少女と"秋声"

 庭園はすっかり秋めいていた。名前の想像以上に色鮮やかに。

「ありがとう、秋声さん」

 頬を撫でる澄んだ風が心地いい。流れる髪を耳にかけながら、名前は車椅子を押す青年を振り仰いだ。彼、徳田秋声の一声がなかったら名前は今日も今日とて図書館で缶詰めをしていたろう。なにしろ先生は名前の外出に良い顔をしないのだから。
 でも秋声の意見は反対だった。「養生しろって言ったって名前のことだ、どうせ仕事だなんだと言い訳して余計体に負担をかけるだろう」と。
 おかげで名前は久方ぶりに自分の庭に降りることができた。だから礼を言ったのだがーー、秋声にはそっぽを向かれてしまった。
 「……べつに」大したことじゃあないから、なんて言って。
 その顔を見ないふりして、名前は大人ぶった笑みを浮かべた。まったく、素直じゃないんだから。
 でも名前の拙い演技に騙される秋声じゃない。すぐにバレてしまって、「なにその顔」と小突かれてしまった。
 なので名前もお返ししてあげた。

「べつに?」

 オウム返しに秋声は溜め息を吐く。

「昔はもっと可愛いげがあったのに」

「むかし?」

 おかしなことを言うものだ、と名前は首を傾げた。名前が秋声と出会ったのはほんの一年ほど前だというのに。そう思って、秋声を見上げる。が、視線は交わらない。

「……僕にとっては、ってこと」

 そう言った彼の瞳がどんな色をしていたのか名前にはわからない。だからといって聞くこともなかった。深い意味なんてない。きっとそうだ。
 名前は秋声から庭園に目を移した。
 淡い色をしたコスモスの群れ。釣り鐘型のリンドウは健気に上を目指している。それから紅く燃えるワレモコウ。どれもこれも秋の花たちだ。
 それらは一見なんの秩序もなく自生しているように見える。けれどその実すべて計算されているのだーーここを手入れしたであろう庭師の姿を思い浮かべる。次に会ったときにはお礼を言わないと。名前にとってはこの箱庭が唯一季節に触れられる場所なのだから。

「ねぇ、博士とマウスのお話なんてどうかしら」

 落ちた葉の上を車輪が滑る。空には青。地には赤。流れるのは静寂。そんななかで、ふと。名前は口を開いた。

「マウスは実験動物なの。殺すのは博士で、殺されるのはマウス」

「名前はないのかい」

 空想家の名前は時折こうやって物語を紡ぐ。形に残すようなものではない、とりとめのない物語を。
 それに付き合ってくれる秋声は優しい。唐突な言葉にも驚かず、穏やかな声で続きを促した。だから名前の声も弾む。

「博士は博士よ。先生でもいいけど。マウスは、そうね……ジョン、ジョンよ」

「じゃあそのかわいそうなジョンはどうするの?逃げ出す?それとも博士に反逆でもする?」

「どうもならないわ、だってマウスだもの」

 すると秋声は呆れた。

「それじゃあ物語にならないよ」

 だからって言葉通りの行動をマウスがとったらそれこそ現実味がないってダメ出ししたろうに。
 名前は唇を尖らせた。いいのよ、これで。そう言って、胸を張る。

「でもこれは博士の物語だから、いいの。博士は自分とジョンの物語だと思ってるけど、でもジョンなんてどこにもいないんだから」

「どういうこと?」

「だからね、博士は名前をつけちゃったの。マウスはマウスなのにね。でも博士はお人好しで身勝手だから」

 だから、名前をつけた。個として扱ってしまった。それが始まり。それが終わり。
 秋声はあぁ、と相槌を打った。なるほど、そういうこと。そう呟いた彼の目からは疑問が氷解していた。

「すると殺せなくなるわけだ。博士はマウスに愛着を持った。それは必要のないものだ。だから博士は苦しむ。そうだろう?」

 理解が早いのは付き合いの長さゆえか。名前の考えるようなことなんて彼にはすっかりお見通しなのだろう。
 それが心地よくて名前は笑った。

「そうなの。かわいそうな博士はかわいそうなマウスに自分を重ねちゃったの。マウスの痛みを知るのは自分で、自分の痛みを知るのもマウスだけだって思っちゃうのよ」

 名前の脳裏に浮かぶのは白いマウス。マウスとラットとモルモット。みんなみんな小さなケージのなかで生きていた。自分たちの生まれた意義も殺される意義も知らず。ただ真っ直ぐな目で名前を見上げていた。

