When I was a little girl


 名前の飼い主の安室透ーーもとい降谷零は忙しい身の上だ。安室透として私立探偵とカフェ店員を兼任する傍ら、バーボンとしての任務も行っている。その上降谷零としての本来の職務も全うしなければならない。
 これでは体がいくつあっても足りないだろう。そんな一般的な考えを、降谷零という男は軽々と飛び越えてみせる。なんの苦も見せず、涼やかな顔をして。

「警備点検?サミット会場の?」

 とはいっても名前の不安は尽きない。いつか過労で倒れるんじゃないか。そう、"彼"の予定を聞いた名前は顔をしかめた。

「次の日はポアロの出勤日だし……ラムからの指令もあるのに」

 来月始めに予定されている東京サミット。それは東京湾の埋め立て地にある統合型リゾート施設、その国際会議場で行われることになっている。
 サミットと同時に開業するリゾート施設、エッジ・オブ・オーシャン。だから警備の仕方を考えるにも時間がかかるだろうし、設備が安全に機能するかもよくよく確認しなければならない。それは名前も理解している。サミットが大国の絡む重要なイベントであることも。ーー公安警察である降谷零に大きな関わりがあることも。
 頭では理解しているのだ。けれど心までは追いつかない。特に名前の未成熟な心では。

「せめてポアロの出勤日を変えるとか」

「いや、行ける時に行っておかないと……今クビにされたら困るからね」

 代替案はすげなく却下された。おまけに「わかるだろう?」と有無を言わせぬ笑みを向けられては名前には歯が立たない。

「……わかった。けど、無理はしないで」

 結局こうなるのだ。いつもいつも名前が折れる。彼の強い意思を阻むことなど一介の飼い犬にはできっこなかった。
 この時名前が危惧していたのはあくまで彼の健康であって、その身の安全ーー外的要因のことなど頭にはなかった。
 サミット会場の警備点検。それだけを聞けばなんの危険性も感じられない。ただ降谷零も公安の一員として安全を確認する。それだけの仕事であるはずだった。

「ありがとう、名前。……心配してくれて」

 そう微笑む彼の顔が、体が、傷を負って帰ってくることなど、想像だにしていなかったのだ。


 聞き慣れた足音が響いたのは、ちょうどフライパンの上のパンが焼き上がる頃だった。
 和をコンセプトに作られた国際会議場。この日零が仕事に向かったはずの場所には国民も関心があるらしく、ニュース番組でもその内装が放映されていた。
 それを見ていて、ふと洋食に和を取り入れてみたくなった。そこで名前は以前聞き齧ったものーー豆乳を加えたパンによるフレンチトーストを作っていたのだ。
 降谷零は日本という国を愛している。そんな彼に食べてもらいたい。そう思っていたから待ちきれず、廊下に躍り出た。
 廊下から玄関までは一直線、そこに遮るものはない。だから名前には何もかもがわかった。玄関口に立つ降谷零から漂う血の気配にーーそれも右腕から強く香っていることに。

「……何があったの!?」

 名前は駆け寄った。駆け寄り、問いながら、答えを待たず全身を見回した。ひとつも、掠り傷すら逃さぬよう。

「……やられた、」

 爆発に巻き込まれたのだということは彼の纏う臭いでわかっていた。だが続く彼の言葉に名前は耳を疑った。
 ーーテロが、起きた。
 この日本で。それもサミットを控えたこの日に、サミットが予定されている会場で。
 感情を圧し殺した声で、彼はそれだけ答えた。答えると、怪我など感じさせない素振りで歩き出す。

「すぐに出なきゃならない」

 淡々と、彼は必要なことだけを名前に告げる。そうしながらも手を休めることはない。
 彼はクローゼットを開けるとぼろぼろになったジャケットを脱ぎ捨てた。ジャケットの肩口には穴が開いている。それほどの衝撃を受けたのだと、名前は唇を噛んだ。

