Dance to your daddy


 電話口の声は始まりから既に焦りを帯びたものであった。

「警察が来て、お父さんを逮捕するって」

 どうしよう、と言う毛利蘭の声には涙が滲んでいた。
 毛利小五郎。眠りの小五郎として有名な蘭の父が、国際会議場を爆破した容疑で警察に連行されそうになっているのだ、と。

「現場からお父さんの指紋が出たって……でもお父さんにそんなことできるはずないのに!」

 それを聞き、名前はあぁ、と目を閉じた。恨まれても憎まれても構わない。あの時彼がなぜあんなことを言い出したのか、名前にはわかってしまった。

「……すぐにそちらに向かいます。だから蘭さん、どうか落ち着いて」

「でも……」

「大丈夫、あなたには名探偵がついているのでしょう?」

「……うん、うん、そうだよね」

 名前は電話を切り、天を仰いだ。
 黄昏時、迫り来る闇夜は不気味に影を伸ばし、名前の胸を騒がせた。
 降谷零。今頃彼は安室透として予定通り喫茶ポアロで働いているだろう。こんな時になぜ?そう思っていたけれど、蘭からの電話で合点がいった。
 毛利小五郎にかけられた容疑。それはきっと降谷零の、公安警察の策略だ。
 降谷零は言った。「協力者を引っ張り出してくる」と。そしてその後すぐに毛利小五郎に嫌疑がかかった。
 名前にはもう協力者の正体が見えていた。こうなった以上、彼は舞台に上がらざるをえないだろうから。
 ーー江戸川コナン。
 今は小学生になっている高校生探偵。彼は毛利探偵のためならーー毛利蘭の笑顔のためならなんだってする。それは名前も同じだからーー名前も、降谷零のためならなんだってできるから。だからこそ彼がどう出るのか。敵と見なした相手にどんな行動をとるのか。

「……大丈夫、」

 今度は自分自身に向けて呟く。大丈夫、降谷零なら、彼ならどんな障害だって越えてみせる。たとえ江戸川コナンがどんな手段をとったとしても。協力者として御してみせるに違いない。
 そしてその上で降谷零ならばすべてを守ってくれるはずだ。毛利小五郎の嫌疑は晴れるだろうし、この事件も解決に導いてくれる。そう、名前は信じている。

「だけど彼女の泣き顔を見るのは……」

 耳にはまだ、電話越しのすすり泣きがこびりついていた。
 毛利小五郎が無実であると名前は知っている。知っているのに、苦しんでいる蘭を救うことができない。彼女は名前を友として思ってくれているのに。
 それでも名前は降谷零を信じている。彼の選択を。その選択こそが皆を救う最善であると。
 信じているけれど、少女の泣き声が名前には堪えた。


「お父さん!」

 公安警察に連行される毛利小五郎。その背に追い縋ろうとして、蘭は園子に止められた。

「こんなときに、なんであの男は来ないのよ……!」

 涙を流す蘭を抱き締めながら呟かれた園子の言葉。あの男ーー工藤新一。彼がここに、蘭の危機に駆けつけていることを名前は知っている。駆けつけながら、蘭を慰めることすらできないということも。
 工藤新一。今は江戸川コナンと名前を変えている少年を名前は静かに見下ろした。少年の顔は歯痒さに歪んでいた。無力感。今の彼は工藤新一ではない。工藤新一にできることが江戸川コナンにはできない。
 それでも彼にはまだやれることがある。
 小さな名探偵は事務所を飛び出して行った。
 彼の目的はわかっている。だからあえて着いていく必要はない。けれど、名前にも心配事はある。
 だから名前も蘭の側を離れて少年の後を追った。
 先ほどまであった公安の車は、既にビルの前から走り去っていた。代わりにあるのは少年の小さな影。
 それから。

「さぁ、知らないけど」

 喫茶ポアロのエプロンをつけた安室透がいた。
 名前はビルの影に隠れ、様子を見守る。江戸川コナン。彼が直情的な行動に出るとは思えない。それでも名前は安室透をーー降谷零を守るために息を潜めた。ほんの微かな可能性すら排除するために。

「ケガしてるね、風見刑事も安室さんも。つまり安室さんもいたんだよね、爆発現場に」

 隠し撮った風見刑事の写真。それを見せながら、江戸川コナンは問い詰める。
 しかし安室透はそんなことでは揺らがない。

「なんの話かわからないな」

 一瞬。写真を横目で見て、たったそれだけで、透は掃除の手を再開させる。さしたる興味もないとばかりに。

「サミット会場の下見をしてたんでしょ?」

 それでも少年は食い下がる。一歩も引かず。むしろ身を乗り出して。
 彼の言葉に、透の動きが止まる。それはほんの瞬きほどの時間ではあったけれど、少年には自身の言葉を肯定しているのと同じように見えた。
 しかしそれすらもわざとだろう、と名前は思う。隙を見せる。少年に、毛利小五郎を連行させたのが自分であると確信させるために。彼が確実に舞台に上がるよう。
 降谷零は今、冷酷な公安警察を演じているのだ。