「博士には友達はいないの」

 秋声の声がどこか遠い。赤い景色はいつの間にか古めかしく薬品の臭いがこびりついた研究室にとってかわっていた。
 震える体。吐瀉物。名前を見つめる赤い目。そして、そして、沈黙。あとに残るのはただのデータの一端。彼らに個はなく彼らに可能性はなく。あるのは死、ただそれだけ。
 名前は目を閉じた。博士に友達はいないの?反響する問いに、答える。
 ーーいるわ、もちろん。
 名前は博士という虚像の向こうに祖父を描いていた。研究者の祖父。髭を蓄えたその姿は名前にはあまりに大きかった。あまりに、遠すぎた。

「いるわ、友達も家族も。でもみんな他人よ、結局は博士の苦悩なんてわかったフリしかできない。彼らは一様に言うのよ、『いったいどうしたっていうんだ、しょせんはマウスじゃないか。かわいそうでも博士の身には敵わないよ』って」

「それじゃあ博士はもう死ぬしかないね。マウスなんてじき死んでしまうんだから」

「そうね、でもきっと博士は幸せよ。博士にとってマウスはジョンのまま。唯一の理解者と最期まで一緒だって信じたまま逝けるんだもの」

 まぁでも、真実はそう優しいものじゃあないのだけれど。
 だってマウスは可能性を知らない。死という可能性すら了解していない。
 でも、人間は違う。
 人間は死を知らない。けれど、死という可能性は了解している。可能性の世界を認識している。
 だから。
 結局、博士はひとりぼっち。唯一の理解者だなんてただの幻、空想だ。
 そう言うと、秋声は口ごもった。「それは、」ーーそれは?
 どうしたというのだろう。知らぬうちに庭園へと帰っていた名前は秋声の顔を改めて見た。黒い髪。黒い目。それでも名前よりずっとずっときれいに見えるのはどうしてだろう。

「その博士が名前だって言うの」

「まさか、」

 名前は一笑した。

「モデルはお祖父様よ、あの人のところにいたマウスを思い出したからこんなお話を思いついただけ。わたしは関係ないわ」

 そう言えば秋声は安堵する。ことさら、わかりやすく。そう、なんて素っ気ない言い方をしているけれど、あからさまに表情が緩んでいる。
 でもその顔は続く言葉に強ばった。

「あぁでも、わたしだとしてもきっと幸せだと思うんでしょうね」

 ーーええ、幸せだわ、きっと。
 名前はぼんやりと空を見た。秋の高い高い空。名前の知る限界のその先にある死という概念。名前の知らないはずの世界。
 でもなぜだかその世界を思うと胸がひどく締め付けられる。郷愁にも似た感情。焦がれているのだわ、と一度は思ったけれど、でもそれだけじゃない気がした。
 そう、なんだか懐かしい。懐かしくて、安心して、いとおしい。
 その話をしたのは誰にだろう。先生か秋声か鏡花か、意外にダイナだったりするかもしれない。わたしが知るはずもないのに変な話ね、と笑った記憶がうっすらと残っている。

「死んでしまうのに?」

 秋声の声が落ちる。深く、深く、転がり落ちる。
 彼の目は探るように名前を見ていた。だから名前はあえてにっこり笑った。子どもみたいに。

「死ぬのは怖くないもの」

 そう、笑った。
 
「最期まで誰かが一緒にいてくれるってすごく幸福なことじゃない?」

 同意を求めたのだけれど、秋声は曖昧な顔をした。こういうところはとことん合わない。方向性の違いってやつね、と頭の片隅で思う。

「……僕は一緒にいないからね」

 秋声は難しい顔のまま名前と視線を合わせた。車椅子から動けない、名前と。
 近くで見るとやっぱり彼の瞳は澄んでいた。色は名前と変わらないのに、本当に不思議。
 「僕だけじゃない、先生だってそうだ」秋声の手が名前のそれに重なる。男性らしく骨ばった手。伸びる指はその性格を表したみたいにまっすぐだ。名前の生白い手とはまったく違う。昔はそんなに差なんてなかったはずなのに。

「だから勝手に死なないで」

 その声は切々としていた。瞳は笑いに転じることを阻んでいた。
 だから名前は頷いた。

「わかったわ、約束する。秋声さんが心変わりするまでーーわたしの死に付き合ってくれるまで、今度は待つわ」

「……縁起でもないことを言うもんじゃないよ」

 低い声で言った秋声にまたしても小突かれた。意外に彼は手が早いところがある。まぁ口の方がずっと早いけれど。
 庭園はのどかだった。穏やかで、静かで。なにもおかしなところはなかったのに。
 それでも名前のなかで違和感は燻り続けていた。