今回も娘の意思を否定することはない。
 例え、腸が煮えくり返る程に百川宵子へ殺意を募らせているとしても。
「ありがとう……パパ……」
 唯一の家族に抱きしめられながらもずっと強張っていた身体が、父親の肯定する言葉でようやく解けだした。そして史乃の心と体に、重石のようなずっしりとした疲労感が波のように広がっていく。
「史乃」
 伊織は腕の中にいる娘の名前を呼んだ。
「なあに、パパ」
 父親の身体に凭れ掛かり、うつらうつらとしている史乃がのろのろと顔を上げる。疲労感を滲ませた声で史乃は重たい手を動かし、自分を抱きしめる伊織の腕に触れた。
 ――……ああ、そうだ。
 娘はいつだって、伊織の気持ちに誠実に応じようと努力してくれていた。史乃はとても生きることに不器用な子供だ。その原因は父親である自分が『人間』では無い存在だったからだ。人間である妻と、人間でない己から生み出された可愛い我が子。人らしく生きることを強いられてきた史乃は、ずっと苦しんできたことだろう。
 お互いへの揺るぎない信頼こそ、父娘がお互いへ向ける「愛」だった。
 ブツリと、糸が千切れる音が聞こえる。
「ごめん、史乃……」
 カラカラになった喉から絞り出された声は、酷く情けない。
 恥ずかしかった。恥ずかしくて恥ずかしくて堪らなくて、情けなくて涙が出そうになる。それを必死に堪えて、娘を抱き締める力を強めることで誤魔化す。

(ずっと、黙っていられるわけじゃなかったのに)
 それでもまだ知らなくて良いのだと娘の目に目隠しをして、何も見せないようにしてきた。それが正しいことなのだと信じ切って、危ないことには手を出させないようにして、自分自身のエゴを押し付けて、それをさも美しい『親の愛』なのだと驕っていた。
 本当はもっと早く、教えてあげるべきだった。そうしていれば今回のように史乃が心を痛める結果にならずに済んだかも知れない。自分の愚かさに吐き気がする。百川宵子へ怒りを募らせる前に、殺意を募らせる前に、何よりまず責められるべきは、愚かしく傲慢な思考をしていた自分自身だったのに。
 伊織は大きく息を吐いて、自分を見つめる娘を見た。
 父親を心配そうに見つめる紫水晶の瞳が、じっと見つめている。

「――家に、帰ろう」
 分泌させた唾を飲み込み、喉を湿らせて出した声は、いつも通りの『紫辺伊織』のものだった。その声色のまま、伊織は娘に微笑んだ。「そうだね」と首肯した史乃を抱きかかえて伊織は立ち上がる。
 そしてふらつくこともなく、しっかりとした足取りで歩き出した。
「帰ったら、話さなきゃいけないことがあるんだ」
「うん。私も……パパに聞きたいことがそこそこある」
 たくさん、ではなくそこそこ、というのがなんとも娘らしい。伊織は喉をクツクツと鳴らす。上澄みだけだとしても、自分の心の中に穏やかな温もりが帰ってくるのが分かった。
「答えられることは全て答えるよ。……ああ、でも、そうだ」
「うん?」
「話す時は、温かいはちみつ入りのミルクを飲みながらにしよう。彼女と大切な話をする時は、いつもそうしていたんだよ」
「……ママも、はちみつ入りの牛乳好きだったんだ」
 初めて知った、と史乃が小さく笑う。
「たくさん、話をしよう。史乃のことも、梢のことも、これからのことも含めて――話せることは全て話すよ」
「うれしいなあ」父親の言葉に、史乃は口元を綻ばせる。「ずっと、知りたかったから……」
 安堵したように息を吐いて、史乃は目を瞑った。そして数分程経つと、静かな寝息が伊織の耳に届いた。その音に耳を澄ませながら、伊織は笑みを浮かべる。
 歩みを止めること無く下山し、雪見山の麓に停めた車まで辿り着いた時、ふと明るくなってきた空を見上げた。

「……ああ、綺麗な空だ」

 濃紺から赤みがかったオレンジのグラデーションが綺麗で、まだ星がほんのり見える空は、まるで宇宙のようだ。
 新しい朝を迎えようとする空が、紫辺父娘を優しく見守っていた。

