彼女の思惑


 掖庭宮に帰った名前たちを、邑姜は訳知り顔で迎えた。

「いいんです。私も太公望さんも、どちらに転ぼうと構わなかったから」

 迷惑をかけたと頭を下げる名前に、彼女はそう言った。その顔には微笑すらあって、名前はそれ以上を聞くことができなかった。
 彼女もまた、この時は話すつもりはなかったのだろう。事の真相。邑姜と太公望の企てた計画。名前の、そして武王のための謀を。

 宵節も終わり、人々が日常に帰った頃。
 「正直なところを言えば、」と邑姜は静かに語り出した。

「どちらに転んでも良かった、とは言いましたけど。でも私個人としては太公望さんを選ぶ方に賭けてました」

 太公望さんは違ったようですけど、と彼女は茶器を傾ける。
 名前と邑姜は庭院にある亭子にいた。ーー暖かくなってきたことだしお茶会でもしましょうか。誘いの言葉はしかし有無を言わせぬ響きを持っていた。
 亭子には二人以外人影すらない。それがまた空気を緊張させる。いったい邑姜は何を考えているのか。わざわざこんなところまで連れ出すなんてきっと余程の事情があるに違いない。
 悶々としていたものだから、卓布に並ぶ茶菓子の味もよくわからないし、いつ飲んだかも思い出せないのにいつの間にか茶器は空になっていた。
 そんな名前の様子を察しているだろうに、邑姜はなかなか本題に入ろうとしなかった。名前をからかうように、彼女は殊更に勿体ぶった。
 そんな彼女も、名前の顔色が白くなっていくのを見て、ようやく重い口を開いた。「ごめんなさい、百面相するあなたが可愛らしかったから」相変わらずの涼しげな顔で、いけしゃあしゃあと彼女は言った。
 どちらに転んでもーーつまり、名前が周を出ても出なくても、邑姜は気にしないと。むしろ出ていく可能性の方が高いと思っていたのだと。
 彼女はそう言うのだ。

「そ、それほどわたしの態度は酷いものだったのですね……」

「あぁ、いえ。そうではなく」

 自分でもわかるほど白い顔が今度は青くなっていく。茶器の中で揺れる面は愕然としていた。自覚はなかった。けれど、名前の武王への想いは端からはわからぬものだったのか、と。
 これまでの己を思い返し、狼狽える名前を、しかし邑姜は一言で制した。表情ひとつ変えることなく。

「私個人は、と言ったでしょう?」

 ーーどういうことだろう?
 それを名前が訊ねるより早く、彼女は笑った。
 悪戯っぽい笑み。それは普段の大人びた姿からは想像もつかない、年相応の娘の表情だった。
 けれど似合わないというわけではなく、むしろその容貌によく馴染んでいる。大人の老獪さ。子供の実直さ。相反するそれを違和感なく纏う彼女からは、太公望の気配がした。血は争えない、ということだろうか。
 名前の目は奪われた。かつて太公望に感じたのと同じように。澄んだ気配に、ある種の予感を抱いた。
 邑姜はその表情のまま、秘めやかに打ち明ける。
 「武王のことは勿論嫌いではないんですけど」と、前置きしてから。

「それでも私個人としては太公望さんを推しておりましたから」

 そう、言った。

「それは、どういう……?」

 けれど名前にはてんでわからない。邑姜が太公望を推していた。それはいい。いいとして、何に推していたというのか。
 「ですから、」疑問符を浮かべる名前に、邑姜は辛抱強く続ける。

「私、お似合いだと思ったんです。太公望さんと、あなたが」

「……え?」

 邑姜の噛み砕いた説明。それは童子にもわかるように柔らかくされていて。
 なのに名前の頭は受け止められなかった。
 お似合い。名前と、太公望が。
 言葉の意味はわかる。わかるようになった。が、しかし、意味が、理由がーー、

「だってそうじゃないですか。太公望さんもちゃらんぽらんですけど、武王と違って女好きじゃないですし。優良物件だと思うんです。私は御免ですけど」

 彼女は最後に余計な一言を置いて話を締めくくった。太公望が聞いていたら憤慨していたことだろう。
 そう頭の片隅で思いつつ、名前はその血を引く少女を見つめた。
 まじまじと見つめてみても、目でわかるほど二人が似ているはずもない。性差があるし、代も違う。
 でもその瞳が黎明の空と同じ色をしているのだけは名前にもわかった。
 太公望のたったひとりの血縁者。それは即ち、邑姜にとっても同じで。

「……太公望どののことを思っているのですね」

「……ああいう人は所帯でも持たないと落ち着きませんから」

 そこで初めて邑姜の表情が揺らいだ。決まり悪そうに。居心地悪そうに。名前から目を逸らし、口を尖らせた。
 彼女は太公望のことを案じているのだ。ふらりふらりと放浪の旅を重ねる彼を。
 名前は思わず頬を緩めた。

「そうですね……そういう未来もあったのかもしれません」

 でも、と名前は言葉を切る。
 胸にある灯火。閉塞感ばかりの掖庭宮に灯された光。姫発がくれた言葉。その温もりを、今の名前は知っている。知ってしまった、だから。

「それは今ここにいるわたしのものではないから」

 邑姜の思い描いた道を歩く名前もどこかにいるのかもしれない。
 けれどそれは結局のところ名前自身ではないのだ。ここにいる名前の心は既に占拠されている。たったひとり、この国の王に。

「……残念です」

 眉を下げる邑姜は、本当に残念そうだった。
 それがまた意外で、名前の口が滑る。思い浮かんだ言葉を、そのままに。

「でもわたしからすれば邑姜さんを好きになる方が余程想像がしやすいわ」

 これまでの掖庭宮における生活。慣れぬ地で戸惑う名前に一番親身になってくれたのが邑姜だった。だからもし名前が姫発以外に恋をするなら、それはきっと彼女にだろうと思った。
 そう言われた邑姜は目を丸くした。さしもの彼女も不意をつかれたとみえる。
 けれどすぐに余裕たっぷりに口角を上げ、艶やかな目で名前を見た。

「それもいいかもしれないわね」

 なんてね、と彼女はそれを戯れとした。ひょいと肩を竦め、また茶器を傾ける姿からは先程の色は感じられない。
 だが、名前はそうじゃない。

「心臓に悪いわ……」

「そう思うんならその天然タラシをなんとかしなさい」

 胸を押さえる名前に、邑姜はピシャリと言い放つ。
 突き放すような物言い。しかし彼女は変わらず笑っていて。
 名前もつられて口許を隠した。