正妃の痛み


 冷ややかな気配を感じ、名前は目を覚ました。
 と同時に視線は自然と隣に移る。そうしてから、名前は苦笑した。そこには温もりすら残っていないと知っているのに。それでもなお、期待してしまう。最早それは習慣となっていた。
 一人には贅沢すぎる寝牀から体を起こし、身支度を整えていく。
 響く衣擦れの音。虚ろな房室にはそんな細やかな音でさえ耳につく。
 そのたびに思うのだ。この室はこんなに広かったかしら、と。
 武王によって新たに作られた宮。掖庭宮。女だけの園はしかし、今は名前以外の主を持たない。空の房室だけが居並び、官女や宦官が行き来する。名前はただ、緩やかに流れる時に身を置くだけ。
 わかっていたことだった。後宮に入る。それは即ち外界との断絶を意味する。贅と引き換えにその身を捧げるのだ。王のためだけの華として。
 名前は窓紗を開く。一分の隙もなく手入れが行き届いた庭院。見頃を終えた蝋梅は黄色い実をつけ、代わりに梅の花が控え目に綻んでいた。
 それでもなお寒々しいと思ってしまう。たとえ、庭苑が春を迎えたとしても。
 けれどもし、隣に彼がいてくれたならーー

「もうお目覚めでしたか」

 部屋に響いたのは思い描いていたのとは全く異なる声だった。
 名前付きの侍女は「相変わらずお早いのですね」と言い、手慣れた所作で朝食を並べていく。
 しかし卓子の上に置かれたそれを見ても名前の心は晴れない。いや、余計に気が塞いでいくのがわかった。
 侍女は役目を終えれば脇に控えてしまう。席に着くのは名前だけ。一人きりの食事にはいつまで経っても慣れそうにない。
 それでも受け入れなくてはならないのだ。名前はこの殿舎の主で、武王の正妃なのだから。

 朝食を終えれば昼まですることはない。
 名前は手慰みに龍笛を奏でることにした。特段そうしたいという意思があったわけではない。時間を潰せるのなら裁縫をしてもよかったし、侍女を呼んで遊戯に耽ってもよかった。
 そんな気持ちのせいか。響く音色はどこかもの悲しく、寂しげなものとなっていた。

「見事です」

 そんなものに拍手をくれたのは邑姜だった。
 いつの間にか房室の入口に立っていた彼女は、つかつかと迷いのない足取りで名前に歩み寄った。

「噂には聞いておりましたが、本当にお上手なのですね」

「噂?」

 名前の隣、榻に腰を下ろすと、彼女は「はい」と頷いた。

「武王から聞きました。あなたのことは他にも色々と」

「そう……」

 武王。邑姜の口から彼の名が出るだけで胸が軋む。
 名前が姫発と共に過ごせる時間は少ない。正妃になる前の方がよほど一緒にいたくらいだ。
 けれど邑姜は。彼女は、武王と共に在る。後宮ではなく、彼の隣で。ーーかつての、名前のように。
 この痛みは己の消失への恐れだろうか。ただ待つことしかできない、それしか価値のない自分へのもどかしさ故だろうか。
 顔を曇らせた名前に、邑姜は微かに眉を上げた。けれど問うことはしなかった。これは武王と正妃の問題だ。
 代わりに、彼女は本来の目的を告げた。

「今日こちらに伺ったのは春節の宴についてです」

 表情を改めた邑姜につられ、名前も居住まいを正す。
 邑姜は「ご存知でしょうが」と前置きをしてから言葉を続けた。

「後宮は後宮で春節の宴を催すのが慣例となっているでしょう?だから此度も、とは考えているのですが」

 邑姜の躊躇いはわかった。
 今の後宮は名ばかりで、武王の妻と呼べるのは名前しかいない。それでも慣例となっている宴を無視するわけにもいかない。
 「構わないわ」名前はそう笑った。

「心配してくれてありがとう。ですがわたし一人でも平気です」

「しかし、」

 侍女の主は名前だけ。つまり彼女らの差配を行えるのもまた名前しかいないということになる。
 それでも自分などに仕えてくれているのだ。感謝を込めて祝宴を催したい。
 それに。

「……今は、少しでも働きたいの」

 そうでないと、己を見失ってしまいそうで怖い。夜毎王の訪れを待つばかりでは、本当にただの華に成り果ててしまう。武王の正妃という立場しかない、女へと。

「……そうですか」

 邑姜はそっと名前の手に自分のそれを重ねた。
 驚く名前に、邑姜は仄かな笑みを送る。

「春節に向けて、武王は仕事に追われています」

「そう、でしょうね」

 春節の朝には朝賀の儀が行われる。大極殿に集った文武百官が武王に祝いの言葉を送るのだ。
 そうでなくても周は建国されたばかり。やるべきことが山積しているのは名前とてわかる。
 だから邑姜の発言に戸惑った。彼女がどうしてそんなわかりきったことをわざわざ口にしたのか。
 困惑を露にすると、邑姜は笑みを深めた。彼女の目にはその若さには似合わない慈しみの色が宿っていた。

「ですから、行事が終わったら武王には休息をとってもらおうと思っているのです」

 皆まで言わずとも、それが彼女の気遣いだとわかった。
 なのにその優しさが今の名前には眩しすぎた。敵わない。咄嗟にそう思ってしまい、その事実にも打ちのめされる。
 才能に長けた少女。年若くとも有り余るほどの才を持った彼女がいれば武王の治世は安泰だろう。名前がいなくとも。ーー名前が、隣に立つよりも。

「名前さん?」

 気遣わしげな声に、我に返る。
 「ごめんなさい、なんでもないのよ」慌てて言い繕っても、翳りは隠せない。
 それでも名前は口角を上げた。

「いい考えだと思うわ。武王もたまには市井に降りたいでしょうし」

 言いながら、胸はきりきりと音を立てる。苦しい。息をするのも、彼を思うのも。ーー市井に降りた彼が、誰かと情を交わすのも。

「……大丈夫ですよ」

 邑姜に抱き寄せられながら、名前は目を閉じた。
 彼女の腕の中は不思議なほど温かかった。彼のものよりずっと、心が安らいだ。
 それに気づいて、名前はまた悲しくなる。
 こうなりたいわけじゃなかった。
 けれど、どうすればいいのかも名前にはわからなかった。