ダイダロス基地制圧の報せがディオニソスに入ったときには、フィーネは既に軍服に着替え終わっていた。
ロッカールームの前で待ち構えていたクロエが「ロード・ジブリールを乗せたと思われるシャトルは“フェンリル”が撃ち落とした」と事務的な口調でフィーネに伝えた。
大丈夫?と去り際に振り返ったクロエの視線で、フィーネは自分が余程酷い顔付きをしていたのだと悟った。
彼女はそれ以上は言葉にしない。ただじっと見つめてくるだけ。フィーネがジークのもとに来てから今日まで、彼女がフィーネに必要以上の言葉をかけることは一度も無かった。だが、今日だけは素っ気なく立ち去ることを彼女の良心がよしとしなかったのだろう。
互いに苦手意識を持つ相手からの同情ほど扱いに困るものはない。
フィーネはぎこちなく笑ってみせると、クロエの視線から逃げるように身を翻し、隊長室に駆け込んだ。
隊長室に足を踏み入れて直ぐ、履いていたブーツを脱いだ。
空っぽ。主のいないその部屋を見渡すと、そんな言葉が思い浮かんだ。
この部屋の主が戻るまでにはまだ時間がある。それまでにこのどうしようもない感情を洗い流さなければならない。
「ジブリールが、しんだ…」
ジャケットとベルトをシワひとつないベッドシーツの上に放り、スカートはシャワールームへ向かう途中で床に落とした。
「死んだ。殺した…ジブリールを?ジークが…」
囈言のようにそう呟いて、シャワーコックを思い切り開いた。
『ジブリール』
戦闘で火照った身体に冷水を打ち付ける。水滴の音と共に脳内に響くのは幼い少女の声だ。
『ね、ジブリール』
「黙って。“フィーネ”」
フィーネは歯を食いしばってそれを頭から追い出そうとする。
しかし、それは執拗に脳内へ侵入してきた。
『――ジブリール。ね、ジブリール』
フィーネは鼻にかかったような、甘えた調子で飼い主を呼ぶ。
なにか後ろめたいことがあると、彼女はいつもこの鳴き声で飼い主の胸に擦り寄るのだった。
『ジブリール、なんだかね…身体、おかしいの』
お外の雨が強いからかな。頭が重い。眠くて眠くて仕方ないの。今夜の“お客様”は乱暴な方だから、こんな状態では行きたくない。今日だけ…今日だけよ?明日からまた頑張るから、今日だけはお休みしてもいい?
ある日、フィーネが飼い主にいつもと違う身体の不調を訴えたとき、彼はすぐに察した顔になってため息をついた。「迂闊だった」と。
『そうか、そういうところだけは一人前なのか…』
うんざりしたような、諦めの音だった。
自分を突き放してくるりと背中を向けた飼い主に、フィーネは自分が思っている以上に悪いことを仕出かしたのだと理解した。
何処かに電話を繋ぐ彼の背中がとても恐ろしく思えて、理由もわからぬまま小さな唇から謝罪を漏らした。
飼い主に許しを乞い“何か”を守らなければならない。咄嗟に胸に湧き上がった不思議な使命感は、今思えば動物としての本能だったのだろう。
再び意識をこちらに向けたとき、彼は冷たい笑みを浮かべて手招きした。
『おいで、フィーネ。すぐに治してやろう』
――ジブリールは優しかった
行き場を失った私を拾ってくれた人。戦う場所を与えてくれて、この世界における新たな役割を示してくれた。役割の支障になるものは全て排除して、私が大好きな戦争に集中出来るようにしてくれた。
おかげで私は今日まで戦えて、ジークと再会出来た。
フィーネは冷えきった身体を自ら抱き締めて、やがて徐に腹へと手のひらを滑らせた。薄くて、空っぽ…撫で擦る度どこまでも自分は紛い物なのだと実感する。
「ありがとう。ジブリール……」
さようなら、私の優しいご主人様。
私が地球に未練が無いようにしてくれた。あの場所に遺すものがあったなら、本当にジークの手を取ることは出来なくなっていただろう。
おかげでようやく地球を捨てられる。
――何かが変わる日は雨が降る
今日はジブリールが死んだ日。長年自分を地球に縛り付けていた鎖が壊された日だ。
常に雨音とともにあった人生の転機は、今日だけはやけに静かだった。
ああ、そうか…
この静けさの理由をフィーネは唐突に理解して、その場に崩れ落ちた。
降り注ぐシャワーが瞳から溢れる雫と一緒になって排水溝に流れていく。その光景を見つめながら、フィーネは独り嗚咽を漏らした。
――