「きっとそのとき、テロの可能性を察知した。だけど今のままじゃ爆発を事故で処理されてしまう。そこで容疑者をでっち上げた。違う!?」

 少年は店内に戻ろうとする安室透の背に追い縋る。推理を武器にして。警察官なら毛利小五郎を犯人とする証拠をゼロから作ることすら可能だろうと。

「警察はね、証拠のない話には付き合わないんだよ」

 それすら彼は容易くいなす。淡々と、冷静に。
 その姿に、追い込まれた少年の心は叫びを上げる。

「なんでこんなことするんだ!」

 痛みを孕んだ声。響き渡るそれに、名前は目を伏せた。
 江戸川コナン。彼と降谷零はあまりに違いすぎる。
 いやーー降谷零という男があまりに異質すぎるのだ。
 彼の白さ、純潔さーー汚れなき国への思いはいっそ恐ろしいほどである。
 だからきっと、少年と真に心を通わせることはできない。

「……僕には、命に代えても守らなくてはならないものがあるからさ」

 それが国であるか人であるか。たったそれだけの違いであるのに、二人の間には大きな隔たりがあった。
 店内へ消えていった彼の背中からは確かな覚悟が見てとれた。追求への明確な拒絶。それを感じ、音をたてて閉まるドアを少年は見上げた。嫌な予感に顔を強張らせながら。
 もういいだろう。そう判断し、名前はわざと足音をたてた。透とのやり取りに意識を奪われていた少年は驚きに目を見張る。
 しかしその目はすぐに鋭さを取り戻す。探偵の目。それに名前は安堵した。彼が、降谷零の協力者がまだ諦めていないことに。
 ならばあえて姿を表す必要もなかったか。心が折れているようなら焚き付けてやらねばと思ったが、やはりこの少年の心は驚くほど強靭にできている。こと、大切なものを守るためならば。

「……名前さんも同じ考え?」

 少年は標的を名前に変えた。探偵の目は油断なく名前の様子を窺っている。どんなものも逃さぬよう。事件を解く鍵を探す鬱陶しいほどの視線に、名前は内心辟易していた。
 本来探偵というものは、警察と並び、名前たちにとっては疎ましい存在である。それがこうも周りに溢れているのは名前自身の選択によるものだがーー彼以外にはどうしたって不愉快にさせられる。
 いかに彼、降谷零が特別なのか。その白さが尊いものか。実感しながら、名前は頷いた。

「すべてを守ることなどできない。それくらいあなたにだってわかるでしょう?」

「だけどこんなやり方は間違ってる!」

「じゃああなたがやってみせればいい。すべてを守る、その方法を」

 名前は殊更冷酷に冷淡に少年を突き放した。
 思った通り、少年は歯噛みした。安室透に続き、名前にもあしらわれ。少年の味わう無力感はいかほどだろう。

「……蘭の、友達じゃねぇのかよ」

 だから少年がそう溢したのも仕方のないことだろう。今このとき、彼は毛利蘭を想うただの少年に過ぎなかった。
 少年の顔には影が落ちていた。沈む夕日。迫る宵闇。落日の影。それは少年の小さな体躯を呑み込んでいた。その様は大いなる力に成す術なく溺れている現状のようであった。
 けれど這い上がってもらわなければならない。彼には止まっている時間などないのだから。
 彼にはーー降谷零には。

「彼は彼の正義に殉じる。止めたいなら示して見せるしかない。……真実を」

 少年は唇を噛みながらも駆け出していった。
 少年の去った後。静寂の押し寄せる中、ドアの開く軽やかな音がした。

「……これで、よかったんでしょう?」

「あぁ、上出来だ」

 顔を見せたのは安室透、江戸川少年に背を向けたはずの彼であった。
 透は痛々しい治療痕など気にせず、口角を上げる。よくやった、と。これで彼も本気を出さずにはいられないだろうと。

「僕も名前も表立っては動けないからね、彼に協力してもらわないと」

「それはそうだけど、」

 確かに江戸川コナン、もとい工藤新一の頭脳はたいへん優れている、らしい。名前としては認めがたいが、降谷零が一目置くほどに。
 でも降谷零にならば他にも手足となってくれる人材がいるじゃないか。
 そう言いかけ、名前は違和感を覚えた。目の前で笑う、彼に。

「透、……怒ってる?」

 声にも表情にも表れてはいない。けれど、纏う空気がほんの少し冷たい。ひりつくような感覚に、名前は眉を下げた。何か、気に障ることをしてしまっただろうか。
 その問いに、透は微かに瞠目すると、「名前にじゃないよ」と目許を緩めた。

「……怒ってるのは否定しないんだ」

「はは、少しだよ、少し」

 彼は笑いながら名前の頭を撫で続ける。そんなことをしても楽しくないだろうに。いや、名前としては気持ちいいから一向に構わないのだが。

「子供に隠し撮りされて気づかないっていうのは……警察として困るだろう?」

「それは……まぁ」

 隠し撮り。その単語で察しがついた。降谷零の怒りの対象に。
 部下の不始末。警察官でありながら、一般市民に油断していた。あってはならないことだ、けれど。
 あれはただの少年とは違うのだから、と名前は風見刑事に同情した。どうかこれ以上の失態は犯さないでほしい。降谷零の作戦のためにも。その心の安寧のためにも。
 しかしそれは叶わないという予感も名前にはあった。
 なにしろ彼は小さな名探偵に目をつけられてしまっているのだから。