司書と四迷


 中庭を横切ったときだった。
 見慣れない背中に名前は思わず足を止めた。大きな身体と帽子から微かに覗く銀色。それが二葉亭四迷だということを数秒かけて思い出した。そうだ、彼の名は二葉亭四迷。言文一致体を確立した文豪、そのひとりであり、昨日この図書館で共に働くことになった男である。
 その彼と目の前の男がなかなか一致しなかったのはどうしてか。それは名前の覚えが悪いからでも薄情だからでもない。

「何してるのかしら……」

 名前は首を捻った。
 二葉亭四迷。彼のことはまだよく知らない。けれど先達ーー坪内逍遙からの情報でかの人が真面目な男であるというのだけは名前も頭に入れていた。
 だからわからない。なぜそんな彼が誰が通るかも定かでない中庭で、その大きな身体を折り曲げ、おまけに膝までついているのかが。背中しか見えない名前からすると奇行にしか映らなかった。

「…………」

 名前は逡巡した。声をかけるべきか否か。
 以前の名前なら見てみぬ振りをしていた。その方が相手のためだと思って。でも今は迷う。迷ってしまう。彼がいくら偉大な文豪といえど共に戦う間柄なのだから、と。自分から歩み寄らなければ何も始まらないのだと。そう、長くはない日々の中で学んできたのだから。
 名前は唇を噛んだ。大声を出すほどの距離じゃない。いつも通り、そう、いつも通りでいい。ただ訊ねて、何もなければ、それで。
 空は呆れるほど澄み渡っていた。木々は流れる緊張なんてそ知らぬ顔でそよいでいた。名前の足は根でも生えたみたいに動かないし、喉は風邪でも引いたみたいに張り付いていた。
 それを無理矢理動かす。

「どうか、なさいましたか」

 一秒。たった一言。それだけなのに、心臓がきゅるりとねじれる。
 男は振り返る。二秒、三秒。走馬灯を見ているみたいにすべてが永遠に近かった。

「お前は、」

 男の黄金色の瞳が名前を映す。瞬間、ねじれた心臓が音を立てた。
 ーー狼みたいな目をしているのね。体とは離れたところで名前はぼんやりと思った。
 琥珀の目。それがよく見えるのは彼が座り込んでいるからだ。だから今の今まで彼の目がこんなに清らかであると気づかなかった。
 二葉亭四迷は何か言いかけ、口をつぐんだ。お前は。その続きはなんだろう。そう名前が思う間もなく、彼は首を振った。なんでもない、と。

「そう、ですか」

 そう言われてしまうと名前にはどうしようもない。なにせ相手は昨日会ったばかりの男だ。気心知れた間柄でもないのに根掘り葉掘り訊ねるのは無礼にも程があろう。
 仕方ない。そう言い聞かせ、名前は立ち去ろうとした。……のだけれど。

「あら?」

 それは鳴き声だった。生家では馴染みのない、しかしこの図書館では聞き覚えのある声。それは二葉亭四迷の先、身体の向こう側から聞こえてきた。

「猫がいらしたのね」

 中庭はいっとう日が当たる場所にある。そのベンチの陰に猫はいた。誰かが餌付けして図書館の管理下に半ば置かれた猫、そのうちの一匹だろうか。あいにく名前には猫の区別がつかないが、どことなく見覚えのある色かたちをしているように思える。
 猫はふたりの人間のことなど知らん顔で気持ち良さそうに目を細めていた。なんてことない風景。図書館では見慣れたものだ。けれど名前の言葉に二葉亭四迷は決まり悪そうに目を逸らした。

「……わらうか」

 その声は拗ねているように名前には聞こえた。実際膝をついている姿はいたいけな子供のようであったから、名前の張りつめていた体から少しずつ力が抜けていった。

「どうしてわらうんです」

 名前も彼に倣った。深く考えたわけではないが、自然とそうしていた。彼と同じように膝をつき、地べたに腰を下ろした。制服が汚れることに気づいたのは彼と目線を合わせてからだ。でもそれはすぐに思考の外へ押し出した。

「だがおかしいだろう、俺みたいなのがこんなことで必死になって」

 彼は口早に言った。
 二葉亭四迷と猫。そして彼の不自然な体勢。そこで名前は諒解した。二葉亭四迷は猫にあまり好かれない体質である、そう教えてくれたのはやはり逍遙だったように思う。

