妹弟子の日常
名前には尊敬してやまない人がいる。
ひとりは師、玉鼎真人。
そしてもうひとりは兄弟子にあたる男、
「……楊ゼンさま!!」
その人の背に駆け寄りながらーー名前は剣を振りかぶった。
狙い通り。切っ先は名前の思った通りの線を描いた。
はずだったのだけれど。
「……やれやれ、相変わらず君の挨拶は物騒だね」
楊ゼンはかすり傷ひとつ負うことなく、それどころか優雅に髪を掻き上げながら、名前の背後に立っていた。
また、交わされてしまった。
完全に背後をとったと思ったのに。
「……諦めませんから!」
名前は悔しさに歯噛みしながらも、それでも楊ゼンをキッと睨み付けた。鋭い視線。闘志に燃える瞳。いつか必ず、絶対に。この人に一太刀浴びせてみせる。
聞き飽きたそれに、楊ゼンはやれやれと肩を竦めた。
「いったいどうしてこんなじゃじゃ馬に育ったんだか……。同じ師を持つとは思えないな」
「楊ゼンさまがなんと言おうと構いません。だって、玉鼎さまはそんなわたしを可愛いと言ってくださるもの」
胸を張る名前に、溜め息を吐く楊ゼン。
玉泉山金霞洞ではすっかりお馴染みとなった光景。その始まりはおよそ10年前に遡る。
西岐の将軍、南宮括。その長女として生を受けた名前は、幼少期に玉鼎真人に見出だされ、崑崙山へと居を移した。
崑崙山では多くの道士が修煉に励んでいた。道士の一番の目標、仙人となるために。
けれど名前の目的は少し違う。
名前はただ、強くなりたかった。
初めは西岐の力となるために。その次は己の限界に挑むために。
そして今は彼らにーー楊ゼンに、認めてもらうために。
兄弟子である楊ゼンは天才と誉れ高い。妹弟子としては誇らしい限りだ。どうだ凄いだろう。そう吹聴して歩き回りたいくらいには。
だが天才である楊ゼンはまだまだ半人前の名前に本気を見せてくれない。いつだって仮面を被ったまま。刃を交えても手加減されているのが名前にはわかっていた。
それがたまらなく悔しい。
妹弟子として。崑崙の道士として。名前は彼に認められたかった。
だから機会を伺ってはこうして奇襲を仕掛けているのだが。
「それは師匠が名前に甘いだけです。世間一般はそうは思いませんよ」
「世間一般がなんだと言うのです?師匠が白と言えば烏だって白になるのですから。常識などこの際どうだってよいではありませんか」
「うーん、この親にしてこの子ありといったところか……」
名前はいつもいつも楊ゼンに軽くあしらわれていた。この10年、ずっと。
それでも名前は諦めない。どうしてそこまで固執するかと聞かれると困ってしまうが。それでも。
この人に追い縋らずにはいられないのだ。
「それで、今日はどうなさったのですか?」
玉泉山金霞洞。そこは主の性格を体現したかのように、簡素な造りとなっていた。
というより、そもそも邸のようなものはなく、名前たちは洞穴で野宿のような生活をしていた。玉鼎真人曰く、これも修煉の一環なのだとか。
なので名前に不満はない。灯りが頼りないのだけがちょっとばかし気になるといえば気になるが。
そんな住み処へ楊ゼンを招き入れた名前は茶器を用意しながら早速訊ねた。
既に仙人と同等の力を持つ楊ゼン。玉泉山金霞洞を出てひとり修煉に明け暮れている彼だが、それでも頻繁に金霞洞へ帰ってきていた。やはり彼もまた師匠、玉鼎真人のことが好きなのだろう。彼は多くを語らなかったが、それくらいは名前にも察することができた。
だからきっと今日も玉鼎真人に用があるのだろう。
でも。
「生憎ですけど師匠は外出中です。用件は聞いていないので知りませんけど……」
間が悪いこともあったものだ。こういう時に限って珍しく玉鼎真人は留守にしていた。
お陰で名前は静功くらいしか修煉できなくて、楊ゼンが来てくれてほっとしたくらいだ。体を動かせる。それ以上に心を熱くさせるものはここにはなかった。
「そうでしたか、残念です」
楊ゼンはあっさり顎を引いた。いつ頃戻るかだとか、そういったことには言及しないで。
名前の淹れたお茶を静かに飲んだ。美味しいですね、と言って。
「よかった。とっておきのを用意したんです。五色茶の中でも特に美味しいとされるもので……」
名前は嬉々として語った。
何に対してにしろ、楊ゼンを満足させられたのが嬉しかったのだ。
五色茶。別名東方美人とも呼ばれるそれは、名前に楊ゼンの存在を連想させた。だからこの希少な茶葉の中でもさらに良いとされるものを入手した時から、楊ゼンに飲んでもらいたいと思っていたのだ。
「色は琥珀だし香りは甘いしで実際のところは全然似てませんけど……でも名前が楊ゼンさまにはぴったりだな、と」
洞穴は殺風景で、ただゴツゴツした岩肌と冷たい苔くらいしか存在しない。
だというのに、楊ゼンがいるだけでどんな雅な城にも劣らないような気がしてくる。彼がそこにいる。それだけで、世界は塗り替えられるのだ。
そんなことを思いながら、名前は微笑んだ。
すると一瞬、ほんの一瞬だけ、楊ゼンの手が止まった。
しかしそれはすぐに過去にされ、楊ゼンは「そうでしょうとも」となんのてらいもなく言い放った。いつもと同じ、涼しげな顔で。
「君の美的感覚が狂ってないのだけはわかった」
安心したよ、と楊ゼンは言う。
どうして楊ゼンが安心するのだろう。真っ先に浮かんだのはそんな疑問。だったけれど、楊ゼンは微笑を浮かべるだけで。
そういうときはどうしたって教えてくれないのをこの10年で学んだ名前はあっさり諦めた。
「しかしここに名前ひとりか……心配だな。師匠が帰ってくる前に破壊されないか」
「わ、わたしだってそれくらいの分別はつきます!」
「いやいや、わからないよ。ふと手元が誤って……とか」
ーーだから師匠が戻るまでは僕が見張っていよう。
それは提案というより提示だった。彼の中では決定事項なのだ。
といっても名前にも特別反対する理由はない。さすがに暴れ馬のような評価は訂正していただきたいが。
「いいですけど、ここ、狭いですよ」
「知ってますし平気です」
「楊ゼンさまがいいならいいですけど……」
不浄なんて知らないといった風貌のくせ、洞穴を寝所とするのに一切の抵抗を見せない。どころか、彼は敷布を敷いていないところにさえ平気で座ろうとする。
名前の方が気が気じゃなくて、あれやこれやと世話をしてしまった。長い髪を結ったりだとか、服の解れを直したりだとか、そういうことを。
それが存外に楽しくて、名前は師匠の不在を一時忘れることができた。
ついでに、楊ゼンの用事がなんだったのか訊ねることも。
それを聞き忘れたのに気づいたのは玉鼎真人と入れ違いに彼が出ていってからだった。
「そういえば楊ゼンさまの御用ってなんだったのかしら」
首を捻る名前を、玉鼎真人は子を見る温かさで見つめた。
それから、素直じゃない弟子のことを思いーー彼は表情を緩めるのだった。