天化と少女
多大な犠牲を払うことで仙界大戦が終結した後。崑崙の仙道たちは皆、一時的に西岐へと身を寄せていた。それは武成王黄飛虎を失った黄一族とて例外ではない。
既に懐かしさすら感じられる武成王邸にて、天化は目を覚ました。
静寂が広がり、どこか寒々しさが漂う部屋。
こんな仮の住まいにも武成王の影は残っているのだーー。
常ならばこの時間にはもう響いていた父の声を思い出し、天化は苦笑した。らしくない。そう思っても、胸に巣食う空虚を埋める術は見つからなかった。
大戦で傷を負った者は多い。だから西岐の世話になっているとはいえ、何か仕事を与えられているわけではない。傷を癒すのが先決だ、と言うまでもなく皆理解していた。
そうはいっても手持ち無沙汰なのもまた事実で。未だ眠りに就いている家族を置いて、天化はひとり屋敷を後にした。
西岐の空は今日も気持ちいいほどに晴れ渡っていた。
ーーさて、どうしようか。
行く宛も理由も天化にはない。けれどひとまずは西岐城に向かおうと足を進めた。城にならば誰かしらはいるだろう。そう考え、最初の角を曲がった時だった。
「ーーぁっ!」
甲高い声。少女の聞き慣れたーーけれど近頃は隣になかった懐かしい声に、天化は目を見開く。と同時に、無意識のうちに手を回していた。
同じように驚き、よろめいた少女の腰へと。
そんな不自然な格好のまま、ふたりは固まった。天化も、少女ーー名前も。
しかし先に動いたのは名前だった。
彼女は持ち前の身軽さでパッと天化から距離をとり、にこりと笑った。
「こんな早くから天化くんと会えるなんてびっくりしちゃった」
「あぁ……、なんか目が覚めちまって」
「ふぅん……、まぁそういう日もあるわよね」
その笑顔も言葉も天化には馴染み深いもののはずなのに、なぜだか違和感を覚えた。笑顔も、言葉も。何もかもが作り物くさく感じられた。
「こっちに向かってるってことはお城に行くつもり?」
背後に視線を走らせた名前に、頷きでもって返す。「特に用はないんだけどな」と言い添えて。
そうしても名前の表情にさしたる変化はない。常ならばもっとーーそこまで考えたところで、訝しげな視線に気づく。
「どうしたの?」
問いかける紅い瞳。その遠さに胸が痛む。
なぜだろうか?そう己に問い、その愚問さにまた苦く笑った。
本当はわかってる。わかっているのだ。けれど。
「……いや、なんでもねぇさ」
遠ざかった温もりに物足りなさを感じていた。それは天化にもわかっている。自覚している。なのに、名前は気づかない。いやーー気づかぬフリをしていた。
だから天化もそれ以上問うことができなかった。ただ彼女に「一緒に行くか?」と聞くことしか。
名前は少し考えるそぶりを見せた。
その時点で天化は期待していなかった。けれど予想に反して彼女は頷いた。
「そうね、そういえば最近そちらに顔を出していないし……それに今後のこと、楊ゼンさんに聞いておかないと」
理由を並べ立てる様は言い訳でもしているかのようだった。
その理由の中に天化の名前はない。そのことに微かな痛みを覚えつつ、天化は笑った。ひどく不格好な笑みに、また「らしくない」と思いながら。
「名前はこっち帰ってから何してたんさ?」
道中、名前から会話を切り出すことはなかった。
だから天化は迷いながらーー言葉を探しながら、口を開いた。
「私?私は……そうね、大したことはしてないのだけれど、」
名前の紅い瞳は石のように無機質だった。そうしているとその整った容貌も相まって、ひどく冷たい印象を受ける。
まるで、そうーー初めて戦った時と同じように。
少女は髪を弄りながらゆっくり答えた。彼女もまた、言葉を探すようにして。
「ほら、私って金鰲出身でしょ。だから三姉妹のところで残った者たちのための規律を作ったり統制を取らせたり……そんなつまらないことよ」
そう言って、彼女は肩を竦めた。
「それにあの戦いの後じゃ、こっちにはーー崑崙のところには居づらいしね」
そこで彼女が浮かべたのはらしくない笑みだった。らしくないーー自嘲を含んだ笑みだった。
その横顔は先程とは違う、触れたら壊れてしまいそうなほどに脆く感じられた。
けれど、いや、だからこそーー天化は名前の肩を掴んだ。
見開かれた瞳。驚きに満ちた顔。それでも先程よりはずっとよかった。先程の、悲しげなものに比べれば。
「金鰲だとか崑崙だとか、そんなの関係ない。名前は俺たちの仲間だ、そうだろ?」
何を躊躇う必要があったのだろう。彼女から距離をとるのなら、こちらからそんなもの縮めてしまえばいい。難しいことなど考える必要はないのだ。始まりだって、天化はそうやって彼女を制したのだから。