「……手伝うわ、怪我、してるんでしょう」

「……助かる」

 彼の右腕は既に治療を受けた後であった。真新しい包帯の白。それに目を伏せ、しかし名前は何も言わず、それよりも白いシャツで覆い隠した。
 テロが起きた。降谷零の愛する国、日本で。それがどれほど彼の胸を痛めたか、名前には推し量ることしかできない。表情の削ぎ落とされた顔から。色のない声から。名前は察し、だからこそ彼の怪我を気遣う言葉を吐かなかった。
 その痛みなどより大切なことが今の彼にはあるのだと理解していた。
 そう、名前がすべきは彼を案じることじゃない。

「私に手伝えることはある?」

 身支度を整えた彼に、名前は静かに問う。
 名前がすべきこと。名前にできること。それはただ彼を案じることじゃない。そんなことは彼の助けにならない。
 だから、と名前は零を見上げた。
 彼はほんの少しだけ目を見開いた。けれどそれも一瞬で、すぐに表情は固いものになる。

「……爆発の原因が知りたい。このままだと事故として処理される。せめて事件として成立させないと」

 爆発現場となった厨房。そこのガス栓がネットからアクセスできるものであるという点に、彼は引っ掛かりを覚えたらしい。これを使えば爆破テロが起こせるのでは、と。

「まさかサミット前に決行されるとは思わなかったけどね」

 この自嘲に似た笑みは、公安警察から死傷者が出たからこそであろう。守るべき国民。守るべき仲間に犠牲が出た。もっと早くに気づけていたらーーそう悔いてしまうのは人として当然だろう。
 でも。

「そんな風に笑わないで」

 名前は彼の頬に手を添えた。傷ついた左頬、ガーゼが痛々しく貼られたそこに。その傷に、柔らかく触れた。

「これから最善を尽くしましょう」

 これ以上の犠牲が生まれないよう。それだけを今は考えればいい。

「アクセス元を辿ってみるわ。きっと証拠なんて残していないでしょうけど」

 それでも発信者のわからないアクセスがガス栓にあったと、それさえ明確になれば爆破方法の特定ができる。何より、事故ではなく事件として扱ってもらえる。第一段階であるそこをまず突破しなければ解決の道は開けないだろう。
 名前の言葉に、零は少し考える仕草を見せた。そしてすぐに顔を上げ、名前の肩に手を置く。

「そちらは任せた」

「あなたはどうするの?」

「……僕は、協力者を引っ張り出してくるよ」

 そこでようやく零の表情に変化が表れた。ニッと口角を上げた彼らしい笑い方。それはまだどことなく不格好なものではあったけれど、名前はほっと胸を撫で下ろした。
 そんな名前に、ふと零は瞳を翳らせる。

「ねぇ、名前」

 その囁きは、静寂に充ちた室内では驚くほど明瞭に聞こえた。
 窓から差し込む日差し。それの作り出す光と影。彼の目許に生まれた陰影は、彼の表情を隠してしまう。触れられないほど、遠くへと。

「僕は、恨まれても憎まれても構わないと思ってる。……それがたとえ、君でも」

 零の声音はひどく落ち着いたものであった。悲しすぎる言葉を吐いているとは思えないほどに。諦めではない静けさは、彼の覚悟の強さを感じさせた。ひとりであるからこその強さを。

「……それでも、私は信じるわ。私の直感を。あなたを信じて着いていくって決めた私自身を」

 降谷零。安室透。バーボン。その3つの顔を名前が知ったのすらまだ最近のことで、だからこそ彼についてはまだまだわからないことばかりだ。彼の過去も未来も名前にはわからないままだった。
 でも、だからどうだというのだろう。彼の隠されたものがなんであれ、彼の与えてくれたものは変えようのない真実だ。それを無視することなんて名前にはできない。
 だから、と名前は零の手を取った。冷たく強ばった手を。

「あなたはあなたの正義を貫いて」

「……あぁ」

 握り返されたのは一瞬。けれど彼が応えてくれた、それで名前には十分だった。
 公安警察である彼がこれから行う捜査。それに伴うものがなんであろうと名前は受け止めるつもりだった。
 だって名前は知っている。
 降谷零という男の持つ優しさを。