少女と先生

 ーー落ちていく、落ちていく。
 そこは深海。
 そこは奈落。
 そこは深淵。
 そこはーー

(……………………?)

 ふと、自己が覚醒する。
 一面の白。一面の黒。
 一面の光。一面の闇。
 明滅する、光と影。

(ーーここはどこだろう?)

 そう思考する自分を知覚する。知覚する自分を思考する。

(ーー自己って、なに?)

 自分とは、私とは。その疑問が生まれたときだった。

 ぐらり、と身体が傾ぐ。

 いや、傾いだのは身体じゃない。世界だ。だって倒れたはずの身体が痛くない。どこにも、ぶつからない。足だってしっかり地を踏みしめている、はずだ。

(……ほんとうに?)

 そこで初めて不安を覚えた。

 私は本当に立っているのだろうか。この足の先に地面があるなんて誰に確信できようか。ここには一面の闇が(あるいは光が)広がっているだけだというのに。

 不安は、恐れへと変わった。

 絶対的なものはこの世界にない。絶対的なのは今ここで思考している己だけなのだと。けれどその自己すら曖昧であるのだと気づいた。自分を定義するものがなにもないのだと理解した。 
 私が"何"であるのか。存在すらわからない。足の先から指の先まで。自分の目には映っていなかった。確かに"そこ"に存在しているーーように思えるのに。
 だがその思いすら光に(あるいは闇に)呑まれていく。

(ーーうそ、)

 始まりは足だった。
 さらさらと、砂のようにこぼれていく。そんな気がした。気がしたのだけれど、それを見ることはかなわなかった。ただ足が流れ、指先が溶けていく。その感覚だけが残った。

(どうして?どうしてなの?どうしてわたしが、どうして、いや、いやよ、わたし、)

 ーーきえたくない。

 恐怖はやがて恐慌へと変わった。
 溶けていく、熔けていく、融けていく。
 私が、自己が、意識が。
 もがいてももう腕はない。
 逃げようとしても足はない。
 溶けていく。熔けていく。融けていく。
 幻影のごとく、泡沫のごとく、夢想のごとくーー
 わたしが、とけていく。


「夢を見るの」

 そう呟いた声は思ったより力ないものだった。
 夢を見るの。口にした名前自身、"それ"が本当に夢であるのか分からなかった。夢を見るの。そうやって言葉にすることで実感したかったのかもしれない。"あれ"は夢なのだと。泡沫のごとく消えるのは、あの夢の方であると。

「夢、」

 目の前の男ーー尾崎紅葉は片眉を上げると続きを目で促した。
 どんな夢を?彼の理知的な翠の目が名前を射抜く。何もかも見透かすような視線。思わず名前は目を逸らした。疚しいことがあるわけじゃない。なのにこの居心地の悪さはなんだろう。
 疑念はあった。けれど深く考えることはしなかった。したくなかった、と言うべきか。とにかくその理由がどんなものか、名前は努めて考えないようにした。

「……あまり、気持ちのいいものではないの」

「それくらい見ればわかる」

 濁された答えを紅葉は一蹴した。
 呆れたような声音。だがその目は確かに名前を案じていた。
 だから名前は少しだけ表情を緩めることができた。自分でも気づかぬうちに強張っていた身体がとけていく。とはいってもそれは夢のように恐れを伴うものではなかった。
 ーーそう、あれは夢なのだ。

「……ごめんなさい、たいしたことじゃないのよ」

 途端、羞恥が込み上げる。些事で取り乱していた自分に。

「先生の手を煩わすようなことは、なにも」

「名前、」

 言い募ろうとしたところを紅葉は制した。正直に話せ。口にはしなかったが、そう言っているのだと纏う空気でわかる。

「悪夢は人に話すものだと言うだろう?」

 それが止めだった。
 名前は息を吸った。
 あれは夢だ。わかってる、理解してる。
 だのに、手が震えるのはどうしてだろう。背筋が冷たくなるのは、どうして。

「ーーわたしが、溶ける夢を」

 声が落ちる。ぽつりと、静寂を割って。
 先生はほんの少し目を見開いた。そしてすぐ考え込んだ。
 何かまずいことを言ったかしら。気にかかったけれど、とても口を挟める様子ではなかった。
 名前は先生から目を離した。代わりに窓の向こうに意識をやる。窓の向こう、くり貫かれた小さな世界ではナナカマドの赤い実が少しだけ見ることができた。それより先にある山々が同じ色に染まっているのも、少しだけ。ベッドの上から見える景色はここ数年代わり映えのしないものだった。
 それでも名前は満足だった。変わらないことは罪ではない。
 ーーいや。
 名前にとってはそれ自体が幸福なことであった。馴染みの使用人や庭師がいて、可愛い飼い猫がいて。何より大好きな人たちがいて。名前は幸せだ。……幸せなはずなのだ。

「名前、加減でも悪くなったか」

 先生の手が伸びる。触れた指先は名前の頬をそっと労った。優しい手。温かい手。
 名前は目を閉じ唇だけで笑んだ。「いいえ、」緩やかに首を振ると、肩から下に髪が流れる。ナイトドレスのままなのは先生だからだ。先生じゃなかったらーーたとえばお節介焼きな助手だったらーー名前も少しは身を整えていた。

 ーーそういえば、どうしてかしら?

 秋声との付き合いは先生よりもずっと長い。だというのに……おかしな話だ。
 とはいえそれこそ些末なことだろう。薄く靄の張った頭ではそれ以上のことは考えられなかった。

「ねぇ、先生。わたし、外に出たいわ」

「そうだな。……いや、やめておこう」

「どうして?今日はどこも悪くないわ」

「油断するとすぐに風邪を引くぞ。ただでさえ季節の変わり目には弱いのだから」

 先生は困った顔をした。だから名前は我儘を通すのは諦めた。本当は庭に出てダイナと遊びたかったし見頃を迎えた薔薇やマーガレットを近くで眺めたかったのだけれど。

「いいわ。その分先生がお話ししてくださるもの」

「ほう。我に語って聞かせよと申すか」

「そうよ、その通りよ。まずは……ええっと、そう、夏の夜の夢のお話から聞かせて」

「仕方ないな……」

 先生は目を瞑った。茶色と白で統一された室内。庭師が摘んだ花くらいしか装飾品はないのだけれど、不思議と絵になっていた。
 それを眺めながら名前は思った。永遠があったらどんなによかったろう。そうすればこの優しい先生を額縁の中に閉じ込めておくのに。
 名前は幸福だった。気の良い使用人に泣き虫ダイナ、名前を見守ってくれる人々。間違いなく名前は幸せだった。
 でも、ーーいや、だからこそ、こわかった。今が夢みたいで。夢みたいに今にも溶けてしまいそうで。こわくて、こわくて、先生の手を握った。

「名前?」

「ううん、なんでも。なんでもないのよ、先生。ただちょっと、こうしていたいだけ」

「……そうか」

 先生はそれ以上聞いてくることはしなかった。ただ名前の手を握り返して、物語を紡いだ。名前のための物語を。
 でも名前は思った。
 永遠のためなら呪いなんて解けなくていい。一生を子供のままでも構いやしない。それで今が永遠になるのなら、祝福も未来も必要ない。
 そう言ったら、先生は怒るだろうか。それとも悲しむだろうか。
 名前は考えるのをやめて目を閉じた。これは夢なんかじゃないわと言い聞かせながら。