武官、太公望に問われる
食事の時間を迎えた厩は馬の鼻息と体温から熱気で満ちていた。
この城に繋がれた馬は名前のものではない。けれど馬丁たちに混じって彼らの世話をするのが習慣になっていた。だから飼い葉をつけてやっている名前の顔にも笑顔がある。
そこにひとつ、声が落ちた。
「精が出るのう」
喧騒の中にあってもよく通る声。それは先日西岐が迎えた客人のものだ。年若い青年の姿をした道士。西伯侯姫昌がこの邑の未来を任せたひと。
「太公望どの、」
慌てて頭を垂れたところを、太公望当人に制された。よい、と鷹揚に頷く姿からは仙道の者としての気風が感じられる。名前は他の仙道を知らないが……いずれも"こう"なのだろうか。
ーー太公望どのは柳のようだ。
それが好ましいと名前は思う。出会ってそう日は経っていないが、太公望は不思議と名前の生活に馴染んでいた。するりと、自然に。
「厩へいらっしゃるとは珍しい。なにかご用ですか?」
「いやなに、上からおぬしの姿が見えたからな」
好好爺然とした笑みはおよそその容貌とは釣り合わぬものであった。が、彼がやると違和感がない。
ーーまったく不思議な御仁だ。
名前は笑って、「外に出ましょうか、ここは歓談するには騒がしい」と太公望を誘った。太公望もまた、それを待っていたかのように微笑んだ。
西伯侯の城はなだらかな丘陵地の上にあった。だから城壁の先、居並ぶ平屋根の家々や揺れる麦畑、草原や小川を一度に見渡せた。
長い回廊を歩きながら、名前はそっと太公望に笑んだ。ーー彼もまた、この景色を美しいと思ってくれるといい。そんなことを思いながら彼に訊ねた。
「この地には慣れましたか?」
「あぁ、豊邑もあらかた見て回ったからのう」
「武吉どのとスープーどのと、ですね。市井でも話題になっていますよ。特にスープーどのは愛らしい容姿をしていますから」
「そ、そうか……」
太公望は微妙な顔をした。「そうか、スープーか……」「主人公としての格が……」……名前にはよくわからないが、太公望にとっては大きな問題らしい。影を背負いこんでぶつぶつと呟く姿からは悲哀すら感じられる。
しかしすぐに咳払いをしたかと思えば、「それはよいのだ」と言った。とても"よい"とは思えない反応だが、名前は素直に頷いておく。このひとがよいと言うのだからよいのだ。気がかりがあるとして、当人から聞かされない限りは詮索するのも不敬だろう。
「では、話題を変えましょう」
そこで名前は足を止めた。
太公望もつられて名前を見つめ返す。
静かな目だーーと思う。黎明の空。澄んだ青。どこまでもどこまでも遠くーー手の届かない色。名前にはその奥に沈むものが見つけられなかった。
いかに気さくでも仙道なのだ。わかっているのに、まざまざと突きつけられて寂しさを覚える。
憧憬。羨望。たぶんきっと、名前は太公望のようになりたかったのだ。今すぐ姫昌の支えとなれるほどの力がほしかった。この邑を護るだけの力がほしかった。それが叶わぬ夢だと、太公望を見ていると突きつけられる。
ーーだからといって、諦められるわけもないのだけれど。
名前は内心苦笑して、太公望に問うた。
「……姫昌さまに何か頼まれましたか?」
それは問いの形をとっているが、あくまで形だけだ。名前は確信を持っていた。太公望が父である南宮括ではなく、名前を訪ったわけ。
名前はこの邑の武官だ。それ以上でもそれ以下でもない。そんな名前を相手にわざわざ太公望が出向くにはそれなりの理由がなくてはおかしい。そしてその理由には心当たりがある。
ーー姫昌さまは本当にお優しい方だ。
そして、太公望どのも。
「いや別に頼まれたわけではないのだがな……」
決まり悪そうに太公望は頬を掻いた。
「聞いただけだ。おぬしが……姫昌の娘になるはずだったと」
「……過ぎた話です、もう」
