殷の公主、降嫁を願う


 ーー殷の後宮には魔が住まう。
 そう聞いてどれだけの人が信じるだろう。紂王の寵妃である妲己が、妖怪だなんて。

「……誰も、信じちゃくれないわ」

 唯一の理解者だった黄氏は亡くなった。希望だった太子もこの地を去った。この後宮にて、元公主ーー名前は孤独だった。

「浮かない顔ですね、公主」

 ひとりぼっちの名前に構うのは道化くらいなものだ。
 道化ーー申公豹は常と変わらず霊獣に跨がり、後宮の小さな空に浮かんでいた。そんな小さな空にすら公主の手は届かぬというのに。
 道化は笑いながら名前を見下ろしていた。

「なにかご用ですか?」

 名前は顔も上げず冷ややかに問うた。
 「それとも、」つ、と視線を流す。道化へと。挑むような、あるいは媚びるような、そんな目で、申公豹を見た。

「わたしを嫁に迎える気になったのかしら」

「ははっ、まさか」

「そうですか」

 申公豹の答えに、名前の興味は途端になくなった。
 先刻の色など嘘のように、名前は視線を外した。名前の興味は下界ーー外にしかない。そしてそこに通じていないのなら、名前にとって道化の価値などないに等しかった。

「そんなに出たいんですか、ここから」

「当たり前でしょう」

 後宮とは既に名ばかり。紂王は妲己にしか関心がなく、その他の女などすべてが徒となってしまった。
 妲己の虜なのはなにも紂王だけではない。官女も宦官もーー殷という国自体が妲己の手中にある。
 そのなかでただひとり生きていくのは、名前にはあまりに酷な話だった。
 後宮にいる限り、公主は朽ちているのと同じ。だから申公豹が「あなたは殷の公主なのに?」と意味深に言うのにも心は揺らがない。
 名前は座したまま、空を睨んだ。その先にあるものを。

「だからこそよ。殷を真に思うならこんなところにいても意味などないでしょう」

「ですがあなたに妲己と戦う術はない」

 申公豹は笑う。笑いながら、公主に傷をつける。真実という傷を。
 太子が亡くなったと、名前に報せたあの日と同じように。

「こんなことなら早々に降嫁しておくべきだったわ」

 名前は溜め息を吐いた。
 降嫁ーー臣下に嫁がない限り、公主は後宮から出られない。
 名前も適当な相手に嫁ぐはずだった。殷が正常であったならば。だがそれも妲己がいる今となっては叶わないだろう。公主が嫁ぐとして、それは妲己の思惑の下でしかあり得ないのだから。

「たとえば黄家とか?」

「そうですね、黄家なら家柄も能力も申し分ないわ」

 黄家。殷でも指折りの有力者。そして今では殷を離れた裏切り者。
 そういえば幼い頃はそんな話も出ていたな、とあまりに遠すぎる過去に思いを馳せる。黄家なら安心だ。そう言ったのは紂王だったか、それともーー

「あなたは心底殷の公主なのですね」

 申公豹は感心したように言った。公主が焦がれてやまない空から降り、公主の目前に立って。

「少女らしく恋を追いかける道もあったでしょうに」

 名前の心を抉らんと、言葉を紡いだ。
 けれど名前は表情を変えない。何も映さない瞳で申公豹を眺める。
 その反応が道化の琴線に触れたとは気づかずに。

「あなたの口から恋なんて単語を聞く日が来るとは思いませんでした」

 驚いたといわんばかりの言葉。それとは対照的に、名前の声音に感情はない。気のない語調で名前は続けた。

「恋なら一人でもできます。たとえあの方が亡くなったとしても」

 それは独り言のような響きをしていた。達観。諦念。それらの入り交じった声は、もはや少女のそれではない。無邪気に聞太師を慕っていた公主のそれでは。

「……気が変わりました」

 申公豹は名前の手をとった。
 指先の冷えたそれはだらりとたれている。何をされようとどうだって構わない。そんな気配が、申公豹にとっては面白くない。
 ーー公主にも、舞台に上がってもらわねば。

「あなたはたった今から私のものです」

「それはここから出してくださるということかしら」

「まぁそうなりますね」

 それならいいわ、と名前はあっさり頷いた。「あなたの好きになさって」殷の元公主はなんの躊躇いもなく申公豹の手を掴んだ。

「いいんですか、本当に」

「構いません。だってここにいたって散るだけですもの」

 徒花として、ただ時が過ぎるのを待つしかない。

「それならあなたに着いていった方がよほどいい」

 名前の目に光が宿る。
 父の愛を失い、母という加護をなくし、兄弟を奪われ、何も持たなかった公主はもういない。
 それが不思議と申公豹の心を踊らせた。歓喜と期待。名前がこれから辿る道を考えるだけで笑みが深まる。
 まずは、そう。殷を愛する男がどんな反応をするか。

「楽しみですねぇ」

 くつくつと笑う申公豹に、名前は関心の薄い視線をやった。それは到底夫となる男を見るものではなかった。