私たちを繋ぐもの


 低所得者の集まる貧困地区。ビニールシートが住処のホームレスがたむろする通りに、男のアパートはあった。共同住宅2階、11号室。中身の出たソファと簡易ベッドと木製の机があるだけの部屋に男は住んでいた。
 男には夢も希望もなかった。這い上がる権利を失った脱落者。ただ堕ちていくだけの男にとって、賭博くらいしか気を紛らわすものはなかった。そしてそれが男の運命を決した。
 「ほんの4200ドルじゃないか」男は奥歯をガタガタ言わせる。「4200ドルぽっちだ、すぐに返すさ。”それ”を使う必要なんざないだろう?」
 男はコカインの売人だった。大きな組織から卸された薬を売るだけの末端の人間だった。だからだろうか。負けがこんだ男は、売り上げの一部を賭け事に貢いだ。まずいことなのは分かっていた。けれどだからって拳銃を持った女が乗り込んでくるとは思いもしなかった。
 「4200ドル」女は復唱した。「確かに私たちからすれば大した金じゃない」
 そう答えた女は、男の部屋に普通に入ってきた。玄関から、鍵を使って。その鍵をどこで調達したのかという疑問は、頭に拳銃を突き付けられたことでどうでもよくなった。
 汗をダラダラ流しながら、男は懇願した。「そうだろう?だからこんなバカげた真似はよしてくれ」
 女は無表情だった。黒のスーツが喪服のようで、男は泣いた。

「頼むよ、見逃してくれ。こんなことはこれっきりだし、これからはもっと働くから」

 それに対して、年若い女は撃鉄を起こすことでもって応えた。潰れたような悲鳴を上げる男を見る女の目には、やはりなんの感情も乗っていなかった。

「そういうのは友達にだけ使うものだ」


 9番街を東に歩いている時だった。ノーリのすぐ横で車が止まった。ドアウインドウが下がるのを見て、彼女はアービーズのローストビーフサンドイッチから顔を上げた。
 車内には見知った顔が二つ並んでいた。ベルモットにバーボン。ベルモットの方は日本に行ってるんじゃなかったっけ、とノーリは首を傾げる。

「どうしたの」

 ベルモットの手招きに、ノーリは身を屈める。彼女の耳元で、大女優は言った。「あなたに仕事を頼みたいの」と。

「そういえば、お仕事お疲れさま」

 後部座席に乗り込むと、振り返ったベルモットがウインクをくれた。器用なことだ。さすがハリウッド女優。

「大したことじゃない」

 その目はまだサンドイッチに注がれている。それから、染み一つないリアシートを見た。「食べてていいですよ」バーボンは後ろに目がついているらしい。探り屋っていうのはそういう生き物なのだろうか。「……やめておく」ノーリはサンドイッチを袋に戻した。昼食くらいなくても生きていける。

「そういうことをせずに済ませられる人の方がよほど優秀だと思う」

 ミラー越しにバーボンと目が合った。しかしそれは一瞬のことで、ベルモットが大きなため息を吐くと逸らされてしまった。そうでなくてもノーリに彼の心中を知ることはできないのだが。

「まぁたそんな甘いこと言って……。ジンが聞いたらおかんむりよ」

「ベルモットは言わない、そうでしょう」

 やれやれとばかりにベルモットは両手を上げた。「困った子ね」そう言うけれど、彼女はノーリにジンに尻尾を振れと命じたことはなかった。とはいえ、彼女は一介の兵隊にすぎない。幹部に命令されたら嫌でもやらなくっちゃあならない。
 昨晩のこともそうだった。ノーリは売人の男を一人手にかけた。男は金を持っていなかったし、何より組織に非協力的なグループの賭け事にご執心だった。そういうところから綻びが生まれるかもしれない。ようは、見せしめだ。
 そんなだからノーリの気分は決していいとは言えなかった。「それで、次の仕事って?」できればあんまり面倒なのじゃないといい。そんな考えを持つようになったきっかけの男を思い出しながら、ノーリはベルモットに催促した。
 しかし答えたのは彼女じゃなかった。

「あなたには僕と日本に来てもらいます」

 今度ははっきりとノーリを見て、バーボンはそう言った。
 「シェリーのことは知ってるわよね」ベルモットが引き継ぐ。「捜してほしいの、彼女のこと」

「今さら私が行っても役に立てるかわからないけど」

 ノーリは組織の手で訓練された集団、”フェンリル”の一員だ。発達した五感を活かした活動をしているから、人捜しなんかはお手のものである。だがシェリーの場合、彼女が消息を絶ってから随分と経つ。今頃、なぜ?ノーリの疑問にベルモットは肩を竦めた。

「さぁ?今回の件はバーボンの希望だから」

 ベルモットに倣って、運転席に視線を移す。二人に見つめられたバーボンは、しかし意味深な笑みを浮かべる。

「日本には別の用件もありましてね……」

 真意は分からないが、バーボンと行動を共にできるのは好都合だ。そうでしょう?もう記憶にしかいない男にノーリは問いかける。
 幻は、ただ微笑むばかりであった。