名前は目を反らすことなく言い切った。そうすることで生まれる胸の軋りなど感じさせず。
追いかけた背中を、忠誠を誓った瞳を、水底へと封じ込めた。
「姫昌さまのお心遣いには感謝しておりますけど、わたしなどより御身を大切になさってほしいわ」
「そうだのう……」
わずかに歪む顔。それを見て、やはり姫昌の具合はよくないのだと悟る。仙道の者から見てもそうなのだと。
朝歌から戻った後の姫昌は多くを語らなかった。紂王に囚われる以前と変わらず穏やかな顔で臣下に接した。伯邑考のことなどなかったかのように。
しかし心まで偽ることは彼にもできなかったらしい。日に日に衰えていく体。窶れていく顔。その変わりようこそが伯邑考が亡くなったことのなによりの証であった。
伯邑考の最期を名前は知らない。ただ知らされた。ーー伯邑考さまは亡くなったそうだ。怒りとやるせなさを押し隠した父の声がこだまする。
ひとり帰還した姫昌の姿からも察しはついていた。なぜ伯邑考が共にいないのか。
それでも信じていた。信じたかった。
ーー今も。
遺体を見ることすら叶わなかったからこそ、心のどこかで彼はまだ生きているのではと思ってしまう。過ぎた話だと、わかっているのに。
「わしもおぬしにひとつ訊ねたい」
太公望の目は間違いなく伯邑考を思う気持ちを見透かしていた。その上で、彼はゆっくりと口を開く。
「ーーおぬしは殷を憎んでいるか」
名前はその眼差しを受け止めた。
脳裡に蘇るのは幼少の記憶。西岐に尽くし、この国を支えなさい。そう父に言い聞かされて育った。
そして名前は伯邑考の先に紂王の姿を描いた。
「……紂王さまのお噂は幼き時分より聞き及んでいました。武に秀で、信も厚い賢王。その時からずっと、わたしは夢見ていたのです。この地から殷を支えることを」
だからこそ。
「汚名はすすがなくてはなりません。そしてそれが叶わないのならーー止めなくては」
太公望は「……なるほど」と顎を引いた。
「どうやらわしはおぬしを見くびっておったようだ」
「見くびる?」
「あぁ、」
おぬしは天然道士だろう、と彼は言った。だろう、と言われても自覚がなかったから名前は曖昧に頷くしかない。
確かに人より傷の治りは早かったし、同年代の誰も名前の速さには着いてこれなかった。それが認められて伯邑考の鍛練相手に選ばれたのは光栄だったがーーその理由までは考えたことがなかった。というより、その可能性を考えもしなかったのだ。
「殷との戦において天然道士であるおぬしは要となる。だからここで確かめておきたかったのだ」
「それは……太公望どののテストに合格したということですか?」
「テストというと嫌なことを思い出すが……まぁそのようなものだ」
「太公望どの自らそのようなことまで……」
姫昌の客人に無用な心配をかけてしまった。不覚だ。まだまだ周りが見えていないということだろう。精進せねばなるまい。
そう、力がないのは名前だけではない。この西岐という邑自体に殷と戦うだけの力がない。平和ボケしている、太公望の評は名前自身納得のいくものだった。
「これは人の戦いでもあるのですから、そう気を回さないでください。人間とて弱いだけではありません。太公望どのの力を借りている今説得力のないことだとは理解していますが……」
だからこんなのは身の程知らずなのかもしれない。きっと太公望を止めることはできないだろう。
それでも伝えたかった。一介の道士でありながら人間界の戦に心を砕いてくれる人に。
「もっと我々を信じてください」
名前が両手を握ると、太公望は目を見開いた。そしてすぐに困ったような弱ったような顔で「まいったのう」と言った。
このとき初めて名前は太公望という人を見た。道士でもなく西岐の客人でもなく。太公望というただの人を見た。
そして、この人と共に戦うことのできる幸運に感謝したのだった。