「逍遙さんにも笑われたから平気だ」

 ここでの笑うとは愉快がるということだろう。いや、逍遙のことだ。微笑ましいといった感情の方が強かったろう。とはいえそれが許されるのは逍遙だからであって、名前がそんな真似をしたらもうここでふたりの縁は断絶してしまう。
 だから。

「……わらいません、ぜったい」

 名前は唇を引き結んだ。それ以上はなにも口にしなかった。
 すると彼は一瞬虚を突かれたように目を瞬かせた。そのあとで。

「……そうか」

 ふ、と。唇が微かに弧を描く。目元がほんのりと緩む。
 このとき名前は初めて琥珀の目に見惚れた。仄かに色づく瞳は日の光を吸い込んで湖面のごとくさざめいている。ーーあぁ、やっぱりこの人も美しいんだわ。釣られて自分の頬が和らぐのがわかった。

「……あんた、猫は好きか」

「どうでしょう……。嫌いでは、ないのですけれど」

 空気は解れた。けれど名前は元来人と関わるのが得意ではない。彼の方も特段得手としているわけではないのだろうことはなんとなく察しがついた。
 そんなふたりだ。探り探り言葉を紡ぐので精一杯だった。
 名前は目を狼狽えた。名前自身は特段猫に思い入れはない。というより動物全般に興味がなかった。かといって嫌いかと言われるとそうでもない。見ていて安らぐものはあるし、愛らしいとも思う。思うのだけど。

「たぶん、苦手、なんでしょうね」

 目をやった先で、猫は相変わらず呑気に欠伸をしている。その姿に心惹かれるものはあるが、しかし。

「苦手?だが、あのネコとはずいぶん親しげだったじゃないか」

「あの方はネコであって猫でありませんもの。……猫は人語を解さぬでしょう?」

「あぁ、」

 なるほど、と彼は頷いた。合点がいったというような顔。

「怖いのか、動物が」

 それは人をーー自分も含めて、と言っているように名前には聞こえた。そしてその弁が正しいのだということも不思議とすんなり受け入れられた。
 人語を解さぬから苦手だと名前は言った。でも正確にはそうじゃない。今ここで思考している自分という存在を含めて、名前は苦手だった。だって理解できない。理解し合えない。その隔絶はきっと永遠に付きまとうだろう。
 「わらいますか」と今度は名前が訊ねた。そして彼もやはり「いいや」と否定した。

「だが動物はいいぞ。猫も、犬も」

「頭ではわかっているのですけれど……」

「なら簡単だ」

 そこで、躊躇う名前の手が引かれた。ぐい、と力強く。けれど強引さはなく。温かな手が名前を導いた。
 高くなる目線。広がる世界。穏やかな日差し。溶けるような琥珀の目。

「猫が苦手なお前と猫に逃げられる俺、どちらが先に打ち解けられるだろうな」

 冗談まじりに彼は言った。向かう先は微睡む一匹の猫。近づくふたりの人間にはまだ気づいていない。いや、気づいていて未だにそ知らぬ顔を貫いているのかも。
 猫の考えなんて名前にはわからない。このあとどうなるのかも。でも隣には心強い仲間がいる。だから小さな生き物も今は怖くなかった。

「勝算はあるのですか?」

 立ち上がってしまうと彼の顔はずいぶん遠ざかってしまった。だから琥珀の目も煙ってしまってよくは見えない。それが名前には残念に思えた。
 名前の問いに「そうだな」と彼は肯定した。勝算はある。猫と距離を縮められる。そう彼は言うのだ。その自信はどこから来るのだろう?

「……そりゃあお前が、」

「わたくしが?」

「……懐いてくれたろう」

 咄嗟に名前は自分の手を見た。自分の手と、そこに重なる自分のより大きな手を。

「……わたくしは猫じゃありませんわ」

「知ってる。が、……似てるだろう」

「似てないでしょう」

「……ならそういうことにしておこう」

 本当に訂正してくれたのか。
 名前が疑わしげに見上げると、ふいと顔を逸らされた。その仏頂面に近い表情から得られるものは少ない。でも名前は気にしないことにした。二葉亭四迷、先ほどまでは近寄りがたかった彼が今はここにいる。名前よりずっと高い背も強面な顔立ちも粗雑な物言いも。それは名前を厭っているからではないし、人と関わらないためのものでもない。それがわかったからもう恐れはない。人付き合いが不得手なのはたぶん一生直らないだろうけれど。