少女と木兎


 ーー詩が聴こえる。
 慈しむように、憐れむように。
 誰かの、詠う声がする。

「気がついたかい」

 月を背負った人はそう言って名前の顔を覗き込んだ。
 光にとける銀の髪。紫水晶の瞳。夜の似合うひと。

「白秋さん……」

 名を呼ぶと、双眸がゆるりと笑む。額に乗せられた手がひんやりとしていて気持ちがいい。額、頬、それから首筋へと伝う指先。触れられたところから鼓動が甦る。
 ーー生きている。生きているのだ、わたしは。
 それにしてもいやに身体が重い。目の奥はぐらぐらするし、身を起こすだけでやっとだ。いったいわたしの体はどうしてしまったのかしら。
 ……わからない。なにも。なにも、わからない。

「水を、」

 飲むといい。そう言って差し出されたグラスを促されるがままに傾けた。喉を通り抜ける冷水。渇いた喉はするすると水を吸い上げた。

「いい子だ」

 白秋は親のように、あるいは教師のように名前の頭を撫でた。いい子だ。それが正しいとは思わないけれど、頭を撫でられるのは好きだ。記憶もないのに懐かしい気持ちにさせられる。

「わたし、どうしてしまったの?」

 霞んだ脳内。奥底を浚ってみようとしても、澱んだ記憶の泉は多くを語らない。
 米神を押さえた名前の手を、白秋はするりとほどいた。

「思い出せない?」

「ええ……」

「ほんとうに?なにひとつも?」

 名前は目を上げた。
 いつものベッド。名前の終の栖。少女趣味に仕立てられた室内は誰の趣味だったろう。思い出せない。そもそもどうしてわたしはここにいるのだろう。どうして、わたしは。

「わたしは司書。文豪の力を借りて書を護るのが仕事」

「あぁ、そうだ。名前、きみはここにいる。ここで、生きている」

「そう、そうよね」

 ーーなのに、違和感が拭えないのはどうして?

「ーーわたし、いつから司書になったのかしら」

 見上げる紫の目。大きな月を背負ったひと。真白い顔。詠う唇。なにもかも見慣れたはずなのに、初めて見たような、なのにずっと昔から知っているような、そんな気がする。そんなのは物語として成立しないというのに。

「……君は倒れたんだ」

「たおれた、」

「そう、具合が悪くなって。でも朔太郎くんが人を呼びにいってくれたから大事にならなかったようだよ」

 ーー覚えてないのかい。
 白秋の目は底が知れない。見つめられると魅入られたみたいに身動きがとれなくなる。月を背負っているから、なおさら。

「ーー猫の、鳴き声が」

「覚えている?」

「……ええ、それだけは。ひどく悲しい声だったから」

 痛みを堪えて記憶を辿る。か細い糸の先を。
 闇に落ちる寸前、たしかに名前は鳴き声を聞いた。ひどく取り乱した、聞いている方の胸が痛むくらいの、悲しい叫び。
 なのに名前にその姿は見えなかった。それでもその声の主がダイナだろうことは予想がついた。泣き虫ダイナ。名前のかわいい友だち。かわいそうな黒猫のダイナ。

「そう、彼はとても心配していた。慌てて僕にまで声をかけるくらいだ。僕にはなにもできないというのに」

 白秋は片頬だけ上げた。微苦笑。彼がそんな顔をするのは珍しい。
 「でも、」だから名前は考えるより早く口を開いていた。

「白秋さんは詠ってくれたわ」

「僕にはそれしかできないからね」

 やっぱり彼は笑う。それしか、だなんて。名前にはそれすらできないのに。
 書き散らかしたメモが重なるナイトテーブル。名前の夢の残骸。形にすらならなかったかわいそうな物語が名前を詰っている。そんな気すらする。
 だからといって彼を詰るのはお門違いも甚だしい。名前は努めて感情に蓋をした。代わりに不満げな表情を顔に塗りたくる。唇を尖らせ、子どものように駄々をこねる。
  