天化は真正面から名前を見つめた。その身長差すら取っ払って。
「……っ」
先に目をそらしたのは名前だった。
「……はなして」
そう言った少女の声は頼りなく震えていた。戦慄く唇は泣き出す寸前のように天化には映った。
だからこそーー
「いやだ」
天化が手を離すわけにはいかなかった。何があろうと、彼女の手を離してはならない。そう、決めていた。
それは大戦が終わってからずっと思っていたことだった。
名前、彼女はいつだって天化を守ろうとする。守るために躊躇なくその身を投げ出す。
そんな、彼女だから。
「……俺は、あんたまで失いたくはねぇ」
天化の目標はいつだって父である武成王だった。父を越えるために仙人界を選び、修行を重ねてきた。人間界に降りたのも、父の力になれると思ったからだった。
そう、いつだって行く先には父の背があった。それだけが天化の足を進ませていた。
けれど、そんな父はもういない。
紅い雨のなか。消えていく父の姿。それはあまりに突然のことで、暗闇に放り出されたような気分だった。標を失い、天化はたたらを踏んだ。
それでも今歩いているのは他でもない、彼女がーー名前がいたからだ。彼女の背が、天化を庇い戦う姿が、父のそれと重なった。それは父へ抱いたのと似ているようでまったく異なる感情だった。
だから、今はもう。
「親父だけじゃねぇ。俺っちはあんたも越えたい。あんたが手を出す暇なんてないくらい、強く」
父の志を継ぐ。そして名前を越える。越えてみせる。そのためには、彼女から手を離すわけにはいかない。
「だからーーそんな、悲しいこと言うなよ……」
手を離したくないと思った。
天化は激情のままに名前を抱き締めた。
抱き締めた身体は拒絶の色を示さなかった。ただ、「どうして」というか細い声が耳朶を打った。
「どうしていつもそうなの。どうしていつも……ほしい言葉をくれるの」
名前の声は濡れていた。
顔を上げた彼女の目は赤く潤んでいた。そしてそれを美しいと思ったのもまた事実だった。
彼女は小さく「ごめんなさい」と言った。
「ただ……言うべき言葉が見つからなかったの」
天化が感じていた通り、名前は天化から距離をとっていた。それはひとえに天化にーー近親者を亡くした者にかける言葉が見当たらなかったからだ、と。
「大戦ではみんな何かを失ったわ」
でも名前にはそれがなかった。最初から名前は何も持っていなかったのだから。
「そんな私に、あなたの隣に立つ資格はないでしょう?」
あまつさえ、名前は武成王を守ることすらできなかった。守りたいと、守ってみせると、そう決めていたのに。
名前は眉を下げ、もう一度謝った。伏せられた目は少女の顏に影を作り、一層頼りなさげに見せた。
そんな彼女の頭に天化は手を乗せる。
「バカだな、名前は」
殊更に明るい声で、天化は続けた。
「名前だってなくしたじゃないか。金鰲も、殷も。あーたのこれまでの居場所は、全部」
もう名前の居場所はここにしかない。その代わり、ここだけはーー自分の隣だけは守り抜こう。そう、少女の耳許で誓って。
「だから、そんな暗い顔すんな」
「天化くん……」
朝焼けが少女の真白い頬を照らしていた。
金糸は日差しに煌めき、眩しいほどだった。紅い瞳は紅玉の輝きを放ち、甘やかに溶けていた。
その姿に目を細めた天化に、名前は目許を緩ませた。
彼女の手が天化の腕を伝い、鼻孔を少女の甘い香りが擽る。
触れたのは一瞬。頬には柔らかな感触だけが微かに残っていた。
それでも衝撃に固まる天化に、名前は笑みかけた。
朝焼けよりも眩しい、蕩けるような笑みを。
「あなたを好きになってよかった。……好きになったのが、あなたでよかった」
それはこちらのセリフだ、と天化はやっとのことで笑い返す。
最初からきっとそうだった。自覚はなかったけれど、だからこそ彼女に迫られて困惑しつつも嫌だとは決して思わなかった。
きっと、初めから運命じみたものを感じていた。
名前と同じように、彼女のことを。
朝靄のなか、ふたりは抱き合った。そうするのが自然だとでもいうかのように、天化は名前に顔を寄せた。
初めて触れた唇は涙の味がした。
それを不服と、やり直しを要求する名前に、天化は頬を掻いた。
「そーいうのは柄じゃねぇさ……」
「じゃあ私からする!今度はもっと万全な状態で!私が一番可愛い時に!!ロマンチックな感じで!!」
捲し立てる少女の頬はしかし、日差しでは誤魔化しきれないほどに赤く染まっていた。
それすら可愛いーーと天化には言えなかった。これもまたやはり、天化の柄ではないからだ。