殷の公主、道化の手をとる


 申公豹の妻となる。
 その願いは存外あっさり受け入れられた。

「鬼の居ぬ間に、というやつですよ」

 申公豹の言う鬼とは聞太師のことだ。
 殷を真から思う彼ならば確かに異を唱えたろう。元公主が仙道に嫁ぐ。それは殷に利益をもたらすものではなかったし、そもそも前例がない。彼が拒絶するのは当然のことだ。
 だから今は彼がいなくて良かったと思う。そんなこと、幼い頃は考えもしなかったのにーー
 物思いに耽る名前をよそに、申公豹は呑気に書を開いていた。

「さて、新婚旅行はどこにしますかねぇ」

 坐具に寝そべり、すっかり寛いだ様子の申公豹。そんな夫を前に、名前は溜め息を吐いた。道化はやはり道化。何を考えているのかさっぱりだ。
 とはいえわからないのはそもそも始まりからだ。なぜ申公豹は公主の願いを聞き届けたのか。
 彼は妲己の味方ではない。けれど、敵でもない。傍観者を決め込んでいた男が、どうして。
 おまけにこの男、公主の降嫁が決まるや否や、朝歌の城から程近い場所に屋敷を構えた。
 それを聞いたときは一体どれほど珍妙なものをーーとあれこれ想像してしまったものだ。だが名前の危惧を裏切り、申公豹の屋敷は公主のよく知る房室と変わりないものであった。
 庭には梅の木が植えられ、室には豪奢な寝牀がひとつ。文机や榻、果ては香炉まで備えられた房室。異形なのはこの室に頻繁に出入りする申公豹本人くらいなものだ。他でもない、彼がこの屋敷の主であるというのに。
 そしてそんな彼に対し、名前は呆れを隠さず口を開く。

「何を仰っているのかわたしには理解できませんわ」

「おやおや、あなたの頭がそれほど悪いとは……私も目が狂ったのでしょうか」

「狂っているのは目だけではないのではなくて」

「言いますねぇ」

 何が愉しいのか。
 申公豹はよく笑う。いつも笑ったような顔をしているが、近頃はとみによく笑うようになった。
 それが不気味だ、と名前は思う。得体の知れないもの。自分の預かり知らぬところで事が進んでいる。そんな予感が拭えなかった。

「やはりここはご挨拶も兼ねて金鰲島にすべきでしょうか。ほら、聞仲にはまだ報告してませんし」

 申公豹の言葉に、墨を擦る手が止まる。
 名前が目を上げると、申公豹はにやりとした。

「やっとこちらを見ましたね」

 ーーやはりあなたにとって聞仲は特別だ。そしてそれはきっと……彼にとっても。
 申公豹の思惑に乗るのは癪だった。けれど、それでも。

「まだ、太師が戻る様子はないのですか」

「ええ、まぁ」

 申公豹は含み笑う。彼は知っているのだ。今聞仲が何をしているのか。なぜこれほど長期間朝歌を離れているのか。何もかも知っていて、だからこそ彼は口を割らない。きっと、名前が乞わない限り。

「……無事ならば、よいのです」

 言いながら、矛盾していることに内心苦笑する。
 太師は殷の永遠を願っている。対して名前は、殷の終焉を望んでいた。
 覆水盆に返らず。いくら器を直そうと、流れた水は戻らない。
 国も同じだ。殷は滅びの道を選んでしまった。後戻りはできない。失った人心は、帰ってこない。
 だから公主にとって太師は最も大きな障壁であった。なのにそんな彼の無事を願っている。周に倒される日を夢見る心で、殷を愛する彼を想っている。
 相反する心を見抜いてか。申公豹は笑みを深めた。

「やはりあなたは面白い」

 妲己に譲らなくて正解でした。
 さらりと言われた言葉に、名前は目を見開く。

「いま、なんと」

「ですから、妲己の手に渡さなくてよかったと。彼女にとってあなたは邪魔な存在ですからね」

 当たり前のように彼は言うが、名前には心当たりがない。
 妲己が現れ、紂王が乱心し、国が乱れ。それでも名前は黙っていた。息を殺し、機を伺った。いつか自分の命を有用に使える日が来る。そう信じて。
 それはあまりに儚い希望だった。妲己に隙はなく、公主に力はなく。あまりにも先が見えなかったからーーようやく名前は動いたのだ。妲己の手中から逃れようと。申公豹が彼女の味方ではない、ただその言葉だけを頼りに。
 そんな公主が妲己の目に止まるだろうか。妲己に男児がいて、名前が男であったならわかる。自分の子を王位につけたい。それは妃嬪として当然の感情だ。
 けれど妲己に子はなく、名前は女だ。いずれ降嫁する身。なのに妲己は公主をーー

「……害する、つもりだったのですね。それも、近いうちに」

「私に拾われて幸運だったでしょう?」

 申公豹は否定しなかった。それは肯定しているのと同義だ。
 目眩がした。
 妲己の狙いが、目的が、わからない。

「どうして、わたしを」

 答えなど求めてはいなかった。それでも呟かずにはいられなかった。ただ、それだけだった。

「あなたが殷の正当なる血筋を引く公主だからというのもありますが……、一番は聞仲の泉門だからでしょう」

 しかし申公豹は答えをくれた。彼は悠然とした様子のまま、公主を見た。
 その眼差しを受け止め、名前は考える。彼の発言の意味するところを。
 殷の公主。殷の太師。それらの排除。そこから導き出される未来は。

「殷の、滅亡……?」

 言ってから、まさか、と首を振る。まさか。だって、紂王の妃がそれを望む理由がない。国が滅んでは、妃となった意味がない。
 でもそれ以外に思いつかなかった。
 それに、と申公豹の目を改めて見返す。
 何を考えているのか、ちらりとも見えない黒々とした瞳の奥。ほんの微かに瞬く光を見つけた。

「よくできました」

 にんまりと弧を描く口。名前を褒める言葉。それが何よりの答えだった。

「では、わたしは、」

 どうすればよいのだろう。どうするのが最善なのだろう。
 世界をひっくり返された名前には見当もつかない。だから差し出された手を取るしかなかった。

「私に着いてきなさい」

 たとえ男が道化であっても。彼には彼の目的があるのだとしても。公主を利用しているだけなのだとしても。
 それでも名前は真実を求めた。
 恋うる人を傷つけることになったとしても。