正妃の憂い
燭台の炎が淡く揺れている。
それをぼうと眺めていると、意識が溶け出していくのがわかる。輪郭がぼやけ、思考が鈍る。
気づけば名前は懐かしい草原に立っていた。鎬京となる前のーー西岐の都に。名前がただの武官であった頃に。
稜線の向こうに夕日が沈んでいく。橙と朱。山も草原も燃えているかのようだった。燃えているかのように、輝いて見えた。
馬上で名前は目を細めた。遠駆けの帰りにこうして空を見るのが好きだった。そうしているとなんでもできるような気がするのだ。世界は広く、名前を縛るものはなく。どこまでもどこまでも駆けていける、そんな気がしていた。
ーーけれど、今は。
「……名前?」
赤い格子戸が鳴る。途端に目の前の景色は陽炎のように歪んで、儚く消え去ってしまう。代わりに残ったのは燭台の頼りない灯りだけ。名前がいるのは広大な草原ではなく、寒々しいばかりの房室であった。
「どうかしたのか?」
格子戸の向こうで声がする。名前を気遣う、けれど遠慮がちな声。それにも違和感を覚えてしまう。もどかしさ。焦燥感。それらを隠し、名前は「いいえ」と答えた。
「少し、夢を見ていたようです」
姫発さまーー
開け放った先に立つ男は、「そうか」と表情を緩めた。その目に浮かぶのは安堵だろうか。それは到底王の名を冠する者とは思えないものだった。
だからこそ名前の胸中にはもやもやとしたものが広がる。彼が名前を気遣うたびに。彼が控えめな態度をとるたびに。
どうしようもなく、心が逸るのだ。
「声などかけずとも……好きになさればよいのに」
姫発を房室に招き入れ、名前は寝牀に座る。姫発も一度足を止めてから、やはりその隣に腰を下ろした。
彼は眉を下げて笑った。「そういうわけにもいかないだろう」彼は名前の意思を尊重していた。それはわかる。わかるからこそーー息苦しさを感じてしまう。いっそのこと、有無を言わさず押し通してくれればいいのに。命じてくれた方がよほど楽だったとすら名前は思う。
そんな思いなど知らず、姫発はぐるりと部屋を見渡した。
「何か不足はないか?欲しいものは?やりたいことでもいいぞ」
「……もう、十分です」
必要なものはすべて揃っている。寝牀も、卓子も、厨子も。
あるのは家具だけではない。香炉からは白檀の清らかな薫りが立ち上ぼり、衣装箱の中には数えきれないほどの衣が仕舞われている。碁や将棋、双六といった遊戯物もあれば、楽を奏でるための笛や珍しい書物、刺繍のための下絵や白絹まで名前の元にはあった。
それは、一生を房室で暮らすことができるほどに。
なのに姫発はまだ名前に尽くそうとする。
「相変わらず欲がないな」そう呆れた風に言って。
「琥珀はどうだ?前にきれいだって言ってたろ。首飾りにしたらいいんじゃないか」
「きれいだと思うのと欲する気持ちはまた別物ですよ」
「じゃあ……真珠、真珠はどうだ?それともやっぱり紅玉の方が……」
「姫発さま、」
名前が固い声を出すと、姫発はそれまでの様子が嘘のように口をつぐんだ。名前を見つめる目が、揺れている。
「わたしは、もう十分です」
もう一度。名前は噛み締めるように言った。もう十分だ。それは自分に言い聞かせるためでもあった。
不自由のない暮らしだ。王の正妃。女なら誰しもが憧れる立場。それに相応しく、名前の周りも華美に彩られている。名前が奢侈だと感じるほどに。
それは贅沢な不満だ。持っているからこそ生まれるものだ。だから名前は口に出せないでいた。本当に欲しいもの。本当の、望みを。
「……そう、か」
姫発は何事か言いかけた。けれど結局は頷くだけに留めた。その瞳の奥に不安の闇を残したまま。
それでも名前にはかける言葉がない。どうしたらいいのか。それすらも。
姫発とこんな風になりたいわけじゃなかった。彼から求められた時もこうなるとは思っていなかった。
年若い身で大国を背負うことになった姫発。そんな彼を変わらず支えることができる。最初はそう思った。その時には喜びすらあった。妃という身分には分不相応だという気後れもあったが、それでも新たな立場で武王の役に立とうと名前は心に決めた。
そのはずだったのにーー。
「……名前、」
姫発の手が伸びる。躊躇いがちに、けれど確かな意図を持って。
燭台の灯りは頼りなく、姫発の顔に影を落としていた。しんとした静けさがいやに耳についた。広がる夜闇は蜜のようにとろけ、名前の体を絡めとった。
「いいか?」
問いかけに、名前は頷いた。こんなことをしなくとも拒みはしないのに。そう、思いながら。
頬に触れた手が滑り落ちる。名前の肩は押され、夜具に倒される。視界にあるのは姫発の顔だけ。天井は遠く、意識もまた、どこかぼうとしている。
姫発の口づけは優しかった。いつだって、彼は壊れ物を扱うように名前に触れた。それにももどかしさを覚えるけれど、名前が口にすることはない。
「……わるい」
ここまでしても、姫発の目は未だ揺れている。たぶん名前が拒めば彼はすぐに離れていくだろう。それがわかるから、名前は首を振った。
「謝らないで」
名前が背に腕を回すと、姫発は泣きそうな顔をした。その目に浮かぶものを見極める前に、名前の唇は再び塞がれた。今度は深く、熱く。
名前はゆるゆると瞼を閉じた。流れに身を任せる。そうすれば万事うまくいくのだと名前より先に結婚した女たちは口を揃えて言っていた。
でもそれは本当に正しいのだろうか。
そんな思考も次第に溶けていく。名前にはもう、首筋にかかる情欲を孕んだ吐息と、夜着の紐が解かれる気配しか感じられなかった。