妹弟子と封神計画


 封神計画。その名を名前が初めて聞いたのは7年ほど前。仙人界での生活にも慣れ、目標を兄弟子と定めた頃だった。

「元始天尊さま直々の命だ。僕は人間界に行ってくるよ」

 この頃の楊ゼンは今と違い、名前をからかうようなことはなかった。兄妹ほども歳が離れていたせいだろう。最もそれは外見に限ったことで、実年齢でいえば100年単位で世代が違うのだが。
 とにかく名前にとって楊ゼンは優しく、そして強いーー憧れの人であった。
 だからこの時楊ゼンが太公望という人の器を測ると聞いて、内心気が気でなかった。
 元始天尊直々の命。封神計画。恐らくそれは確実に遂行されなければならないーーそれくらいに大きなことなのだろう。わざわざ楊ゼンを指名するあたりも事の重大さを示している。
 しかし楊ゼンは厳しい。己にも、他人にも。そんな彼が器を測る。測って、その上で協力するか否か決めるという。

「あの、手加減するおつもりは」

「あるわけないでしょう」

 バッサリ。そこには少しの躊躇いもない。
 名前は太公望という道士に同情した。顔も素性も知らぬ相手ではあるが、それでも。

「でも封神計画が止まってしまっては困るのでしょう?」

「その時は僕が引き継ぎますから名前が心配することなどありませんよ」

 見事に名前の心情を言い当て、楊ゼンは微笑む。
 そして名前の髪を一撫でし、彼は人間界へと降りていった。

 名前の想定が外れたのはこのあと。
 なんと楊ゼンが太公望を認めたというのだ。認めて、その上で彼の力になろう、と。

「そんな……」

 俄には信じがたいことだった。
 名前にとって、楊ゼンは特別だ。楊ゼンと師である玉鼎真人。この二人こそが名前にとって、そして名前の世界にとって特別な存在だった。他の者の世界にとっても同じだと、そう信じていた。
 なのに楊ゼン本人が自分より太公望の方が優れているというのだ。すぐに受け入れられないのも当然だろう。

「ならば今度はわたしが……、いえ、わたしは自分の目で確認しなければ納得できません!楊ゼンさまが誰かの下につくなんて!!」

「名前……」

 楊ゼンの困ったような顔。そんな顔を向けられて、名前はぐっと言葉に詰まる。
 納得できない。でも、彼にそんな顔をさせたいわけじゃない。しかし、それでも、やっぱりーー

「……絶対、楊ゼンさまの方がお強いもの」

 握り締めた拳が痛い。噛んだ唇も、また。
 なぜだか名前は泣き出してしまいそうだった。仙人界での修煉を厭ったことのない名前が。
 初めて、泣いてしまいそうだった。
 幼子のような名前を前に、楊ゼンは膝を折った。目線を合わせ、名前の瞳を覗きこんだ。

「……ありがとう。でも、僕が師叔を認めたのはそういうことじゃないんだ」

 楊ゼンは名前に言い聞かせるようにして語った。
 太公望の持つもの。そして楊ゼンにはないもの。それは資質ーー民を惹き付ける才である、と。

「師叔は己を犠牲にしてでも沢山の人を救う道を選ぶ。そういう人にこそ民衆は従うだろう」

 封神計画で真に必要とされるもの。それは純粋な力ではない。だから楊ゼンは太公望に着いていく。そう、決めたのだと彼は言った。

「名前にはまだ難しいかな」

「……なんとなくはわかります、けど」

 しかしそこまでされても名前は素直に頷くことができない。
 心にあるのは悔しさ。憧れの人が横から奪われた。しかも名前の知らない人に。
 それがたまらなく悔しい。悔しくて、羨ましかった。楊ゼンに敵わない自分が。楊ゼンに認められた太公望が。悔しくて、羨ましい。
 ぐちゃぐちゃの心のまま、「でも、」と名前は楊ゼンの両手を掴んだ。そして自分のそれで閉じ込めた。

「それでも一番お強いのは楊ゼンさまです。この崑崙で、仙人界で、……いえ、世界で、一番」

 師である玉鼎真人すら超えたといわれる楊ゼンの才。彼の持つ力。それが絶対的なものだと名前は信じたかった。信じずには、いられなかった。
 駄々をこねる名前に、けれど楊ゼンは応えてくれた。「当たり前じゃないか」と。

 ーーそうして月日は流れ、現在。

「どうでしょう?そろそろ太公望どのに顔向けできるくらいにはなったのではないですか?」

 楊ゼンに稽古をつけてもらったあとで、名前はそう訊ねた。
 7年前、名前は太公望の実力を知りたかった。楊ゼンが感服したという彼の資質を確かめたかった。
 その気持ちは、今も変わらない。
 だからたびたびこうして楊ゼンに聞いているのだけれど。

「……いや、まだ時期尚早だ」

「そうですか……」

 楊ゼンは厳しい。修煉を積み宝貝を得てもなお、彼は名前が人間界に降りることを認めなかった。
 自分ではだいぶ強くなったとは思っても、これではまだ太公望には歯牙にもかけられないらしい。まぁ楊ゼンを破ったほどの道士だ。それも当然か、と肩を落としながらも名前は納得していた。

「大丈夫、来るべき日には君にも手伝ってもらうつもりだから」

 落ち込む名前の頭を、楊ゼンは慰めるように撫でた。それだけで名前の目はパッと輝く。

「わたしも楊ゼンさまのお手伝いができるのですね!」

「あぁ、だから今はしっかり修煉に励むんだよ」

「はい!」

 楊ゼンを信じきっている名前は知らない。
 彼が意図的に太公望と会わせないようにしていることも。

「おとなげないな……」

 帰路についた楊ゼンが、哮天犬の上でそう自嘲したことも。