「だからってロビンの詩を選ぶのはひどいと思うわ」

ーー「だァれがころした、こまどりのおすを」
  「そォれはわたしよ」すずめがこういった。
 夢うつつに聞いた詩が今、耳元で甦る。

「ロビンはきらいかい?」

 白秋の目が笑みを描く。面白がるようなその色。こまどりのお葬式。そんな詩を床に臥した者の枕元で詠うなんて。縁起でもない。だから名前は怒っているーーというわけではない。

「ううん、好きよ。でもだからきらい。ずっと羨ましかったんだもの」

 名前は首を振った。否定。肯定。どちらでもないしどちらでもある。
 「ロビンは殺されるのに?」白秋は「わからないな」といった顔で首を傾げた。でもその疑問の方が名前にはわからない。
 だって。

「だって、いっぱい悲しんだわ。いっぱい泣いたわ。わたしはひとりぼっちなのに」

 ーー 空の上からみんなの小鳥が、
ためいきついたりすすりなきしたり、
みんなみんなきいた、なりだす鐘を、
かわいそなこまどりのお葬式ともらいの鐘を。
 この詩を聞くたびに思う。クックロビンは幸せ者ね、と。ひとりぼっちのベッドの上で名前はいつも思っていた。

「ほんとうに?」

 白秋の目が名前を射抜く。名前の目を、心を。その先を。
 煙る紫の瞳。月光の溶ける目には不思議な力があった。
 だから名前の唇からは自然と言葉が落ちた。「ううん、うそ」今は羨ましくないわ。

「だってみんないるもの。だから、」

 そこで名前は一度言葉を切った。ほんのすこし、なにかが脳内を駆けた。約束。そんな言葉だけが名前の片隅に残された。残されて、煙となった。
 名前は笑った。蕩けるような微笑み。

「わたし、死んだっていいわ」

 白秋が目を見張る。ほんの一瞬。驚き。嘆き。喜び。哀しみ。一瞬の間に多くの感情が駆け抜けていった。そのどれもが拾い上げる前に月の前に溶けてしまう。
 名前が、手を伸ばしても。

「ーー外へ」

 伸ばした手が捕らえられる。白秋の冷えた指先が名前のそれに絡まる。引き上げられ、引き寄せられる。

「わ、」

 名前はまろぶようにしてバルコニーに飛び出した。裸足だ、そう思ったのは水溜まりを跳ねたときに消え去った。
 広いバルコニーにはうっすらと水が張っていた。名前の記憶にはないそれ。眠っている間に雨が降ったのだろう。でもそんなことは名前にはどうだってよかった。
 一面の、星空の前には。
 
「すごい、すごいわ、星空の中にいるみたい」

 水面は空を呑み込んでいた。星ぼしは今名前の足元にあった。遠いと、手が届かないと思っていた夜空に。今、名前は触れているのだ。
 ーーぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん。
 どこかで聞いた童謡が口をついて出る。

「ふふっ」

 白秋の手を掴んだまま、名前は踊った。白秋も笑っていた。仕方がないなぁといった顔をしながら、それでも笑って名前の背を抱いていた。
 秩序なんてない踊りだった。名前は型を忘れてくるくる回った。驚くほど身体が軽い。あれほど気だるかったのが嘘のように。体という殻を捨てたみたいに。

「これならネバーランドにも飛び込めそう」

「飛び込めばいい。名前、君が望むなら」

 それはほんの冗談だった。きっと眠る前に見ていた夢のせいだろう。ネバーランド。永遠の子どもの国。はじまりからふたつめの星にも手が届きそうだったから、名前はそう言った。
 けれど白秋は真剣な目をしていた。真剣にはじまりからふたつめの星に手をかけようとしていた。

「この先なら君の夢は終わらない。物語はいくらでも紡げるし外の世界に触れることもできる」

 はっとした。
 足が止まる。充ちる静寂。名前は白秋を見上げた。白秋は名前を見下ろした。その背で、大きな月が口を開けて待っていた。

「わたし、」

 囁きが落ちる。波紋が広がる。時が、止まる。

「わたし、悪い子だわ。ダメだってわかってるのに。大事な約束だってきっとあったはずなのに」

 星空の中の名前は泣きそうな顔をしていた。泣きそうな顔で、笑っていた。

「でも、それでもわたし、永遠がほしいの」

 白秋は微笑んだ。
 なのにその顔はどこか悲しげだった。