楊ゼンと少女


 楊ゼンはその少女のことを以前から知っていた。
 それは少女、名前が楊ゼンと同じだったからだ。彼女は楊ゼンと同じーー天才だった。
 自分より少し年下の、天才と呼ばれる金鰲の道士。そんな相手、興味を持たない方がおかしい。
 だから楊ゼンが名前と初めて会ったのは彼女が殷の刺客として現れた時ではない。それよりも前、楊ゼンは金鰲島に潜入した折に彼女の顔を見かけていた。もっとも、名前の方は覚えていないようだが。
 楊ゼンは名前に興味を持っていた。故にその来歴から彼女が周に寝返ることは想定の範囲内だった。
 けれど。

「あり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ない……」

 まさか、彼女の執着心というのがこれほど鮮烈なものだとは思ってもみなかった。

「私の目の前から天化くんを奪い取ったってわけ?何それ、あり得ない認めない許さない……」

 趙公明。突如現れた金鰲島の仙人。彼は人質を取ると太公望たちに戦いを申し込んだ。わざわざ場所と時間まで指定して。
 そしてその人質の中には名前が執着する男ーー黄天化も含まれていた。彼の父親も人質となっていることから察するに、彼らは武力以外の手段で捕らえられたのだろう。
 とにもかくにも趙公明の誘いに乗らなければ人質は解放されない。それは甚だ不本意なことではあるが、しかし強敵を潰す好機と考えられないこともない。趙公明が妲己と組んでいる以上、どのみちいずれは戦わなくてはならない相手なのだから。
 そう、楊ゼンが冷静に思考している間も、名前の周りには不穏な空気が漂っていた。
 いや、それは空気じゃない。名前を取り巻いているのは彼女自身の血液ーー噛み締めた唇や握り締めた掌から滲み出た血液が、彼女の周りで螺旋状の線を描いているのだ。さながら、鞭のように。
 それが名前の宝貝、そのひとつであることを楊ゼンは察していた。天化との一騎討ちでは剣しか用いなかった彼女の、もうひとつの宝貝。それが彼女の怒りに呼応しておどろおどろしく蠢いていた。

「よ、楊ゼン、早くアレをなんとかせんか」

「そうよ、アレ絶対ヤバいって」

 太公望も蝉玉もすっかり腰が引けている。それほどに名前の怒りは激しかった。
 名前の顔は俯いていて窺い知ることができない。ただだからこそガリガリと爪を噛む音がよく響いていた。彼女は妖怪仙人ではないのに、それよりもずっとそれらしい様子だった。

「……落ち着きなさい、」

 楊ゼンはひとつ息を吐き、それから名前の頭を叩いた。ほんの少し、軽く。
 だというのに、観客は揃って圧し殺した悲鳴をあげる。バカやめろ何してる刺激するな……色々と煩い声がするが、そのすべてを楊ゼンは無視した。
 名前も、また。

「楊ゼンさん……」

 楊ゼンを見上げるその目は、少女らしく無垢なものだった。無垢で、頼りなげでーー親をなくした子供のように見えた。

「君は天化くんがそんなに弱い人間だと思うのかい?」

「ううん、思わない……」

 だって天化くんは剣技だけで私に勝ったんだものーー
 名前の目に光が宿る。それこそが天化が彼女に与えたもの。
 真剣勝負。宝貝での戦いが基本の仙道のなかで、唯一彼女に応えてくれたのが、彼だった。剣以外を封じた戦いで、そのなかで彼は名前に勝利した。
 だから。

「彼を信じられるね?」

「うん……、うん、そうだよね」

 ふ、と名前の周りを漂っていた赤い靄が消える。憑き物が落ちたかのように。彼女の心と連動して、それは落ち着きを取り戻した。
 その代わりのように、今度は少女の頬に朱が差す。羞恥。恥じらいに潤む瞳は、艶やかに色づいていた。

「ごめんなさい楊ゼンさん、私、ちょっととんじゃってたみたい」

「いや、君が動揺するのも仕方ないさ」

「うん、でも……」

 名前は指先を遊ばせていた。
 それは幼児の仕草に似ていて、少女の容貌にはよく似合っていた。
 けれど、その唇が紡ぐのはそれとは真逆の静かな声だった。

「もしまたあぁなっちゃったら……戦いの邪魔になっちゃうから……」

 名前はひたと楊ゼンを見上げる。
 そこには天化に向けるような激しい感情はない。けれど代わりに揺らぎのない信頼がはっきりと見てとれた。

「その時には……楊ゼンさん、あなたに止めてほしいの」

「……あぁ」

 楊ゼンが頷くと、名前はやっと力を抜いた。
 掌から流れる血も止まり、欠けた爪もいつの間にか修復されている。やはり、彼女は侮れない。彼女の底はまだ見えない。
 それでも名前に嘘はない。楊ゼンに向けた言葉も、天化への想いも。

「じゃあ早く行きましょ!まずは天化くんを解放して……そしたら彼に触れた指を切り落としてあげなきゃ。それから……そう!天化くんの自由を奪った代わりに足も潰さないと」

「ははっ、相手はあの趙公明だよ?」

「だからなに?」

 少女は指折り数える。自分の大切なものを奪った罰を歌いあげる。
 それをしたのが趙公明であると。彼が金鰲島の実力者であると、他でもない金鰲出身の彼女が知らないはずもないのにーー名前は心底不思議そうに首を傾げる。

「趙公明さま……ううん、相手があの趙公明だろうがなんだろうが罰は受けなきゃいけないもの。だから私、頑張るわ」

 この言葉にも、嘘は見つけられなかった。
 名前は本気だった。本気で趙公明を倒すつもりだった。相手が格上であろうが、少しも怯んではいなかった。

「……あんまり無茶はしないでくれよ、天化くんも心配するだろうし」

 この名を出すのは卑怯だろうが、仕方ない。あくまで優先するべきは封神計画ーーそれを阻むのは彼女だって許されない。

「そ、そうね、そうだったわ。天化くんはこういうの嫌いだものね」

 じゃあさっきのはナシね、と名前はあっさり持論を翻した。
 「封神だっけ?それで我慢するわ」彼女は笑顔で相変わらず物騒なことを言う。
 だが彼女の想いは確かなものだ。だからたとえ彼女の発言がいちいち血にまみれていようと、楊ゼンはさして気にとめていなかった。
 黄天化。彼がいる限り、彼女が道を外れることはないだろうから。