++++
エピローグ

「本当に、これで良いんだな?」
「……後悔はしてないですよ」
 何度も確認を取る担任を見据え、史乃はきっぱりと答えた。
 小さく溜息を吐いた担任は、トレードマークである丸眼鏡越しに「ならいいよ」と力無く笑いかける。疲労感の滲むその表情に少し後ろめたいような気持ちが生まれるが、史乃はそれを振り払い、背筋を伸ばす。
 後ろめたいことなんて何もない。後悔はしていないのだから。
「……随分とお疲れのようで」
「ははっ。ま、それなりにな……百川の手続きもあるし、生徒への説明もな」
「百川さんのことは、」
「『持病が悪化したので治療の為に転校した』って説明することにした。簡単に言うとだけどな。……時期が時期だ、突然失踪したなんて今の皆には酷だろう」
「賢明な判断ですね」
「だろ? でもま、紫辺に話してる時点で、俺は大人失格かもな」
 自嘲気味に呟く担任に、「いや、別に」と史乃が返す。
「気にしてませんよ。先生が私の口の堅さを信じてくれてるんだなあとしか思わないので」
「マジか! 成長したなぁ、お前……やっぱ紫辺に任せて良かったよ」
 私が目的で転校してきたんですけどね、彼女。
 ――とは流石に言えなかった。

 百川宵子の失踪は、事を大きくしたくない百川の家の権力と、受験が迫りナーバスになりつつある生徒達を慮った学校側によって、最終的に『療養することになった』という形で纏められた。
 突然の別れを何も知らないクラスメイト達は悲しんでいた。けれどその思いも数週間も経てば緩やかに消化される。悲しみは、間近に控えた卒業式の練習や残り僅かな中学生活がゆっくりと埋めていった。
 この先、百川宵子は『可愛い女の子だったよね』と、子供達の記憶の片隅に刻まれ、時折思い出す――そんな存在になるのだろう。

 史乃はそれを良い事だと思っている。
 この先大人になって歳を重ねても、ふとした時にあの少女を思い出す人が一人でも居れば、それは彼女への最高の弔いになるだろう。姿が思い出せなくなったとしても、『百川宵子』という存在を覚えている人が一人でも居てくれれば、それだけできっと彼女は喜ぶという確信があった。

「ところで」
 史乃は担任をジッと見つめる。
「あなたは何時まで人に紛れて生きてくつもりなんですか? 文車(ふぐるま)先生」
「……フフ。もしかして親父さんに聞いた?」
「いや、色々と自覚したらそういう風にしか(、、、、、、、、)見えなくなっただけです」
「そっかー。いやはや、子供の成長は早いなぁ……」
 疲労の滲んだ顔から一転、担任はニヤリとチェシャ猫のように口角を上げる。
「さて、何時まで続けようかねぇ? 個人的には気に入ってんのよ。この仕事」
「何時までも騙せる訳じゃないんですよね?」
「まぁねぇ。でも其処が腕の見せ所っていうか? 俺のパワーの使い途(つかいみち)、みたいな?」
「ふうん」
「ええっ、質問したのそっちじゃん……」
「先生の性格豹変しすぎでついて行けない」
 教え子の指摘に「ウッ」と胸の上を掴んだ担任は、それでもどこか照れた様子で笑う。その姿は今まで史乃を含めた教え子達が感じていた『ダメな大人(おっさん)』というよりも、まるで『無邪気な男の人(こども)』のようで。
「そりゃあ、紫辺。見抜かれたのは数年ぶりだからさ、嬉しいんだよ」
 首を傾げる。
「……数年ぶり? 前の卒業生にも居たんですか、見抜いた人」
 その問いに、担任は深くうなずいた。
「ああ。あの子は完全に『ただの人間』だったよ。文芸部の観察眼、侮れないぜ」
「それはすごい」
 パチパチと称賛の拍手をする史乃に、「だよなあ〜」と担任も頷いた。
 “混じっている”史乃が見抜くのならまだしも、彼の発言が本当なら“ただの人間”が過去にその正体を見抜いたということだ。基本的に気づけるわけのないものに気付くということは、それはとんでもない観察眼と直感力の持ち主ということだろう。文芸部って凄い。

ALICE+