正妃の幸福
名前と邑姜の急速に縮まる距離。
それを面白く思わない男がひとりいた。
「また邑姜のやつと遊びに出掛けたのか?」
ーー他でもない、周の天子である。
彼は顔いっぱいに不満を描きながら、名前の腰に腕を回す。彼の頭は名前の膝にあり、ただでさえ少ない隙間が欠片もなくなってしまう。
襦裙越しに吐息を感じ、名前は「もう、」と困ったように笑った。
「遊びではありません、視察です」
「どっちにしろ邑姜とべったりなのは変わんねぇだろ」
「そうかしら……?」
「そうだよ」
今だってーーと、姫発は名前の手元を睨めつける。名前の手元、そこにある布地を。
名前は裁縫をしていた。邑姜に新しい着物を贈ろうと。
それは彼女に頼まれたからではない。ただ名前が彼女に礼をしたい、そう思ったから。
それを聞いた彼女が『強いて言うなら』と挙げてくれたのがこれだった。
『名前さんの刺繍、素敵だったから』
そう言われて張り切らないわけがない。
早速生地を取り寄せ図案に頭を悩ませ、そうして今、名前は邑姜のための衣服を仕立てている。
「でも邑姜さんにはお世話になったでしょう?」
「それはそうだけどよ……」
言葉では認めつつ、けれど表情は変わらない。面白くない。そう書かれた顔のまま。
帯となる布地に花文を織り込みながら、名前はクスリと笑った。
「……わたし、今がとても幸せよ」
手を止め、姫発の頬に手を添える。
「こうしてなんでもない……日常の中に、あなたがいることが」
幸せだ、と思う。
真昼に姫発と過ごせることが。自分の房室に彼がいることが。ーーそれが、当たり前となった今が。
幸せだ、と心底思った。
「名前……」
名前の膝から起き上がる。その流れのまま、彼は名前を腕のなかに閉じ込めた。
漂う竜脳の香り。以前ならこの匂いに名前の心は掻き乱されたが、今は違う。今はその香りに心地よさと安堵を覚える。
その胸元に、頬を擦り寄せるくらいには。
「俺も。……夢みたいだ」
掠れた声。耳朶が擽られる感覚。ーー高鳴る、心音。
名前を抱く力が強まる。でも、嫌じゃない。むしろ名前の方が縋っているんじゃないかとさえ思った。
「もっと早く言ってくれればよかったのに」
「あら、それは姫発さまこそ……です」
恨みがましい語調に、名前は顔を上げた。
自然と不満を形作る唇。膨らむ頬。感情のままに名前は手を伸ばす。
「こら、名前、」痛いだろ、と非難の声が上がっても気にしない。名前は口を歪めたまま姫発の頬を軽く引っ張った。
「言ってくださればわたしだってあんな真似しませんでしたのに」
ーーあんな真似。
それだけで姫発には通じる。あの日の、元宵節に起きた大事件を。
「……やめろよ、思い出したくもない」
姫発は自分の頬から名前の手を引き剥がす。そしてその指先にーー長らく剣を握っていないせいですっかり柔くなった肌にーー口づけた。
「心臓が止まるかと思ったんだぞ」あの日のことは、姫発のなかでずいぶん大きな瑕となっているらしい。太公望から名前が後宮を出るつもりだと知らされなければ、何をすることもできず名前の逃亡を許してしまっていたと。
その点については申し訳なく思う。し、名前だってあまり思い出したくはない。何しろひとりで取り乱し、ひとりで突っ走り、ひとりで恥を曝したのだから。
でも、何もそれは名前だけの責任じゃないと思うのだ。
「いい加減教えてくださいな。ね?いつからわたしのことを好いてくださっていたの?」
「……イヤだ、ぜってー教えねぇ」
「……もう」
あれから。
元宵節の夜に起きた大事件。正妃の後宮脱走未遂。前代未聞のそれは、事が明らかになる前に終息した。
その夜から名前は沢山の話をした。今まで避けてきたことを。姫発と、まっすぐ向き合って。
ーー姫発は、名前を好いている。それも、ずっと前から。
それを知っていたら名前も逃げ出そうなんて考えなかった。でも、話さなかったのは姫発なりに考えた結果なのだと事件の夜に話してくれた。
『……そんなこといきなり聞かされたらお前が困ると思ったんだ』
少しずつ名前に受け入れてもらうつもりだったのだ、と。
