武官、姫発と狩りへ行く

 大地を蹴る蹄の音。頬を切る気持ちのいい風。鳥の囀り。馬の嘶き。そのすべてが名前は好きだった。
 だから遠乗りはもちろんのこと、狩りもまた名前の心を弾ませた。
 演習のために連れてきた若者たちの多くも名前と同じだった。みな和気藹々とした様子で馬を並べている。狩りには参加しない女人も天幕の中で思い思いの時間を楽しむものだ。
 しかし中には例外もある。

「なぁんでこんな暑い中を……」

 ぶつくさと文句を垂れる男は姫発ーー西伯侯姫昌の次男坊だ。
 その隣で馬を歩かせながら名前は溜め息を吐いた。

「目的が毛皮だけならば仰る通り。夏場に狩りなど行いません。しかし我々には動物の肉も必要でしょう。であるからして……」

 狩りの目的はそれだけではない。今回のように軍事演習を兼ねることもあれば客人をもてなすためのものもある。
 姫発は上に立つ人間だ。伯邑考亡き今次代を担うのは発の可能性が高い。中には旦を推す者もいるかもしれないが……それでも人を率いるのは発の方が向いているように名前には思えた。
 だからこそ今日も「暇だ暇だ」とうるさい彼を引っ張り出してきたのだが。

「あー、わかったわかった」

 「お前の話は長い」と発は耳を塞いだ。おまけに「口煩いのは旦だけで十分だ」とまで言われる始末。旦も名前も発を思って言っているというのに。
 ……いや、その考えが"煩い"のか。

「……失礼、出過ぎたことを申しました」

 自分が伯邑考から多くを学んだ影響だろうか。つい発には年長者のような振る舞いをしてしまう。それが許される環境であるのは西岐という国柄ゆえであるのにも関わらず。
 そう自省する名前の横顔を、発は何か言いたげに見つめた。
 しかし口を開くことはなかった。その前に前方の茂みが揺れたからだ。

「鹿だ!」

 誰かが叫ぶより早く、その獲物は身を翻していた。

「追え!」

 名前の号令に、一斉に馬が走り出す。
 とはいえその動きは無秩序なものではない。むしろ秩序だったまとまりのまま集団は森の中を駆けた。
 中央に発を置き、その周りを護衛が固める。流れ矢からその身を守るためだ。
 名前は先頭を走った。足場の整った道を選び、発を導く。それが名前の役目であった。
 隆起した地面や進行を阻む樹木。若者たちがそれらに惑わされることなく馬を駆れていることを視界の隅で確認する。そうしてから、名前は標的に意識を絞った。
 呼吸が溶ける。音が消える。逃げる鹿の動きがいやにゆっくり見え、手には弓を引き絞る感覚だけが残っている。
 そして。
 ーー今だ。そう思うと同時に名前の矢は放たれていた。
 そしてそれは寸分違わずーー名前が一瞬前に視たのと同じところに突き刺さった。
 脚を穿たれた鹿が体勢を崩す。そのあとはもう名前の指示などいらない。槍を手にした男の一人が鹿を絶命させたところで、皆馬を止めた。

「やはり名前さんには敵いません」

 帰路にて、賞賛の言葉をくれる部下に名前は手を振った。よしてくれ、と。

「私は天然道士という者らしいからな。こういうのはズルをしているようなものだろう」

「では我々はあなたがズルをしてくれたことに感謝いたしましょう。おかげで肉に困ることはありますまい」

 また別の男が冗談混じりに言ったことで集団に笑いが広がった。
 けれど輪に入らない者がいる。ーー発だ。
 彼は物思いに耽るように目を伏せていた。

「いかがなされました」

 これもお節介だろうか、と逡巡してから、名前は馬を寄せた。

「いや、なんでもない」

「なんでもなくは……」

 ないでしょう。
 そう言いかけて、先刻の反省を思い出す。出過ぎた真似をしない。そう決めたではないか。あぁ、でも、しかし。
 もしも悩みがあるのなら見過ごせない。力になりたいというのは名前の偽りない心だ。けれど迷惑だったら。
 そんな懊悩を見抜いたのか。発は目をさ迷わせてから口を開いた。

「天然道士っつーのは、さ、やっぱ仙界に行くもんなのか」

「はて……どうなのでしょう」

 思ってもないことを問われ、名前は首を傾げた。

「仙人骨を持つ者は仙界へ、というのが常でしょうが、そこから外れた者も必ず向かわねばならないのかは聞いておりませんでした」

 だが殷の武成王も天然道士と聞く。となると人間の道を行くも仙界へ向かうも自由ということだろうか。一応仙界入りもスカウト制をとっているというし……。
 そう答えると、発は少し表情を和らげた。

「なんだそのテキトーさは。ちゃんと聞いとけよ、自分のことなんだから」

「確かにそうですね」

 今度折を見て太公望に訊ねておこう。もちろん名前としては今すぐ仙界へと言われても困るから、そうなっても断るつもりだ。何せ今は動乱の世。家族も主もいる邑を残していくことなどできるはずもない。
 ということを告げると、発は「そうか」と笑った。

「いや、なんだ、お前がいなくなるとつまんねーからな」

 それだけだ、と発は言って、名前から離れていった。
 若者たちと談笑を始めた発を眺めながら名前は呟いた。

「……わたしだって、あなた方のいない日々など考えられないわ」

 あるいはそれらを捨ててでも手にしたいと思う日が来るのだろうか。
 そんな未来は今の名前には想像もできなかったけれども。