天化と少女


 殷の刺客は一癖も二癖もある者ばかりだった。
 だから彼女ーー名前が現れた時は安堵したし、正直なところ、真正面からの真剣勝負に心が踊った。金鰲島にも面白い道士がいるものだ、と。
 けれど、まさかこうなるとは思ってもいなかった。

「おはよ、天化くん」

 天化くんって案外寝坊助さんだったのね、だって私がここまでしなきゃ起きないんだものーー
 そう言った少女は天化の腹の上に馬乗りになっていた。
 そしてその状況に違わず、艶めいた微笑を浮かべていた。
 蒸気した滑らかな頬。蠱惑的に弧を描く唇。その赤に、視線が惹き付けられる。
 けれどそんなほのかな劣情を上回る感情が天化にはあった。
 だからその心に従いーー天化は悲鳴をあげた。

「そんな騒ぐほどのことでもねぇだろ」

「特に何かされたわけでもないしのう」

 天化の叫びに叩き起こされた黄飛虎は呑気にそう言った。息子の危機になど無頓着な様子で。
 しかもそれに太公望まで乗っかるものだから、天化は完全に孤立無援だった。

「親父も師叔もヤバさがわかってねーさ……」

 これは実際に体験した者にしかわからない。
 金鰲島の道士に迫られる。それ自体は土行孫も味わっているものだから別にいい。いや、よくないのだが、とりあえず横に置いておく。
 問題は彼女に声をかけられるまでその存在に気づかなかったーー気づけなかったことだ。しかも、武芸に生きてきた天化が、である。
 気配には人並み以上に敏感だ。その自負が天化にはある。なのに、気づけなかった。
 それは名前が天化以上の戦士であることの何よりの証である。
 そんな彼女に迫られる。それがどれだけ心臓に悪いか。

「マジで親父も師叔も全然わかってねぇ……」

 好かれて悪い気はしない。
 けれど、でもーー

「あれ、天化くんどうしたの?元気ない?」

 当の本人は天化の複雑な心境など露知らず。天化の隣に座ると、「はいこれ、天化くんの分」と羹の入った椀を差し出してきた。
 食欲を誘う香りが天化の鼻をつつき、わかりやすく気が緩む。

「はい、こちらはお義父さまに」

「おお、ありがとな」

「ん?わしの分がないぞ?」

「あるわけないでしょー?なんで太公望の分まで持ってこなきゃいけないのよ」

「おぬし……まったく、金鰲はどういう教育をしているのだ……」

 ぐちぐち言いながら太公望が席を立つ。
 こんな具合に名前ははっきりと線を引いている。天化とその家族、そしてそれ以外と。それはあまりにはっきりしすぎていて、逆に気持ちいいくらいだった。

「ね?おいしい?」

 小首を傾げ、問うてくる彼女。紅玉のような赤い瞳がちかちか瞬く。
 天化は「あぁ」と答えた。……のだと思う。
 不明瞭なのはその声がどこか遠いものであったからだ。己の喉から発せられたはずなのに、その掠れた声は意識の外側にあった。
 自分を覗きこむ、少女の端整な顔さえ。

「そっか、よかったーー」

 でも、と動く唇がいやにゆっくり見える。きゅっとつり上がる口角も。笑う目も。

「私が何か盛ってたら……とか考えないんだね。たとえばそうーー媚薬とか」

「〜〜〜〜っ!」

 天化は咳き込んだ。飲んだばかりの羹が変なところに入ったらしく息苦しい。

「大丈夫!?」

 噎せる天化を、張本人のくせに名前は慌てた様子で気遣った。天化の背を撫でる手。それは間違いなく労るもので、悪意は感じられない。
 だから、振り払うこともできなかった。

「ごめんなさい……、ちょっとからかっただけなの」

 天化が落ち着くや否や名前はしおらしく謝った。しゅんとした声。下げられた頭。懇願に組まれた両手。縮こまる肩。
 やはり、悪意はない。天化を上目で窺う瞳は揺れていて、少女の儚げな容貌に相応しい。その目の奥に嘘がないのもわかる。
 わかる、から。

「……わかってるさ。あーたがそういう卑怯な手を使うヤツじゃねぇってことくらい」

 つい、天化も許してしまう。
 彼女と直接剣を交えた経験があるからこそ。

「……やっぱり天化くんは優しい!大好き!!」

「うわっ!ちょ、抱きつくなって……」

「やだやだ離れない!!ていうか離さないもん!」

 周りの生暖かい視線をものともせず。名前は容易く愛を振り撒く。
 真っ直ぐな言葉。真っ直ぐな行動。飾らないそれは悪いものじゃない。
 が、しかし、恥ずかしいものは恥ずかしい。
 やっとのことで名前を引き剥がし、天化は肩で息をする。だが彼女の方はなんの疲労も見せず、その腕にぴたりと寄り添った。

「なんでそんなピンピンしてるんさ……?」

「んー?そりゃあ……愛かなぁ、なんて!」

「あぁ、そう……」

 きゃっ、と照れたように名前は頬を押さえる。それに天化の目は遠のいた。羞恥のポイントがずれている。それだけは天化にもわかった。

「あっ、そうだ!」

 名前は声を上げ、天化の腕を引く。寄せられた少女の体から立ち上る甘やかな香りに目眩がする。
 「安心していいよ……」耳元で囁かれる声。秘めやかなそれが体を縛る。脳に染み込んで、思考が呑み込まれる。

「媚薬とかそういうのは心配しないで。私からはなんにもしないから……」

 名前は、にっこり笑った。
 それは艶かしさすら感じさせる匂い立つような美しいものであった。けれど反対に、白百合のように無垢で純粋さを感じさせるものでもあった。

「やっぱりこういうのは男の子からじゃないと……」

「は……?」

「……なんでもない!」

 名前は食事もそっちのけで天化に抱き着く。
 幸せだ、とありありと描かれた表情。その笑顔を見ていると毒気を抜かれる。警戒しているのがバカらしくなるのだ。彼女が周に寝返ったのはたった3日前だというのに。

「これはマジにヤバいかも……」

「ヤバいってなにが?大丈夫だよ、天化くんを襲うような身の程知らずは私が全部殺しちゃうから」

「いやそうじゃなくて……」

 相変わらず彼女は物騒だし、会話は噛み合わない。
 なのに天化には予感があった。
 遠からず少女の言う通りになる運命が。