秋声と終幕
雨上がりの空は遠く晴れ渡り、日差しは教会の片隅にまで穏やかに降り注いでいた。
「……名前、」
冷たく光るむき出しの墓石。真新しい墓標には、秋声の幼馴染みの名前が刻まれていた。
「嘘つき」
待ってるって約束したくせに。
そう詰っても返す者はいない。ひどいわ、秋声さんったら。頬を膨らませる少女の声はいまだ耳元に残っているのに。
刻まれた名前をなぞってみても、なんの名残も感じられなかった。
「もう出るのかい」
家主がいなくなり閑散とした屋敷は人を必要としなくなった。だから庭師の彼がこの家を出ていくのも当然のことだ。なのに秋声は呼び止めてしまった。なぜだか、不思議と。
庭師は大きな荷物を抱えながら振り返った。
「ーーもうここにいる理由はなくなっちまったからな」
跳ねる栗毛、健康的な肌。へらりとした笑みからは内心が窺えない。
聞いたくせ、秋声は「そう」としか言えなかった。他になにか言うべきことがあったような気もするが思い付かなかったのだ。それはひどくすわりの悪い感覚で、喉元で言葉がつっかえているような気さえした。
けれど結局、秋声には当たり障りのない台詞しか浮かばなかった。
「じゃあ、元気でね」
「あぁ、あんたも達者でな」
後ろ髪を引かれる様子もなく男は歩き出す。前へ、前へと。
取り残された秋声はその背を見送るしかない。取り残された屋敷とともに。
「……行く宛は?」
あまりに迷いのない足取りだったものだから、また秋声は聞いてしまった。
男は足を止め、少し考えるように目を上にやった。そんな仕草とは裏腹に、その目には一片の曇りもない。彼の歩みと同じように。
「そうだな……とりあえず海を目指すよ」
「海?」
ずいぶんぼんやりとした目標だ。
困惑が顔に出ていたのだろう。男は口端だけ上げて笑った。
「……約束したからな」
秋声は驚いた。この男はこんな顔もするのか、と。
屈託のない男だと思っていた。自分とは正反対のーー名前には縁遠い男だと。閉ざされた館には相応しくない、日の光こそが似合う男だとばかり思っていた。
けれど今、この瞬間。はるかとおくに目を馳せる男の顔はーー
「君は……いや、なんでもない」
言いかけて、首を振る。もう彼女はいないのだ。今さら言っても仕方がない。
代わりに気がかりをひとつ訊ねてみた。
「ねぇ、ダイナを見なかった?」
名前の愛猫。黒猫のダイナ。人見知りのきらいがある彼が珍しくなついたのがこの庭師であった。だから、訊ねた。名前が去った朝、その日から姿を消してしまった黒猫のことを。
男はまた、訳知り顔で答えた。
「……あいつももうここには来ないよ」
その顔は悲しげであったのだけれどどこか納得もしているようなのが秋声には引っ掛かった。
「…………、」
そんなことを思い出したのは墓前に供えられた花を見つけたからだ。
青紫の桔梗の花。それはきっと彼の剥き出しの想いそのものだろう。
その眩しさに秋声は目をそらした。
「僕は後悔しています。他に道があったのでは、と」
ぽつり、と声が落ちる。
秋声の隣、ぼうと墓石を見つめていた男。泉鏡花。彼がようやく口を開いたのだ。
「先生……紅葉先生は仰っていました。名前は生きようとしていなかったと」
秋声は返事をしなかった。たぶん鏡花も求めていなかったろう。ただ内心では秋声も頷いてはいた。だろうね、と。
「僕は、僕はただ彼女を治せればと、そればかりを考えて……彼女の心のうちまでに考えが及んでいなかった。いや、考えたくなかったのかもしれませんね」
そういえば鏡花と名前は家族ぐるみでの付き合いがあるんだったな、と秋声はぼんやりと思い出していた。名前が"ああ"なって、彼女自身家族との縁が薄れてしまっていたが。そうでなければきっと名前はこの男の隣で笑っていたんだろう。医者となった男の隣でなら名前も心穏やかに生きられたはずだ。そんな彼女を隣家から冷やかしにいく未来もあったかもしれない。
ーーなにもかも、想像でしかないが。
「……本心なんて、もう名前にもわからなかったよ」
慰めか、とでもいうように鏡花の目が動いた。ーーまさか。そんなの秋声がしてやる義理はない。同じ医者としての道を目指しているとはいっても、それだけだ。
「ここのところ名前は連続性を失ってた。記憶が断絶してるんだ。その時々で感情だって意思だって変わってた。……もうずっと前から名前はいなかったんだよ」
だから秋声が言ったのは鏡花への慰めなんかじゃない。自分のため。ただ自分が折り合いをつけたかった。納得したかった。仕方のないことだと、割りきりたかった。
鏡花は「そうかもしれませんね」とだけ言った。感情の見えない声だった。秋声もあえて顔を見ることはしなかった。
二人は黙って墓石を見つめた。その下で眠る少女を思った。
名前は元来夢見がちな少女だった。けれど本当に夢に生きるようになったのは長じてからーーある日を境に彼女は変わってしまった。
あの日、はじまりの日ーー彼女が生死をさ迷った日。病状が悪化したその日、彼女はひとりだった。家族までもが彼女の元を訪れなかった。どれほど少女が寂しいと訴えても。彼女は独りだった。
秋声もそのひとりだ。勉学に励むことが彼女を救う近道だと信じて疑わなかった。
確かにそれは真実だろう。けれど近道が正しいとは限らないのだということを、久方ぶりに見舞った彼女が教えてくれた。
忙しかったのだ。それは本当で、彼女を想っていたのも、また。でも彼女が求めていたものを秋声は与えられなかった。
そうしてひとりぼっちの少女は友だちを造り上げてしまった。自分は錬金術師だという夢と一緒に、物語を仕立て上げた。
「…………」
さっ、と風が吹いた。二人の間を木の葉が駆けていった。落ち葉が擦れる音。それすらいやに大きく響いた。
ここはこんなにも静かなところだったろうか、と秋声は思った。教会は、屋敷は、こんなにも寂しい場所だったろうか。
思い出そうとしても、甦るのは少女の笑顔と最後に見た青白い顔だけだった。
「……紅葉先生は、こうも言ってました」
鏡花の淡々とした声が落ち葉と一緒に降り込んでくる。
「本当に夢を見ていたのは名前なのかと。我々が見ている世界こそ夢でないと誰が断言できるのか、と」
「……そんなの、言い始めたらきりがないよ」
鏡花はやっぱり曖昧な返事をした。否定も肯定もしない。ただなにか話していないと落ち着かないといった風で、その気持ちが秋声にもわからなくはなかったからーー言葉を続けた。
「そうだとしても選んでほしかったよ。名前には、僕の世界を」
鏡花は「そうですね」と言った。それだけだった。それだけだったのだけれど、その声が微かに震えているのに秋声は気づかないふりをした。鏡花もまた、見ないふりをしていてくれたから。