康国


 風景が赤茶色になってどれほどの月日が経っただろう。
 太公望の旅には目的がなかった。どこへ行こうか。そう思案することも。
 太公望はなんとなくで方角を決めていた。だから緑豊かな草原を歩くことも、今のように砂塵舞う道を進むこともあった。
 西岐にいた頃では考えられなかったことだ。あの頃とは違い、今の名前の時間はひどく緩やかに流れていた。

「この辺りは暑すぎるのう……」

 選んだのは太公望なのに、げっそりとした顔で溜め息を吐く。それがおかしくて、名前は笑った。

「随分遠くまで来ましたもの」

 二人は長い長い道のりを歩き、康国にまで至っていた。
 そこに住まう者は太公望とも名前とも全く異なる。色の濃い肌に、高い鼻。名前もかつては彼らと接したことがあったが、それはあくまで商いのためだ。商人として西岐に出入りするソグド人を知ってはいても、彼らで埋めつくされた街を見るとやはり驚きが勝る。改めて、ここが異国なのだと思い知らされる。
 感傷に浸る名前を、太公望は一瞬だけ意味ありげに見た。だがその視線に名前が気づく前に、前方へ戻してしまう。

「まずは宿を取るとするか」

「あら、わたしは野宿でも平気ですよ?」

 そう名前が言うと、「馬鹿者」と言った太公望に頭を小突かれた。
 大切にされているのだ。それがわかるほど名前は太公望と共に旅をしていた。長い時間を、彼と共に。
 ーーかつて起こった革命が過去となるほどに。

「さすがはソグド人の国、珍しいものが沢山ありますね」

 宿を取った二人は街の大通りを歩いていた。これこそ旅の醍醐味。知らぬものを知るのはいつになっても心を踊らせる。
 シルクロードを支配すると言っても過言ではないソグド人。彼らの開く露店には様々なものが並んでいた。
 名前にとっては懐かしい陶磁器や、逆に見慣れない大粒の真珠などの宝石類。西方の品から東方の品までが康国には集まっていた。

「まぁ、血赤珊瑚まであるわ」

 名前はもの珍しさから露店に立ち寄った。
 血赤珊瑚。その名の通り血潮に似た色をした珊瑚は、その希少さから高値で取引されていた。そんなものまであるなんて、と感嘆する名前に、露店の主人は「そうだろう」と満足げに頷いた。

「ここで逃したらいつ会えるか分からんぞ、お嬢さん」

「そうね、でもわたしは商人ではないから」

 買っても腐らせてしまうだけだ。
 名前の言葉に、主人は驚きを見せた。
 それもそうだろう。明らかに異国の血が流れているとわかる外見に、旅人らしい清貧な装い。おまけにここは康国。主人が勘違いするのも仕方がない。

「そりゃあ珍しい。お嬢さんみたいな若い娘が旅とはね」

「ええ、でも一人ではないから」

 名前は、そっと視線を走らせた。太公望。彼は雑踏の中、名前を待っていた。その視線に気づくと、軽く手を挙げて応えてくれる。
 名前もそれに返すと、また主人に向き直った。

「だからごめんなさい、わたしにはこの珊瑚の主になる資格がないの」

 しかし主人は少し考えた後で、「いや、」と首を振った。

「これはお嬢さんが持つべきだろう」

 そう言って、珊瑚の連なる腕輪を名前の手に握らせる。あぁ、やっぱり。主人は名前を見上げ、笑った。

「お嬢さんにはこの紅がよく似合う」

「でも、」

「いいから貰ってくれ。普通じゃない代物には普通じゃないアンタみたいな主がいないと」

 名前が目を見開くのを見て、主人は笑みを深めた。「やはりそうか」一人納得して、主人は名前の手の甲を撫でた。

「わかるさ、アンタらの気配は人とは違う。こんな土埃にまみれてたって、清浄な空気は隠せやしない」

 さぁ行った行った。「それを着けてうちの宣伝でもしてくれりゃあ十分だ」主人はそう言って、名前を追い返す。躊躇いの残る名前が数度振り返っても知らんふりを決め込んで。
 だから名前は仕方なしに太公望の元へと戻った。

「ん?どうかしたか」

「いえ……」

 太公望に問われ、名前は手を開く。そこに収まったままの血赤珊瑚。主人とのやり取りを包み隠さず話すと、太公望は名前の肩を叩いた。

「よいではないか、貰えるものは貰っておけ」

 彼は名前の躊躇いを笑い飛ばす。
 そしてその腕輪を手に取ると、名前の手首にするりと嵌めてしまった。

「太公望どの?」

「いや、主人の見立て通りだと思ってな」

 ーーやはりおぬしには紅色が似合う。
 太公望の台詞に、目眩がした。
 紅色。それが名前には似合うと言った人がいた。かつて、この旅に出る前に。名前がその手で手放した人が、そう言った。

「……名前、」

 太公望の囁きに、肩が震える。たぶん、眼差しも。
 揺れる瞳で、名前は太公望を見た。そこには未だ過去を過去とすることのできていない未練がましい人間が映っていた。

「帰りたいか?」

 でも、その問いには否としか答えられない。「いいえ、」もう、名前は選んでしまった。差し出された手を、拒んでしまった。
 ーー武王の願いに、応えられなかった。
 かつて名前は恋をした。ささやかな、淡いばかりの恋をした。そしてそれは今も変わらず胸にある。思い出は思い出となってなお、いや、一層美しいものとなっていた。
 だから武王の求めには応えられなかった。彼が望んだのは臣下としての名前ではなかったからだ。彼の、武王の正妃としての名前を望んだからだ。
 そしてそれを拒んだ名前が、周に居座ることはできない。彼が許したとしても、名前が許せなかった。
 だから旅に出た。もう二度と故郷の地を踏むことはないだろう。そう、すべてを過去にするつもりで。
 なのに、太公望と出会ってしまった。同じく旅に出ていた彼と。
 元より行く宛などなかった。故に太公望から誘われ、つい頷いてしまった。彼と過ごす時間はあまりに平穏で、居心地が良くて。
 過去との繋がりを断ち切るはずだったのに、共にあることを望んでしまった。
 今だってそうだ。名前が太公望の手を離せばいい。それで名前は過去との繋がりをなくせる。そう、わかっているのに。

「このまま、あなたと共に」

 見たことのない風景を見たいと思う。知らない世界に触れたいと思う。他でもない、この人と。

「……あぁ、」

 太公望は名前の手を離さない。彼は優しいから。その優しさのせいで、要らないものまで背負い込んでしまう。

「ごめんなさい」

 謝る名前に、太公望は逆に眉を下げた。

「……おぬしだけの責任ではない」

 そう言った太公望の声は、絞り出すような苦しさを孕んでいた。