国が落ち着き、王としての自分に自信がついたあとでーーその後で、改めて名前に伝えようと考えていた。
彼は恥ずかしそうに目を逸らして、そう語った。
結局のところ、名前も姫発も自分を……互いを信じていなかった。二人とも、この結婚が政治的なものだと思い込んでいた。
それがすれ違いの始まりだった。
でもそれが具体的にいつからなのかはどうしたって教えてくれなかった。
「そう言うお前はどうなんだよ」
「え?」
「いつから、その……俺を、」
口ごもる姫発。その頬は赤らんでいて、名前までつられて熱が上がる。まるで熱帯夜に迷いこんだみたいに。
「それは……」答えようとして、名前は考える。
いつから。いつからだろう、彼を異性として意識し出したのは。
思えばそれはひどく曖昧なものだった。だって思い返すと今よりずっと前からーー革命が終わるより前から、意識していたような気がするからだ。
例えば彼と己の体格差を突きつけられた時だとか。例えば彼に手を引かれた時だとか。
例えばーーそう、彼を庇った名前に、他でもない彼自身から怒られた時に。
でも明確になったのは。彼の隣で生きたいと。その背を追うのではなく、同じ景色を見たいと。そう、願ったのは。
「わたし、求婚された時からあなたに恋していたわ」
求婚といっても名ばかりのそれは、世界が標を失う少し前に起きた。
仙道たちが最後の戦いへ赴く直前、殷を倒したすぐ後で。彼は言った。
『……俺と来い、名前』
名前にはふたつの道があった。仙道として生きていく道と、人間として生きていく道と。そのどちらを選んでも、名前は多くを失うことになるだろう。
それでも今の道を選んだのは、姫発にそう言われたからだ。そう言われたときに他を捨てる覚悟ができたからだ。
だからこの時から姫発に恋をしていた。他を擲ってもいいと、そう思えた。
しかしその答えに姫発は、不満そうだった。
「なんだよつい最近じゃねぇか」
俺なんか。
そう言いかけ、姫発は口をつぐんだ。俺なんかーーその先の言葉に名前が思いを巡らせる間も許さず、彼は名前の唇を封じる。
「……よーくわかったよ」
「姫発さま……?」
「いいか、名前、俺の方がずっとずっと悩んでたんだからな」
「は、はぁ」
「だから俺はもっと我儘を言ってもいいはずだ。そうだろ?」
答える暇はなかった。はいともいいえとも。
その前に、姫発は名前が縫っていた布を名前の手の届かないところまで遠ざけてしまった。これではもう作業はできない。そしてそれが姫発の目論見であった。
「いいか、当分は言うこと聞いてもらうからな」
そうは言うが、真実彼が名前を縛ることはない。
元宵節以来、名前の生活は大きく変わった。
まず掖庭宮からの出入りの自由が許された。
通常ならあり得ないことだ。けれど宮に入る前の名前の地位と実力を考え、いざというときに周の力となれるよう取り計らわれた。姫発の許可を得、供を連れさえすれば遠駆けをしたって構わない。姫発はそう言った。
本当はもっと早くにこうするべきだった。そう悔やむ姫発は、名前の心中を察していたのだ。でも怖かった、と彼は言った。
『お前は誰かを護るためなら自分を犠牲にするだろう』
だから囲った。それが名前の意に沿わぬと知っていて、なお。
そんなことがあった後だ。姫発の我儘なんてかわいいものだろう。
「……望むところです」
名前は微笑み、今度は自分から唇を重ねた。
名前が本当に欲しかったのは自由じゃない。後宮から出るのも、馬に乗るのも、剣を振るうのも。
本当に欲しかったのは、姫発から必要とされることだった。彼からその言葉を貰えただけで、本当のところ名前は満たされていた。
でも、彼が良いというのなら。
「わたしも、我儘を言ってもいいですか」
盛りの蝋梅を、共に眺めたい。次の冬も、またその次の冬も。
この室から共に庭院を。蝋梅も桂花も牡丹も水仙もーー四季折々の景色を、彼の隣で見ていたい。叶うなら、永遠に。
「……それくらい、簡単だ」
姫発はまた名前を抱き締めた。その腕のなかで名前は季節の移ろいを感じていた。
ーーあぁ、この地にも春が来たようだ。