司書と基次郎
ひどく冷え込んだ晩に彼はやって来た。
「俺は梶井基次郎。日常の圧迫から解放を望むのかい?それなら俺に任せてよ」
そう挨拶した彼への第一印象は「ずいぶんと大胆な格好をした人」だった。そして初めましての次に発した言葉も。
「あの、寒くありませんの」
それ、と指した先。視線で辿った彼は名前の指が自分の腹部を示しているのを認めると、声を立てて笑った。
「なるほど、なるほど」
君という人が少し分かったよ、と彼は目尻を拭う仕草をする。それは自分が美しいとわかっているもののする所作だった。
名前はといえば曖昧な相槌を打つしかできない。「はぁ」そう言う彼はあまり人の話を聞かなそうだ。教本で彼の短編小説を読んだときには共感を抱いたものだし、今回の研究でお会いできるかもと知ったときには歓喜と憂慮に胸を痛めたものだったが……。名前の方でも少しだけ相手のことがわかった。彼はちょっとばかし面倒なタイプだ、きっと。
「それより、その、寒いようなら室温の調整を……いえ、衣類の方がよいのかしら」
「ははっ、どちらもいらないよ」
「必要なのはこの身ひとつさ」ふっとかきあげられる髪。蝋燭の頼りない光の中でも彼のそれは有り余るほどの輝きを放っていた。いや、闇夜だからこその輝きか。名前はその煌めきを北極星と名付けることにした。もちろん彼には内緒で。打ち明けるのは秋声にだけと決めてある。いつも、いつも。
「あ、今ほかの男のことを考えたね」
「……?ええ、まぁ」
名前はその流れのまま助手の話をしようとした。ついでに紹介をしたいとかなんとか言って埃っぽい有魂書室から出ようともした。誰だって好き好んで暗闇に居続けやしないだろう。この窒息感のある薄暗がりが名前はあんまり好きではなかった。新たな命の宿る場所ーーといえば聞こえはいい。けれどその命は神の手によるものではなく。誕生という祝福よりは死という呪詛に溢れている、そんな気がしてならないのだ。
なのに彼は、梶井は、出会ったばかりだというのに、名前に遠慮がない。「嫌だなぁ」芝居がかった溜め息を吐くと、名前の額を小突いた。
「俺という男を前にしてその態度、失礼千万というものだよ?」
そう言いながら顔は笑っている。北極星がきらきらと瞬いている。彼の瞳の奥、それから名前の目の中で。
「気になるなぁ、君みたいな面倒な子が好きになるのはどんな男なのか」
にんまりと弧を描く唇。楽しみだとありありと顔に書いてある。完全に面白がっている。出会って数分。なのに名前は彼の中で玩具に位置づけられてしまった。暇潰しの玩具だ。頭が痛い。ただでさえ日々悪戯っ子に頭を悩ませているというのに。
「……どうか、お手柔らかに」
お願いしますと言う声はか細い。だって絶対言うことなんか聞いちゃくれない。名前にはわかる。「わかってるわかってる」その声色が"わかってる"ものの音じゃないってことくらい!
「さぁさ、早く紹介してくれよ、どんな色男なのかってね」
「色男……」
ではないだろう、秋声は。顔立ちは整っているが……日頃地味だ地味だと背中を丸めているのだから、目の前の男とは対局にあるはずだ。でも訂正するのは面倒なので触れないでおこう。というか、早くと急かしたかったのは名前の方であったはずなのに。いつのまにやら彼に背中を押されていた。
部屋を出るとパッと視界が開ける。暗所からの切り替えに目が追い付かない。パチパチと瞬く名前を置いて、梶井は廊下を進んでいく。勝手知ったるーーというわけがないのだけれど。なぜだかその足取りには迷いがない。
「それでどこに行けばいいのかな?」
……迷いがないのはただ単に彼がそういう性格だから、というだけだったようだ。
「もう……」
「ごめんって」
ところで君、と立ち止まった彼はまじまじと名前を見た。上から下まで。観察者のそれで名前を眺め回す。なんとも居心地が悪い。名前が身動ぎしても一顧だにしないで、好き勝手に見て。
そうして吐いたのがこれだ。
「君、もう少し着飾るということをした方がいいんじゃない?もったいないとかじゃなく、君のそれは自分自身への冒涜に繋がるよ」
「……放っておいてください」
……この男、人の話を聞かないだけじゃない。結構ーーいや、かなり失礼な物言いをする人だ。おまけに悪気も悪意もないのだから始末におえない。
怒ることもできず、名前は脱力した。なんだかすごく疲れた気がする。梶井が「溜め息を吐くと幸せが逃げてしまう」と頬をつついてくるのにももう突っ込む気力がなかった。
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2017/10/06梶井さん実装記念。
短編用に書いたので短い。内容的には本編寄りなのでこちらに。