アンシャン


 オアシス都市の点在する砂漠を越え、太公望と名前はエラムに入った。
 エラムーーザグロス山脈一帯に広がる地域。その主要都市、アンシャンにあっても、夏季の暑さは厳しいものだ。

「やはり北へ行くべきだったかのう……」

 岩盤をくりぬいて造られた館。外気よりも冷ややかな室内に、ようやく人心地つけたと太公望は溜め息を吐いた。どうやら砂漠越えがよほど堪えたらしい。
 かくいう名前も同じだった。自分では平気だと思っていても、体には疲労が溜まっていたらしい。一度座ってしまうともう立ち上がろうという気になれなかった。

「しかし北といってもどのみち砂漠しかなかったでしょう」

 エラムより東、そこには大きな砂漠が広がっている。北へ進んだとしてもアルボルズ山脈まで行かなければ落ち着くことはできなかったであろう。
 北へ進もうと西へ進もうと、酷暑なのは変わらない。

「それに北は北で大変ですよ」

 部屋に入ってきたのは館の主、太公望ら旅人を快く受け入れてくれたこの地区の統治者だった。
 「冬も寒いというのに夏はここよりずっと暑い。まぁ、最北端まで進めば話は別ですが」遊牧民の血筋故か、鋭い眼差しをした男であったが、しかし語調は顔に似合わず柔らかい。それはこの土地の豊かさを示していた。
 男は二人のためにわざわざ水を持ってきてくれた。「お疲れでしょう」そう言って。

「すみません、部屋を貸してくださるだけでもありがたいことだというのに」

「いやいや、困ったときはお互い様ですよ」

 男は笑い、いくつかのことを教えてくれた。この地方のこと。栽培しているもの。それから、この先のことを。

「進むなら北西へ。ここから西への道のりは困難でしょうから」

 エラムより西といえば、バビロニアがある。だがその間には砂漠と湿地帯が並び、人の行き来は少ない。今の時期ならなおのことだ。
 それよりも北西へ行った方がいいと男は言う。

「ここからなら砂漠を渡らずとも進めますし、何より暑さも和らぎますから」

 目指すならチラチスーーザグロス山脈の中にある都市が最適だ。
 太公望はさして考えた様子もなく、「ではそうするか」と頷いた。元より目的などない旅だ。悩む必要もあるまい。
 男が出ていくと、名前は早速靴を脱いだ。我慢ならなかったのだ。長い旅路にすっかり蒸れてしまった脚。土埃で汚れた靴を放り、主人の用意してくれた水に足を浸した。
 水の冷たさは一瞬あとには心地のよいものとなる。体に残る熱と冷水。それらが混じり合い、解放感が広がっていく。
 名前はほう、と息を吐いた。

「…………、」

 それを太公望は黙って眺めた。何か、物言いたげに。
 けれど名前が気づくより早く、その視線は外された。それはどこか手慣れたものであった。
 太公望は名前と同じように木桶に足を入れ、同じように息を吐いてから、「少し休んだら外に出てみるか」と言った。

 アンシャンでは定住生活が主らしい。点在する小屋に、整えられたカナート。人々は大麦やミレットを育て、冬季には糸を紡ぐ。そうして生計を立てているのだ。
 名前たちは道中煎じた薬や薬草と引き換えに必要なものを手に入れた。
 この街は随分平和らしい。名前たち余所者にも積極的に関わってくる。これはどうだ、あれはどうだ。歩いているだけで店先から声をかけられた。

「お嬢さん、ほれ、これを飲んでみなさい」

 初老の女が持っていた器には赤黄色の液体が注がれていた。どうやら飲み物のようだが、いったいなんだろうか。
 少し考えたあとで、名前はそれを受け取った。一口。味がわかる程度に掬い取り、舌で転がす。

「どうだ?」

 興味津々といった様子で太公望は名前の顔を覗き込んだ。
 「甘くておいしいわ」笑いを返し、ついでに器も手渡す。きっと太公望も気に入るだろう、そう思って。
 そしてその予想は正しかった。

「おお!確かにこれはうまい!!」

 甘味好きの太公望。彼の目は輝き、残っていたものをすべて飲み干してしまった。

「わたし、まだ一口しか飲んでいませんが」

「す、すまぬ……ついな」

 二人の反応に、女は満足そうに大きく頷いてみせた。「そうだろう?」女はこれを作るのがこの街一うまいらしい。得意気に語る姿が微笑ましくて、名前は目を細めた。

「これはなんですか?果物だとは思いますが……」

 独特のとろりとした食感。それは貴重品である蜂蜜を連想させた。けれど蜂蜜と違い、こちらには酸味が残っている。
 どこかで似たものを食べたような気もするが、記憶のどれとも合致しなかった。
 首を捻る名前に、女はあっさり答えをくれる。

「これはデーツだよ」

 デーツ。またの名をナツメヤシというそれは、この辺りでは馴染み深い食べ物であった。
 確かに名前も食べたことがある。この街に辿り着くまでの道のりの中で。
 ただそれは保存食としてのものだったから、記憶と結びつかなかったのだ。粉状にさせられ、小麦と混ぜられたそれとは。

「気に入ったんならしこたま買っていくといいよ。こいつは長持ちだし旅のお供には最適さ」

 実をそのまま食べてもいいし、干してもいい。こうして飲み物にすることもあれば菓子にすることもある。
 女が語る調理法を名前は熱心に聞いた。太公望が気に入ったものだ。覚えておきたいと思った。

「帰ったら早速試してみますね」

 女と別れ、雑踏を歩きながら名前は腕を捲った。「楽しみにしててください、太公望どの」そう言った名前に、彼はなぜだか呆れ顔だ。

「名前……おぬしというやつは……」

 今日くらい休め。
 名前に命じて、太公望はその手から荷を奪い取った。たちまち上がった残念そうな声には無視を決め込んで。
 そしてその宣言通り、この日は早々に寝台に押し込まれてしまったのだった。